『佐々木さん、自分の時間がないんです』

新刊が出ました!

よろしくお願いします!

早速レビューまでいただき、ありがたい限りです。冒頭の1行からちょっと過大評価されすぎかなと思います。

佐々木さんは、仏教で言う「無我の境地」に到達した感がある

「無我の境地」は私などではムリだと思うのですが、このようにレビューしていただけるほど「自分の時間などなくていい」というテーマは、受け入れがたいということでしょう。

これは奇しくも、宗教的な信念の裏返しのようにも受け止められます。

「自分の時間などなくていい」というのが「無我の境地」のようだということは、

「自分の時間こそ絶対だ」という信仰心のようなものが、強烈だからだろうと推理してしまうわけです。

「自分の時間」がそれほどまでに大事なのは、「自分の時間」によって「自分の人生」を有意義なものにせねばならない、からだろうと思います。

しかし「自分の人生」が有意義だったか無意味だったかは、人間には決められないと思うのです。トータルの年月はわかりませんが、仮に私が死んだとき、全体で73年7ヶ月30日と7時間30分7秒だったとして、その「価値」を正確無比に計測することができるとすれば、神様か、それっぽいAIか、なんにせよいささか人智を超えた存在だと、考えられます。

簡単に言うと「ぼくじゃムリだ」ということです。

時間をどう使えば「価値があった」か「なかったか」がわからないのであるからして、私は「時間の使い方」ではムリをしない方がいいと考えるようになりました。

つい先日、主宰したオンラインセミナーにて、子供のころ、スイミングスクールの体操教室で、たくさんの子どもたちの真ん中でひっぱたかれた経験について話しました。羞恥心は感じたものの、罪悪感は感じなかったという話だったのです。

この経験、私はけっこうその後に尾を引いて、「あんなところでひっぱたかれさえしなければ!」とずっと思っていたけれど、その後すっかり忘れていたのです。それを先日ふいに思い出し、セミナーで非常によいサンプルとしてお話しできて

あの時ひっぱたかれておいて、本当によかったなあ!

心の底から思ったのです。

経験の善し悪しは、経験前はもちろん、経験中も、経験後であっても、判定できないといういい事例です。経験して30年以上経って、「いいところのまったく認められなかったその経験」が、ふいに180度、逆転する。そんなことがいくらもあるものなのです。

自分のためにしっかりと時間を使っていたら、坂本勇人の2000本安打達成の瞬間が、見られたかもしれない!それはたしかにすばらしいことかもしれません。

しかしそのとき、オンラインセミナーをやって、他人のために時間を使っていたからこそ、ひっぱたかれた経験を思い出すことができ、しかもそれはとてもいい経験だったと発見できた、ということでもあるわけです。

どちらがよかったのかは、神のみぞ知るところです。だから私は、時間の使い方について、成り行きにまかせた方がいいような気がします。