「精神分析」を「読む」
精神分析というモノは、本で読んでわかるようなモノではありません。というようなことを、よく精神分析家は書かれます。
だったらどうしてこの本が売られているんです? と突っ込みたくなります。そういう内心のやりとり自体が、すでにカウンセリングを受けているようなところがあります。
でも「精神分析を読んで勉強する」のには少なからぬ効用もあると最近になって理解しました。
ある種の物語やエッセイは、精神分析的な知識を要求しています。力量のある書き手は、知識がなくても楽しめるように書いています。しかしあるのとないのとではずいぶん楽しめる幅がちがってきます。
たとえば三島由紀夫さんの作品のいくつかは、たとえ「生半可な知識」でももっていたほうがずっと面白いはずです。『午後の曳航』などは典型的にその類いです。
というようなことを考えていたら、東畑開人さんの連載にぶつかりました。東畑さんはさすがで「精神分析の知識」など高校時代に習った程度でも理解できるように書いています。
でもたとえ聞きかじりであっても「内的対象」とか「投影同一化」などを知っていると、次の一節が「本当にいかにもそれらしく」読めてくるはずです。
「うまく眠れないのね」とその上品な老婦人は言った。ふしぎな訴えだった。時間としては十分眠れていて、睡眠の質も悪くなかったからだ。
だけど、よくよく聞いてみると、入眠前に、考えごとをしてしまう時間があって、それで「眠れない」と感じているとのことだった。
彼女が考えていたのは、父との幸福な記憶だった。
幼い頃に庭で一緒に蝶を採ったこと、大学の入学式のあとにレストランにいったこと。
なぜ今になって、そんなたわいもないことが思い出されるのかわからない。彼女はそう語った。
こうした「つかみ所のなさ」からまるでアルセーヌ・ルパンのようになにかを「わかってしまう」心理推理の妙に、私は子供の頃から惹かれたものです。
だからカウンセラーにも精神分析家にもなれなかったクセに、あるいはだからこそ、小此木先生や河合先生などの本を、小学校の頃から楽しみにして読んでいたわけです。
けれども大きくなって心理学の勉強などをしてみると、どうも先生方でも、ルパンや明智小五郎のようになんでもパッパと分かっているわけではなさそうだと気づきます。
私にもよくわからなかった。だからひとまず、様子を見ることにして、しばらく会い続けることにした。
すると、考えごと自体はすぐに消失した。私は特に何もしていないのだが、彼女は眠れるようになった。
しかし、彼女は来談をやめなかった。ふしぎな人だと思った。問題解決後も、自分の話をし続けたからだ。
人にもよるかもしれません。しかし私ならちょっと眠りにつく前に考え事をする程度で、カウンセラーのところには行きません。お金も時間も惜しいからです。
ということはなにか秘密があるのです。まさに探偵モノの典型的な一文ではないでしょうか。
何不自由のない恵まれた家に育ち、同じように恵まれた家に嫁いだ。
夫は優しく、経済的にも頼りがいがあった。子どもたちは立派に育ち、すでに独立した。今は定年した夫と二人で暮らしていて、趣味のピアノを楽しんでいる。そしてときどき、孫を預かるのを楽しみにしている。
幸せそうに見えた。実際、彼女も繰り返し自分は幸福なのだと語っていた。それなのに、なぜカウンセリングに来るのか。それがわからないから、私はなんとも居心地が悪かった。
なんだか「絵に描いたような描写」が続きます。実際こうした「恵まれた人」もいるのでしょう。なのにカウンセリングを必要としている。
本人は「幸福だ」と言っているにもかかわらず。
本音がどこにあるのか、尋ねても教えてくれない人がいます。本人にもわかってないケースも多いのでしょう。
しかし伝わってくる内容もあります。そもそもカウンセリングに来続けているのです。カウンセラーも「居心地が悪い」と感じています。なにか「心地が悪い」のを「幸福で上品な老婦人」は言外に伝えているようです。
あるとき、会話の切れ目に率直に聞いてみることにした。「なんのために、私たちはここに居るのでしょうね」彼女は不意を衝かれたようで、言葉を失った。遅れて意味が伝わると、しどろもどろになり、気まずい雰囲気になった。
こんな読み方は不謹慎かもしれませんが、それでも続きが気になりませんか?
私はあまりにもこの種の「続きが気になる」ものですから、オグデンだのウィニコットまで読まずにはいられなくなったのです。