ふらっと戻ってきてみたり

心理的にはずいぶん久しぶりな気がします。
たまーにチラッと覗いてみたり、友達の投稿は読んでみたりしてたんですけどね、どうもここに文章を書く気にならなくて。

なんとなく心が離れていた間、色々と考えることもあって、noteに対して感じていることもたくさんあるけど、結局のところは自分が何を求めるか明確にする必要があるのだよなぁ、なんてぼんやり思ったり。


音声配信を開始してから丸一年、去年のちょうどこのくらいの時期でした。
デバイスもツールもずいぶん増えたし、編集やら加工やらのスキルもだいぶ身に付いたように感じます。積み重ねって素晴らしいことですね。

あまり飽きっぽい性分ではないこともあって、このくらい続くのは想定通りではありつつ、なんだかんだ言っても、聞いてくださる方々や一緒に楽しんでくれる友達の存在はとても大きなものだと思う最近です。


僕は自分のことをクリエイターだと思うことはあまり無いし、何かクリエイティブな活動をしているとも思えていないんだけど、行動そのものはクリエイター的な側面があると思っていまして。ややこしいね。
すなわち、知り・考え・試し・放つ、のサイクルを回していればクリエイターっぽいんじゃないかしらん?ということで。

しかして、その活動の源になるものとは一体、と考えるワケです。
人それぞれなのだと言えばそれまで。
だけども、遠い誰かからインスタントに送られる感情っぽい何か、ってのが原動力かのように扱われているのはどうもしっくりこないのですよね。好都合にハックされてしまった環境ではなおのこと。

まぁもちろん、時代や技術の変化でクリエイターも変化するって話なのでしょうし、今までの社会では創造性を発揮できなかった人々が新しい形のクリエイターとして活躍していくのだとすれば、あながち捨てたものでもないのですけど。


大変興味深いことに、僕が始めたことが波及して同じように音声配信を始めた友達が複数人います。僕の影響と言うのは、ちょっと買いかぶり過ぎかもしれない。けど、誰かが面白そうにやっている何か、ってのは、他の人の内面を刺激して創造性を引き出すに足ることなのだと。

コンテストやら私設企画やら、キッカケはなんでもよくて。
"自分もやってみたい"と感じるその気持ちこそが創造性の萌芽なんじゃないでしょうか。なんて。

受動的な欲望は違うと思うのよ。僕はね。別にいいけどさ。


話を無理やり戻すと、やっぱりね、noteの繋がりの一部はもう少し掘り下げていきたいなーと思ってるんですよね。
どこか狂ったような、でもまともな、そんな人との繋がりがまだ残っている気がしてて、もしくはもう少し動ける部分がある気がしてて。

狂ったなんて表現、聞こえは悪いですけど、いつだって変革は小さなところ少数派から。何より、まともな人ほど抜けていく今の状況からすると、まともだからこそ狂ってでもないと残ってられないとも言えるのかもしれない。

あ、あくまでも概念的な狂気ね。


音声配信も文章も、言葉を使ってるのは同じなんだけど、声に出すってのはまたちょっと違うところがあって。

ここでは、声に出すには軽いことと

それから、声に出すには重すぎること

今後はそんな感じで書いていこうかなーという所存です。


引き続き、どうぞよしなに。

末尾ハンコ


読んでいただいてありがとうございます。貴重な時間をいただいていることは自覚しつつ、窮屈にならない程度にやっていきます。