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なぜ「現実」はいつも「妥協」の対象にされているのか?

グッドモーニングバイブス(GMV)を200回も続けてきた甲斐があったと、思いました。

人間ならではの発想だと思うのですが、私たちは奇妙な哲学を編み出しました。

現実に甘んじてはならない」というのです。

この言い方には、「現実」をすみずみまで評価し尽くした、知りつくしたというニュアンスがあります。

私たちは「現実」というものをそれほどよく知っているのでしょうか? 

どうして「現実」はそのように、どこか物足りないもの、不足したもの、理想には届いていないもののように、人間には感じられるのでしょう?

例えば下の写真も、どうやら「現実」を写したもののようです。

日記に幾度も書いているせいか、日常で起こるちょっとしたイライラ、ムカムカ、ソワソワとした気持ちは、「理想にとらわれるから辛くなるんだ、目の前の現実がすべてだ!」と言い聞かせることで早めに手放せるようになってきた気がします。

やままさん、ありがとうございます。そう、これもひとつの考え方です。

でも私は、つねに、いま目の前に、これ以上何ひとつベターにできない、完璧に理想的な風景が広がっているにちがいないと、信じているところがあるのです。

もともとラジオが好きなので、軽快なゲストトークだったり、リスナーからのパーソナリティいじりだったり、はたまた専門性や一貫性のある内容だったり、「こんな人気ポッドキャスト番組にしたい!」という理想は山ほどありました。
でもここにすがっている以上、理想と現実のギャップに苦しむことになります。

それは本当なのでしょうか? その「理想」は本当にすばらしいものなのでしょうか? うえに引っぱってきたすばらしい風景は、写真ではありますが、「現実の風景」です。(しかもおそらく日本の風景です)。「理想の風景」は写真には写せません。

現実の方が、そもそも完璧ではないでしょうか?

ポッドキャストやラジオにおいては、いじりがステキなのでしょうか? 専門性こそが価値でしょうか? 一貫性が求められているのでしょうか?

理想と現実のギャップとは、決まり文句です。この表現で、誰もがその意味を理解します。つまり「現実」とは「価値が低い」のです。それは客観的事実のようです。動かすことができない真理のようです。

3組の辺がそれぞれ等しいとき、2つの三角形は合同である。

まるでこれと同じように、「理想」と「現実」の間には「ギャップ」があって、「現実」とは「価値の低い方」なのです。

でもこの世界には、76億人以上の人がいるようですが、誰か1人でも、本当に科学的に立証できるでしょうか? 三角形の合同条件のように、証明可能でしょうか?

「現実は、何かが不足していて、その価値は低い?」

目の前にあるどんな現実についてでもいいのです。私の目の前には、仕事机があります。この現実の価値は、完璧ではなく、低いのでしょうか? 低いとしたら、なんででしょう?

「だって現実の価値は、低いでしょう?」という以外の説明が本当に可能ですか?