バランワンダーワールド考察② バランスタチューをがんばって考察してみよう

***この記事はバランワンダーワールドのネタバレを含んでいます***

前置き

身も蓋もない話だが、バランワンダーワールドのストーリーは小説版を読めばだいたい事足りる。…が、ゲームにあって小説版にないため、どうしても自力で解釈しないといけないものが大きく分けて2つある。

バランスタチューとティムズエリアだ。

なぜプレイヤー(レオ/エマ)はバランスタチューを集めなくてはいけないのか? なぜレオ/エマは他の章のキャラクターのように、自分の心を表すステージやキャストが存在せず、簡素なティムズエリアが拠点となっているのか? そしてバランスタチューを集めると何故バランに認めてもらえ、謎の列車(バランエクスプレスという名前らしい)に乗せられてぐるっと1周して帰ってくるのか? これらはゲーム独自の要素のため、ゲーム内から読み解けることで解釈していくしかない。
未完成だからで片付けるのは簡単だ。しかし発売前情報を見ると、開発中の画面にはすでにバランスタチューが存在していたことが示唆されている。また、ティムズエリアについてもインタビューで「ティムはTIMEからEを取ったもの」などのコメントがあり、設定が作られている存在であることがわかる。
なので、ここでは一旦「考察に必要な要素はゲーム本編に組み込まれている」という前提のもと考察をしてみよう。なお、バランチャレンジはバランチャレンジ考察勢の人に任せ、ここでは考えないものとする。

① ランスの正体

小説版を読めばわかるが、ランスの正体は出会いと別れを繰り返すことが辛くなり、ネガティブに呑まれたバランだ。要するに『嵐と戦う男』にとってのハウリングウルフみたいなものだが、バランの場合はワンダーワールドの存在自体にバランが必要なため、新たなバランが生み出されたとある。
(一応ゲーム内でもバランとランスの素顔がそっくりなこと、ランスに涙型のフェイスペイントがあること、バランが最後に別れを惜しんで涙を流し、それがステージに偏在するドロップに変わることなどから読み取れなくもない。)
これは、「バラン劇場」に取り込まれた人がポジティブとネガティブのバランスを取ろうとしているのと同時に、「バラン劇場」自体がポジティブとネガティブのせめぎ合いをしているという循環構造になっている。

② レオ/エマの悩み

レオとエマについて、小説版にも具体的な情報は少ない。孤独に苛まれ導かれた彼らには、試練の内容が『信じられる仲間をつくれ』だったことが明かされる。
しかし、孤独だったとは言えレオ/エマは15歳であり、あえて人前に出たり、人間関係に悩むなどの社会性はある。ステージやキャストが一切発生しないほど精神が未発達であったとは考えにくい。では、何故レオ/エマにあてがわれたのは『ティムズエリア』だったのか?
それは、この二人が『見られること』そのものを嫌悪していたからだろう。
メイドに囁かれたり、ダンスを褒められたり、親切な人間であることを要求されたり、そういった『他人に解釈された自分』が『自分』とはべつに存在することそのものへの嫌悪――おそらくそれがレオとエマの、思春期らしい悩みだった。ゆえに彼らの心象世界にはキャストもステージも存在しない。それらは他人に解釈してもらうための小道具なのだから。

では、彼らの心のバランスを取り戻すにはどうしたらいいか?
少しずつ、『見られること』に慣れてもらうしかない。
だからこそ、彼らはコスチュームを着る能力を与えられる。他者の心の形を身にまとった姿で、まず『見られること』そのものに慣れてもらうのだ。
つぎにコスチュームを用いてなにかを達成することを覚えてもらう。そうすれば、身にまとったコスチュームは『勲章』となる。『いま見られている姿』がなんであるかの意味づけを認識してもらう。『ある姿を見る視線には対応した意味があり、無制限に自分の心に侵入しようとしているわけではない』という学習をしてもらうのだ。

各ステージ内に、巨大な、あるいは等身大の章キャラクターがこちらを眺めるように佇んでいるのは意図してのものだろう。プレイヤーから見れば他人の劇場を見物している様子でも、章キャラクターはそれを『レオ/エマが心の動きを実演している』と見ていることを示唆している。ここにも循環構造、そして「見る/見られる」の逆転がある。

