すなおに「甘え」られるかどうか
この「お母さん」は統合失調症とされていて、その通りだと思う。でも土居健郎さんの本にならえばこのお母さんはいかにも「甘えられない人」だ。
だから「甘え」というのはたしかにフロイトの精神分析の文脈によくマッチするのだと考えられる。
「甘え」とは人の好意をアテにすることだ。それだから肯定的な意味にも、否定される場合もある。
「あなたが人の好意をアテにしていいと思っていた?」と意地悪く言われかねないと警戒する気持ちが働く。
そういう「意地悪」に人いちばん過敏な人は「黄色いシチュー」が非難を招きかねないと先取りして空想してしまう。
「誰もそんなこと言ってないだろう」も攻撃にしか聞こえない。何も言われないことすら攻撃になる。
この態度全体が「甘え」とも言えそうだが、決して「すなおに甘え」られてはいない。けっきょく誰にも甘えることができない「母親」は「ムスメ」に甘えさせてもらうようになってしまっている。
ムスメが「お母さんのお母さんじゃない」のは事実だ。事実の認識が危うくなっている。これを「精神病」とも言うが、切実な気持ちの表れともとらえられる。
黄色いシチュー「なんか」を作って「ご飯も作れないって怒る」のは自分の「お母さん」なのだ。でも叱ったりせず褒めてほしいと心の中では「甘えて」いる。できれば褒めてくれるのは当然ながらムスメではなく、母親であって欲しいのである。
ここで「お母さん」は「ありがとう」と言えてはいる。けれども自分のムスメに向かって「ありがとうお母さん」を口にするのである。いかにこの人にとって「すなおに」は出せない言葉であることか。あまりに「すなおでない」ために他の人は正気を疑わざるを得ない。
黄色いシチューが「おいしそうだ」といわれて泣きだしたり、ムスメに向かって「お母さんありがとう」と言ったりするのは「たしかに表面的には了解困難であるが、しかし根本的にはこれを甘えの心理の病的変容として理解することが可能」というのはなるほどと納得できる。
そしてこれを繰り返していれば残念ながら「家庭的にも孤立」してしまう。その延長線に社会的な孤立に当然つながる。
社会的に孤立するのはなんといっても「犯罪者」である。先に引用した『反省させると犯罪者になります』の著者の岡本茂樹さんは犯罪を犯した受刑者であってもその「甘え」を受容されなければならないと考えている。