ミッシングリンク

1

大変だった飲み会から帰宅しても、廊下の電気は点いていなかった。左手の扉も閉まっている。まぁそうだろう。ダイニングも真っ暗だ。無線LANのルーターが通信を示す緑の点滅をしていればあるいはとも思ったが、それもない。

そしてダイニングには、「よろしく」というメモと、ビニールシートが二枚、ガムテープが一つ。

友達と花見をする予定だが、場所取りは大変だし朝起きられる自信もない。どうせ始発朝帰りになるのなら、そのまま花見の場所取りをしてほしい。依頼主は、「同居人」とだけ世の中には言っているが、実態はセフレ、あるいは世の中に恋人と認識されている女性である。だが僕は、「起きられれば自分でやるから」と言っていたその子が今寝ているだろうということを、ルーターのLEDが沈黙していることでしか知らない。

【ミッシング・リンク】

都心の2DKの物件にしては安く、一人暮らしでも倉庫代わりあるいは友人が寝泊まりするのに便利だろうと借りた部屋に、家賃を折半で転がり込んできたのがあの子だ。共用部のタオルの洗濯は向こうの仕事、食事はあの子が作ることはないが、僕が作っておけばたまに冷蔵庫に残してあったものを勝手に食べているようだ、それ以外は気が向いた方が掃除をする、お互いの部屋にはまず入らない、連絡はLINEベース。はやりのルームシェアというものだろう。どこかに一緒に出掛けたことはない。

セックスはたまにする。何と言うか…どうしようもない時だ。僕はどうしようもない時、外で人と飲む(飲み屋で知り合っておいてなんだが、あの子と飲もうとは思わない)。羽目を外したい、そうしてあとは家に帰って何もかも忘れてしまいたいと思う。対してあの子はどうも、ダメな時は虚無に対峙したいようで、家にいて一人でずっとジーマを飲んでいる。自分の部屋すら「自分」がそこにいて駄目らしく、共有スペースである殺風景なダイニングの椅子に座っている。だから、二人ともどうしようもないと、深夜や明け方にダイニングで遭遇する。僕は帰り道で酔いが抜けて少し変な気分の時で、向こうは虚無と対峙することにすら疲れている時だ。ダイニングを通り抜けて自分の部屋に行く前に、特に何も考えずに下を向いているあの子の頭を軽く撫でたりなんかしてしまうと、自分の部屋に入るときいつの間にかジーマを持ったあの子が後ろに立っている。本当にどうしようもない。

セックスが終わると、あの子はふわふわと自分の部屋に帰り、外から射す街灯でわずかに青白い部屋に毎回ジーマの瓶だけが残る。少し残っているジーマを水分補給代わりに舐めると、大体ぬるい。その最低なシチュエーションに、少し安堵する。

ともかく、今日はジーマの瓶もないし、自分の荷物を部屋において再度出かける時だ。ルーターのLEDはいまだ光らず、帰宅した際の物音であの子が起きたりしていないことだけが分かる。

もう一度外に出てみると、帰ってきた時より肌寒く感じられた。夜明けと言っても、すぐに気温が上がる訳ではなく、むしろまだ下がっているくらいか。少しずつ空が青くなっていく中、桜並木に向かう。

「前日からの場所取り禁止」という看板があっても、既に桜並木はビニールシートだらけだった。シートには名前が書いてあるので誰が犯人かはすぐわかる。やはりというか、町内会、桜並木近隣マンション組合など、場所取り禁止の看板を置いている側だ。そんなものだろう。自分はこの町では新参ではあるし、町会費も払っていない以上、文句を言う立場でもない。しかし、そうはいっても場所はそれなりのところを取らねばならない。あの子というより、せっかく呼ばれてきたあの子の友人達に気の毒な場所を避けたい。簡易トイレの周りは空いていたが…そういう訳にも行くまい。すでにシートが敷いている良い区域の中で、ちょっとした隙間があるだろうか。