③ バランエクスプレスとティムズエリア

そして、その意図を補強するのがおそらくバランエクスプレスだ。
バランスタチューを規定数集めたときに唐突に現れるアレだが、列車に乗っても別に新天地に行ったりはしない。ただティムズエリアとステージを俯瞰できる高さまで上がり、ぐるっと一周して戻ってくる。
一見意味不明だが、②をもとに考えるとここでも循環構造「見る/見られる」の逆転を示していると解釈できる。つまり、レオ/エマ目線だとティムズエリアは「次の目的地を選ぶ足場」でしかないが、上から見た場合は「各ステージが取り囲んでティムズエリアを見守っている」と受け取れるようになっているのだ(たぶん)。
ティムズエリアでは、流した涙が結晶化したものであるドロップをティム(TIM E)が食べ、それによってハピネスが生まれて構造物を作っていく、という設定になっている。各章キャラクターからすれば、それはまさしく『心を癒す劇場』なのだろう。勇敢な子供が自分の心を借りて大立ち回りを演じてみせ、最後には集めた涙が時間によって幸せへと昇華される演出が挿入される。かくして彼らは心のバランスを取り戻し、バラン劇場を後にしていく。
小説版では時間や空間を飛び越えてバラバラなタイミングの人物が集められていたことがわかるが、それはレオ/エマのような『見られること』そのものへの恐怖を抱いた人物が核となる必要があるためかも知れない。
(12章の老人が『見えない存在になることへの恐怖』を抱いた人物であるのは、意図的なものだろう。0章のレオ/エマへ循環させているのだ)

④ バランスタチュー そしてバラン劇場

さて、再びバランとランスの話に戻ろう。バランがネガティブに傾くきっかけとはなにか?
それは先述したが、『親しくなった人物と別れてしまう』ことの恐怖だ。
どんなに一緒の時間を過ごしても、彼らはやがて心のバランスを取り戻し、劇場を後にして、自分のことを忘れてしまう。このバラン劇場が開かれるたび、じぶんは一人ぼっちで取り残される恐怖を味わうことになる。
だからバランがネガティブに呑まれた存在であるランスは、彼らを大きくネガティブに偏らせ、永遠に閉じ込める道を選んだ。(一応ゲーム内でも、ボス化はランスの仕業であることが1回だけ示唆される。毎回しても良かったんじゃない?)

それでは、ネガティブから切り離されたポジティブの化身であるバランは、別れの恐怖をどのように処理しているのか? これもゲーム内で示唆されている。

『どんな時間も、無駄ではなかった』と思うことにしているのだ。

たとえ別れがあり、二度と出会うことはなくても、ともに過ごした時間は――レオ/エマがたくさんのコスチュームを集めたように、ドロップを集めてハピネスを咲かせたように――その人の心のなかに残り続ける。そう考えることで、バランはバラン劇場のマエストロである自分を肯定できる。

だから、バランはバランスタチューを他人の心に仕込む。

他人の心に何かを残すのが恐怖に打ち勝つ方法だと、バランはバランとしての経験で知っている。だからわざとバランスタチューを仕込み、「ひとの心のなかにバランがいる」ことを自分の心に焼き付ける。そして、今回の"立ち回り役"にスタチューを集めることを促し、"立ち回り役"もそれぞれのキャストもバランスタチューに注目している――様子を、バランが観る。


それこそがバランにとって『心のバランスを取り戻す』ための劇場なのだ。

だけど、バランがその方法に固執すればするほど、やはりバランはランスに近づいてしまうのだろう。ひとの心に干渉し、人為的に自分のつくった劇場の役者であることを強要するその姿勢は、ランスとさほど変わらないのだから。

終わりに

要約すると「バランスタチューはバランの嫌がらせ」っていう身も蓋もない結論になるね!
この流れで行くとバランチャレンジは「よりランス側に近づいたバランのしかけ」、つまり無理矢理にバランのことを心に焼き付けようとする(バランにとっての)チャレンジってことになるかも知れない。バランチャレンジは純度100%の嫌がらせなのでランス寄りになったバランの仕業と考えると辻褄は合う。
嫌がらせをされたプレイヤーの心のバランスをどうにかしろって? そのとおりだと思う。

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