人間関係はなぜ面倒くさいのか? 『ど根性ガエルの娘』②
『ど根性ガエル』の作者・吉沢やすみさんの得意のセリフは「面倒くさいなあ!」です。対人関係の中で発生してしまう、些細なことに敏感なのでしょう。
漫画化親子による対談の最中ですら、「キレて」しまって対談をこわしそうになります。
しかしこのマンガのすごいところは、このときの「対談」の内容も、きちんと収録されているところです。どこまでフィクションとして読むべきで、どこからが「裏話」なのか、もはや判別できなくなっています。
父・吉沢やすみさんは、
いつでも自分は関係を破壊するし、そうなっても平気だ!
というのがジョーカーです。切り札です。このカードをいつでも切れると思うことによって、おそらくは、対人関係における「面倒くささ」を乗りこえていけるのですし、これがなければ乗り切れない不安があるのでしょう。
ちょっとでも不快なことをされたり言われたりしても関係性をすべて否定し去ることができるなら、「自分はへっちゃら」です。
これを精神分析の用語で「躁的防衛」というのですが、これは「躁鬱」の躁です。一見「元気にふるまう」からこの名がついているのでしょうが、「防衛」であるからには「これで自分を守っている」のです。
吉沢さんは「平気」だと言いますが、実際はそうではありません。「母さん」である奥様の文子さんがいなければ、おそらく生きていくこともままならない感じの人です。
けれども「生きていくために対人関係の面倒くささ」を我慢するのは、この人には非常に耐えがたいところがあり、「オレは平気だ!」としてしまわなければ変な話ですが「生きていけない」のです。
やがて攻撃性を向けた対象と以前には私に慰めと満足を与えてくれた対象が同一であったことに気がつき、苦痛に満ちた感情を経験する。これが「抑うつポジション」であり、私たちのこころが同一性を確立できる基盤である。この経験を通じて、同じ一つの対象が自分に満足を与えることも欲求不満を与えることもある、独立した存在であることを知るのである。
「抑うつポジション」もフロイトの精神分析用語で、やや小難しいものの、私たちみんなよく知っているかなり苦渋に満ちた感覚です。夫婦や恋人と喧嘩別れしたあと、淋しくなるか、さびしさを紛らわさなければならなくなったとき、私たちはこれを自覚します。
「やがて攻撃性を向けた対象と以前には私に慰めと満足を与えてくれた対象が同一であったことに」気がつくわけです。いつも楽しく遊んでいた人はどこかに居なくなってしまいました、という話です。
吉沢やすみさんは奥様に攻撃を向け、娘さんを罵倒し、仕事を放棄して、対談をぶち壊してしまいますが、それらから恩恵を受けずに「平気で」生きていくのはなかなか難しいものです。
どんな人であっても、いつもいつも「(自分にとって)いい人」であってもらうわけにはいきません。「天使のような奥様」であっても、けっきょく人間であるからには、「本当はどんな人であるかわからない」のです。だからこそ「面倒くさい」のです。
その「面倒くさい相手」を愛していて、自分にとって大切で、とてもすばらしい人だと思っていたのでは、「人間関係」はよりいっそう「面倒くさい」ものになる恐れがあります。
むしろ、相手のことをつきあう価値のない、愛するに価しない人間とみなした方が、「切り捨てる」のは容易になり、対人関係を楽に考えることができます。
私たちのこころで躁的防衛の過程が働く時に、対象に向けられる感情は「征服感」「勝利感」「軽蔑」だとクライン派では説明される。躁的防衛に頼ることでこころの苦痛は減少するものの、抑うつポジションを通過して独立したこころを成立させることが困難となる。現実の歪曲を含む思考が優勢となることは、将来において適切に考える能力の発達を妨げることになる。
たとえば私たちがこの作品を読むとき、吉沢やすみさんのことを、どのように考えるでしょうか?
こんな面倒くさい人はつきあうに価しないとして、なるべく関わらない方が、生きていく上でラクだと、「自然と」考えてしまわないでしょうか。
しかしここでも大事なのは、できるかぎり判断を保留(エポケー)しておくことです。意味づけしないことです。客観的にこの人だけは「許しがたい」などと簡単にわかったことにしないことです。この話はまだまだ続くのです。