二人の「自分」

自分自身を客観的に、「他人の目で」見られるか?というのは哲学的問いかけではあるけれど、その主体が2人いることは、多重人格やその他諸々の使い分けにおいて問題視されたことはないと思う。

自分自身は「社会的に受け良い社交的な自分」と「わがまま放題の本当の自分」という両側面が共存していて、そのどちらもが「本当の自分」として他人の目には映るのだと思う。

社会というコミュニティ、会社というコミュニティ、友人というコミュニティ、どこにおいても、自分自身を偽ることなく「外向けの自分」を演じているわけで、その演じている本人が「本当に自分自身という本質」かどうかもあやしいわけで。

他人に見えている自分を本質とするのであれば、それはすべて虚像としての自分でしかなくて、では本当の自分はどこにいるかといえば、そんなものはそもそも存在しないわけで。

他人と関わる自分が本物なのか、一人でいるときの自分が本物なのか、その答えはきっとないだろうし、求めるべきでもないと思う。

でも、明らかに言えることは、他人と接しているときは「演じている」ということで、演じる主体としての自分がきっと本物なのだろうと思う。仮にそれが空っぽだとしても。


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