自由という不自由

なんでもやっていいよ、なにをしてもいいよ、制限はないよ、規則もないよ、などと言われたら「動けなくなる」んじゃないかと思う。

なんでもしていいというのはルールがないということで、自分自身がよっぽど自分を律する事ができない限りゴールもない。そのゴールのない状態を楽しめるか?というのがたぶん人生なんであって。

生きているということはいろんな制約があって、人間関係やお金の話やお仕事や将来のこと、そういう制約があって、その中に僅かな希望の光を楽しみとしてもっていることで、なんとか生きていけるというか。

もし大金持ちになって経済的な不自由もなく労働の義務もなくなったら何がしたいだろう。もちろんやりたいことはあるんだけど、「なんのためにするのか」が不明瞭になる気がする。

趣味にしろ息抜きにしろ、相反する労働であったり義務であったり、そういうものがあるから輝くわけで、闇のない光は光でしかないのだけれど、その光のありがたみが分かるのは闇があるからであって。

もちろん不自由より自由な方が好ましいとは思うし、なにかと不自由だとそれこそ闇しかない状態なわけで、その中に幸せを感じるのも難しいだろうとは思う。一方光しかない状態で光に感謝できるかというとそれもやはり闇を知っているという条件がつくのではないかと思う。

生きているのは難しい。もし簡単だったら生きていることに意味はない、のか。わからないけど。

自由でいたいと思うしお金もたくさんあればいいと思うけど、じゃぁ手にしたときにどうなりたいのかと言うと実は何も考えていなかったりする。身体的なハンディキャップもないし知的なハンディキャップもないし、まぁ強いて言えば精神的なハンディキャップは多少あるけれど。それはそれでしんどいのだけれど。でも、まったくの自由になったら逆に「動けなくなる」ような気がする。

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