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性欲は無視できない 『"隠れビッチ"やってました。』

私はこの作品を折にふれて読み返すのですが、いろんな問題の「奥底」のようなものにふれられる思いがするのです。

茶化したような、ギャグ化したような、そのわりに深刻なような、何とも言えない作品なのですが、現代社会はまだ、この問題をこういうふうにしか扱えないようにも、思います。

この作品を読んで私は、私自身が間違いなく、「ヒステリー性」なのだと思い知りました。けれどもいまは、この言葉すら、ある意味では「禁止用語」に近くなってしまっていて、しかも意味がまったく理解されない感じがします。

ヒステリーとはなんなのか。うまく説明できる気がしませんが、あえて無理やりわかりやすくいえば

野放図に誰かと(異性とは限らない)イチャイチャしたいけど、セックスというものは怖い。そしてそのような気分をぜんぶ、否定しようとして、うまくいっていない

というようなところかな、と思います。しかしやはり不正確です。

女性がこれをする(無意識のケースも含め)と、さまざまな問題を自動的に引き寄せます。男性がこれをすると、まったく同じような事態を引き寄せ、しかもまったく違ったような様相を呈します。

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一見したところ、これはただの悪ふざけです。けれど「コクられた人数50人」となってくると、強迫的なものを感じます。ギャンブルやアルコールとはちがうのでしょうか? 止めようとすれば即座に止めることができるのでしょうか?

使うべきでない用語であることを承知の上で、あえて使いますが、「女性のヒステリー性障害」は多くの場合、父親との間に難しい問題(性的虐待を含む)をかかえ、ケースによっては母親との間にも難しい問題を抱えていることもあって、性的な問題があることを暗示しています。

セックスという問題は、取扱が非常に難しいものです。私はたぶん7歳くらいの時、将来、女性に向かって「愛の告白なんてものをしなければならないと思うだけで、気が遠くなって吐きそう」でした。そんな気恥ずかしくて難しそうなことを、自分が将来成功させられるとは、とうてい思えませんでした。そしてそのまま、その難しさを抱え込んだまま、20年は過ごしたと記憶しています。

7歳児なら、それでよいでしょう。しかし27歳で同じようだったら問題なのです。けれど人は、その難しさを、どこでどのようにして、乗りこえていくのでしょう? 私にはいまだによくわかっていません。学校で習った記憶は、ありません。

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けれど、どうやって「吟味」するのでしょうか? 片っ端からつきあってみて、吟味するのでしょうか? 吟味とはできるものなのでしょうか? なぜ「お母さん」は失敗しても、自分はうまくやれるのでしょう。

少し前、私は「イヴの3つの顔」というテーマで、やはりヒステリー(解離性同一性障害)を扱いました。あれは、ヒステリーが高じすぎて多重人格までいってしまった事例だと、私は解釈しています。「性欲」は決してそんなに簡単に抑圧しきれないのです。どうしてもその力を抑え込もうと思ったら、ひどい頭痛に訴えてでも、なんとしても「外」へ出ようともがくのです。

この頭痛はヒステリー性のものと思われるが、一般に頭痛が心理的原因によって生じるというと、その頭痛そのものさえ嘘のように思う人が多いが、実際は本人にとっていかにつらいものであるかを、彼女の言葉はよく表現している。実はこのときまでにすでに彼女の第二人格であるイヴ・ブラックはときどき出現していたのであるが、彼女はその存在にまだ気づいていなかった

河合隼雄さんは、イヴ・ホワイトが「ブラック」を押さえ込もうとして、その「人格交替」が起こるシグナルのようなものとして「つらい頭痛」を紹介しています。

イブ・ブラックは押さえ込まれまいとする彼女の「性欲」のようなものなのですが、にもかかわらず「セックスはしたくない」女性です。彼女はまるでヒステリー性そのもののような、不思議な存在です。

告白されるとめちゃ気持ちいい」し、「振り捨てるのもスゴイ快感」なのです。

このような例であれば、男性が多少の心の傷を負う程度(それも程度によってはひどい話ではありますが)ですむと考えていいのかもしれません。

しかし、このバリエーションで、女性の側の性的欲求への自覚が、もっと無意識の底に沈んでいると、かなりややこしい問題を引き起こすこともあるはずです。

どこから見ても病気とは見えない女性が、男性に接近します。本人に、「性的訴求」の意図はみじんもありません。それは、言ってみれば、「幼児の性欲」のようなものです。「父親思慕」を他人に投影しているようなものです。

しかし本人の心の中身はどうあれ、当人は27歳だったりします。「アピールをうけた男性」は、どうしても、女性に対して当然のように性的魅力を感じてしまいます。6歳の女の子ではないのです。

これを感知した女性が「ヒステリー性」だったりすると、男性に対して激しい嫌悪感を抱くのです。まるで人が違ったように、「乖離」が起きたかのようにそうなります。

父親は娘に対して、性欲を感じては、ならないのです。確かに実の親子であればその通りですし、多くの場合、問題にはなりません。けれど、世の中の一般の男性と、27歳の女性との間が、心理的にだけ「実の親子のように」親しくしているにとどまる、とは限らないものです。

もしもその男性が結婚していたら、どうなるでしょう。妻子があったら、どうなるでしょう。権力があったら? トシが40だったら? 50だったら? 60を過ぎていたら?

なんとしても忘れたくないのは、たとえばイヴ・ホワイトは、抑圧していた、なんらかの形で性欲を含んでいる「イヴ・ブラック」の「ときどきの出現」にまったく気づいていなかったところです。にもかかわらず、「ブラックのいたずら」のおかげで、変な服を買っていたり、変な男と一緒にいたり、帳簿に落書きしていたと責められ、会社をクビになりました。

私はイヴ・ホワイトに自然な同情心を覚えます。だから同じような理由で、もしも「ブラック」の挑発をマに受け、あとでホワイトから「セクハラだ」と訴えられる男性がいたら、同じように同情せずにはいられない気がします。あくまで仮定の話ですが。

誤解のないようにしておきたいのですが、私はべつに、社会はセクハラにもっと寛容になるべきだとか、女性の側の「挑発」を問題視すべきだといいたいわけではないのです。そんな事はいいたくありません。

私のいいたいことは、「無意識に人が行動を起こすことは現にありうる」のだし、その際には「性欲」がなんらかの形で強く関与している可能性も無視してはならない、ということだけです。誰だって、自分の知らない「落書き」のことでリストラされたらショックを受けるはずですし、でもそうしたことは「自分に限っては絶対にあり得ない」などと言える人は、おそらく誰もいないのです。

男女とも「性欲がない」などと言える人はおそらく誰もいないでしょうし、それがどのように、どんなときに作用しているか、私たちははっきり言ってよくわかっていません。「コントロールできる」と思っていることすら、コントロールできていない作用かもわからないと、思います。

以上のことを、きわめて専門用語的に、かなり受けの悪い表現で説明すると、たとえば次のようになります。

対象の受容ということは、ヒステリー症患者のうちに典型的に見られるところの、強烈な愛情関係のなかにはっきり表れている。けれどもそうした情緒的関係の大げさな表現は、かえって、対象への拒絶過剰補償されているのではないか、という疑いを生むのである。この疑いの正しいことは、ヒステリー症患者の、とかく乖離現象を引き起こす性癖によって証明される。そうした乖離現象が性器の拒絶を表していることは、あえて強調するまでもない。