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いいことをしてくれた時にはニコニコし、その人がいいことをしてくれないときは怒り、相手を失うと泣くのが私たち

東畑開人さんが『心はどこへ消えた?』のなかで「涙には3種類ある」というお話をされている。

1つ目の涙はたまねぎの涙。
2つ目は「脚本の涙」で、わかりやすい不幸に触れたときに流れるという。
そして3つ目が「個人的な涙」。これの本当の意味は泣いている人でなければわからない。

メラニー・クラインという特定のグループでは非常に有名だが、世の中一般では知っている人がほぼ皆無な有名人がいる。
彼女は「フロイト派」らしくふつうの人にはなかなか難解な「理論」を提唱している。

彼女によれば、赤ちゃんはおっぱいを飲む。
そのおっぱいが「よく出る」時は「いいおっぱい」なので、赤ちゃんはニコニコだが、充分に飲み尽くして「出が悪く」なると、とたんに「悪いおっぱい」になってしまうから「カミちぎってしまう」のである。

おいおい君が飲んだからなくなったんじゃないのか?
などという突っ込みは赤ちゃんだから聞く耳持たない。

「悪いおっぱい」しかもらえない自分は不幸だ!と泣きわめく。
これはわかりやすい。上記の「2つ目の涙」だ。

とはいえ少し成長すればさすがに「因果関係」というものがわかってくる。そこは人間の頭脳である。
すると「じぶん、チョーヤバイことしたんでわ?」とコワくなってくる。
もしかして、もしかするとだ。「いいおっぱい」と「悪いおっぱい」は「同じおっぱい」だったのでは?
それを「カミちぎって」しまったら2度とおっぱいが飲めなくなるのでは・・・!?

こうして後悔して泣くとすればその赤ちゃんは「個人的な涙」を流せるようになるほど、成長したと言えるだろう。
この種の内面の後悔ゆえに流す涙は、本人でないとなんで泣いているのかわからない。

そんなバカなと思うかもしれないが、大人になっても「いい●●、悪い××」とやってしまって後から後悔して涙を流す人はけっこういると思う。

つきあいたてのころには「年収が半分」だとしても「いいおっぱい」だと思えていたのだ。

しかしいろいろなことがあると「悪いおっぱい」が許せなくなる。だからこういうセリフも出てしまう。

とはいえ相手と絶縁したいわけではない。「カミちぎってしまう」のはついやってしまったことにすぎない。ものの弾みというものだ。

「個人的な涙」はこんなふうに静かに流れる。

(それにしても何でも話を聞いてくれておいしい料理を作ってくれる「真」と、年収が半分で頼りにならない「真」が同一人物だったとは! 出て行ってしまうまで気づかなかったぜ!?)