あるいは死という選択

今日と同じような明日を生きるという選択もあれば、今日で終わらせるという選択もたぶんあって。ただその選択をするには楽じゃない方法論があって、スイッチを切るようには実現しないわけで。

一人でいることを気楽だと思う反面、一人でいることを寂しいとも思う、その相反する感情は、どちらかに寄せたとしても多分同じようにあって、結局生きづらいという感覚だけが残るんじゃないかと思う。

明日なんか来なければいいと思う、それは嘘ではなくて、毎日本心からそう思う。でも、来てしまう。明日が来ないようにする術を知らないわけではないが、それをしてしまうほどの行動力はなかったりする。

生きていることは幸せになることだと言った人がいるという。それはそれで間違いではないだろうけれど、で幸せの定義とはなにか。人によって違うんだと思うし、誰かの幸せが即ち自身の幸せとも限らない。

恋とか愛とか、そういう、他人を巻き込むことから遠ざかって久しく、人間が苦手という自意識からいろんな人を遠ざけて、なるべく一人でいようとしている。それはそれで処世術のような気もするし、一方でそこまでして生きる必要があるのか?という気持ちにもなる。

明日も生きている、という、慣性の法則的な未来が待っているとして、あるいは死という選択もあるんだと思う。今日で、全てが終わっても、良いと思う。そんな毎日を、過ごしている。

何も準備もしないで、何も用意もしないで、何も告げずに、誰にも知られることなく、この世からいなくなりたい。あるいは。

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