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大好きなものと大嫌いなもの

マイケル・バリントという精神分析家の「オクノフィルとフィロバット」という専門用語は、何かとても魅力的な概念なのです。

多くの人が「大好き!」と答えるのに、同じものを多くの人が「大嫌い!」と答える、不思議なことがらがあります。けっきょくはセックスのことだろうと思うのですが、「べつにふつう」という人が少ないものがあるのです。

よく持ち出される実例として「ジェットコースター」があって、なるほど!と思います。ちなみに私は「大嫌い!」です。

ほかにたとえば「蜘蛛」などがあるでしょう。「好き!」な人は少なくなりますが、いないわけではなくやたらと好きだったりします。しばしば女性が。そしてやはり「べつにふつう」はたぶん少数派です。

私はこの概念を「分裂」ということについて考えるとき、すごくいい発想だと思うのです。ある種のことがらは、自分の中にオクノフィルとフィロバットを同時に抱えてしまうのです。

たとえばやめたいのにやめられない人にとっての「お酒」や「ギャンブル」などがいい例です。止めたい人はお酒を「大嫌い!」と思っているのに「大好き!」なのです。「べつにふつう」にしてしまえば楽になれるのに、そうできない。

また、被害妄想らしき人が「肉親」などについて感じている様子も、はた目にはこうしたところがあります。「親なんかいなくなってしまえばいい!」と本気で言っているのに、永年にわたりその「親」と同居していたりする。

逆に、「性欲は無視できない」の記事で書いたように、「ヒステリー症」な感じの人の異性へのアプローチにも、こんなところがあります。「大好き!」といって異性に近づくクセに、すぐに振り捨てる。こうした人には少なくとも「異性はどうでもいい」ということにはまずならないのです。

私は1つ、しょうもない例を考えたのですが「なっとう」はどうでしょう? 「大好き!」と「大嫌い!」が意外と分かれる気がします。親というのはなっとうのようなものだろうか?