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「空腹」が「在る」という妄想

お腹の中に「おなかがすいたがある」とか「ママのこえがしないわるいことがそこにいる」とかいう空想に脅えて赤ちゃんが泣きわめく。

「ない」というのは抽象的すぎてまだ乳飲み子にはわからないのだ。

だが私たちにしてもときどき「ないがある」に振り回される心理に陥る。

わりとよく出てくるのが「既読スルー」だ。この造語の存在がもう暗示的と言えるかもしれない。

「返信がない」だけである。母親が不在なだけである。「読んでおきながら無視するという攻撃がある」のと「返信がない」のとは違う。「おっぱいがない」のと「おっぱいを隠して嫌がらせしている」のとは違う。「在る」のと「ない」のは違う。

私たちは「ない」のと「攻撃がある」のとを簡単にイコールにしてしまう場合がある。それはその人に特有の弱点といってもいい。

現に、当人にとってはどれほど切実でも、通じない人にはまるで通じない。

「ラインがずっと既読になっていて、返事が来ない? 相手が浮気している? バカじゃないの? 被害妄想だよ!」

と平気でいう当の人が「自分があんなに力をいれて魂を込めて書いた記事のPVがぜんぜん伸びない! みんなYouTubeのくだらない動画ばっかり見る脳みそしかないせいだ!」とも平気で言う。被害妄想である。

私たちは「あるべきものがない」ときや「あってはならないものを目にした」ときに乳飲み子のような妄想に呑み込まれがちだ。

「ない」というのは「ただ単にない」のであって「あるべきものがない」わけではない。乳飲み子ならばしかたないとしても私たちはここで少しばかり「こらえ性」を発揮しなければならない。といってもごく短い時間だけの話だ。

ごく短い時間すらも「耐えられない」から赤ちゃんは瞬時に火がついたように泣くしかない。

ごく短い時間の苦しみにもちこたえることができれば「あるべきものがない」のは「ただ単にない」だけだとわかるし「あってはならないハプニングが起きた」のは「ただ何かが起こった」のだと気づける。

「あるべき」とは私が勝手に心の中で付け加えた形容にすぎない。それは私の不安と弱さに由来している。

乳飲み子ならしようがない。まだ現実に対応する能力が足りないのだから。乳は「出るべき」だし親は「いるべき」だ。おもしろいことにその「べき」は、まだ「べき」という思考以前の段階でこそ妥当な考え方なのだが。

ブログ記事を書けるほど現実に能力をもっているなら「1万PVはアクセスされるべき」とのストレスに耐えられずに泣くだけではなく「30PVあった」とたんなる事実に意識をまとめたほうがラクである。

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