MP連載第二十一回:MPが現実に彩りを添える
私は「原稿を書く」というMPを使う作業に取りかかる前に、「タスクをどう配置するか」という行為にMPを使いました。
https://note.mu/rashita/n/nb9e9fd6248bf?magazine_key=m3221b02820a1
このように前回書いたとき、倉下さんは「タスクを配置するために少々のMPを使う」という表現にしています。
私たちはどうして計測器も持たないのに、ある行為に使うMPは「少々だ」とか別の行動に要するMPは「多大な消耗だ」とかいうことができるのでしょうか?
実感として、MPを「消耗している」という感じというのはあるものです。
会社の研修などでお話しすることがありますが、あれはMPを大いに消耗します。セミナーと何にもちがわないような空間で、セミナーと何にもちがわないことを喋るのに、MP消耗度だけはセミナーの2倍くらいに感じるのです。
MPというのは、「おいしいふりかけ」みたいなものです。現実というご飯に味付けをして、現実を「呑み込みやすく」してくれるものです。少なくともそういった機能を持っています。
「タスクを配置するために少々のMPを」というとき、そのように言っている人は「タスク管理をする」という「現実」をもともとかなり好ましく、有益なものとみなしているのです。「少々」というのは、「この現実の印象を好印象に変えるためなら、MPを「少々」使っても惜しくはない」と言っているわけです。
実測値が「少ない」という意味では、必ずしもないわけです。そもそも「MPを実測する」などということは不可能かも知れません。
どんな現実行為も、見方によっては有意味です。
しかし、現実であれば何でも好んで経験する気になる、という人はほとんどいません。現実という「ご飯」にはしばしば味付けが必要です。呑み込みにくいものであれば特にそうです。
たとえば私は「入浴」という行為が大好きですから、この行為にMPを「振りかける」必要はほとんどありません。(あるいは必要なMPを簡単に投入できているからそう感じるのかもしれません)。
しかし、風呂ぎらいの人というのも世の中にはいて、そういう人にしてみれば、入浴は「多大のMP」を要します。そうやってようやく「入浴を耐えられるレベルに変換」しているのです。
仕事の場合、「MP投入による印象の変換」はきわめて切実な意味を持ちます。
「やる意味がまったくない」ものほど、多大なMP投入が必要です。そうしないと「とてもやっていられない」からです。
「面倒くさそうなことでも、やっているうちに没頭している」ということは、どんな人にも経験があるでしょう。
そうなるのは、脳が「MPを投入することによって、やりたくないことの、やりたい部分に没頭しやすくしてくれる」からです。これがあるから、仕事というのははかどります。
しかし、MP残量が少ない時間帯に移ると、MP投入による印象変換がはかばかしくなるのです。面倒そうな仕事は、どうやっても面倒くさいまま。ご飯ぎらいの子供に、白米をそのまま食べさせるようなもので、息がつまります。
やりやすいことというのは、MPを投入しやすく、投入すればわずかなMPでも適切に機能するので、ますますやりやすく見えて、繰り返しやることになるわけです。私にとっての野球観戦がそうです。
やりにくいことというのは、MPの大量投入が必要で、まずその時点で脳としては同意しにくい。それでも大量投入できるときにはそうすることによって、「何とかやっていられる活動」に変換されますが、無理なときはひたすら飲みにくい丸薬みたいなものです。私にとってのジョギングはそんなものです。
その中間の活動というものもあります。MPの大量投入は要するが、そうすることでかなりたのしめる活動になるものです。でも終わるとグッタリします。ある種の人は飲み会や人との集まりが大好きで頻繁に顔を出しますが、でも必ずしも社交的でなかったりします。そういう人は、きっと帰宅して疲れ切ってしまうでしょう。
MPは現実に彩りを添えるために欠かせない要素なのです。