桜並木を歩いていく。七分咲き位で、ちょうど確かに今日が安定の見頃、来週が散り始めぐらいだろう。白いトンネルに青いビニールシートが続く。人は全然いないが、遠くに一人だけ女性が見える。場所取りなのか、あるいはただの通行人、もしかすると自分と同じ朝帰りだろうか。若い感じで、遊んでいそうだ。クリーム色のスプリングコートの下、薄緑のシャツに短めの白いスカート、女性誌で見るようなコーデだ。そしてふらついている。やはり酔っ払いか。すれ違いざまに妙に目が合ったが、上機嫌なのか笑顔で会釈された。目がすごい充血をしているのはやはり酔っ払いなんだろう。

場所の候補となるスペースを見つけたが、どうにも歩道に近くまた少し狭い気もする。ビニールシートを試しに敷いてみようとかがんだところで、さっきの女性が近くのビニールシートに座っているのに気が付いた。やはり場所取りなのだろうか。こちらを見ている。ニコニコしているが、座り方が雑でパンツが丸見えだ。慌てて目をそらす。作業に手を戻すと、まぁ狭いながらもどうにかなりそうかと思われる。立ち上がって眺めてみても、悪くはない。隣と近すぎる気もするが、まぁ花見だ、問題あるまい。

ガムテープでシートを貼っていく。歩道とはいえ、近くに土があるため埃で粘着が弱く、丁寧に貼っていかなくてはいけない。それでいて、隣のシートなどにまで被るとトラブルの元であろうから、これはちょっと難儀する。苦労してまず縦を貼る。さて、横だ、と立ち上がったところで、さっきの女性が近くに来ているのに気づく。歩道の縁石に座り、やはりこちらを見てニコニコしている。どうも僕が目的らしい。座り方は相変わらずの堂々とした座り方で、足を開いていてパンツが丸見えだ。嫌な感じがする。とにかく見ないようにしよう。

横ラインを貼り終え、最後はシートに名前を書く。例の女性はまだこちらを見ている…というのが何となく分かる。どうにもこの状況で名前を書くのは女性に名乗るようで嫌になるが、仕方ない。ビニールシートをちぎってシートに貼り、そこにあの子の名字を書く。これで終わりだ。立ち上がる。完了報告のために、携帯電話でシートを撮る。

「シミズさん」

シャッター音がしたと同時に、シートに書かれた名字を読み上げ、女性が僕に声をかけてきた。残念ながら僕の名字ではないが、向こうがそれを知る由もない。とにかく僕に声をかけてきたというのは、残念ながら分かる。無視を決めきれるものでもないので、そちらを向く。

「あたしとセックスしなよ」

酔っ払いの痴女。うすうす可能性は感じていたものの、自分に関係ない世界の存在で、実際に起こると想定していなかったもの。唇を横に強く引いた笑みを浮かべ、充血した目を細めている。

「ないですね」

気が付くとそう言ってくるりと向きを変え、背を向けて歩いていた。相手が驚いていたかは知らない。とにかく早足で歩きだしていた。未知の世界と出会った衝撃に心拍が上がっている気がする。

「なんでよ」

と小さく聞こえた気がする。立ち止まることはできないが、そう言えば何故なんだろう。単に僕が、今その気でなかったからなのか。僕が清水ではないからか。病気が怖かったのか。向うが、独りよがりな誘い方だったからか。僕を選んだ理由が分からないからか。どれもちゃんとした答えではないような気がする。彼女は断られた後、どういう表情をしていたのだろうか。

空が明るくなっていた。僕は何かが怖くなって、家に帰らずにコンビニに寄った。コンビニは、未明の搬入が終わっていたらしく、パンもお弁当も充実していて、僕を日常に戻してくれた。

四月の第一週というのは大変なもので、新旧課長の歓送迎会は金曜日までお預けとなっていた。既にこの一週間は新体制でのワークに不安をもたらすものではあったけれども、それはそれとして一週間が終わったのだ、飲んでいい。

二次会のカラオケは盛り上がった。課長達は四十代らしく懐かしのロックを歌って踊り、若手はテレビドラマの主題歌を振り付きで踊る。こういう時、半端な年代になったなと思う。定番曲はあるし盛り上げられても、意外性はない。仕事をマスターしておらずおろおろしている若手でもないし、部長対応も含めて苦労している課長でもない。後輩にも事務作業をしている派遣さんにも仕事を聞かれ答える余裕があり、雑談もこなしていても…いやだからこそ、こういう時に「意外性」が出せない。みんな、僕がほどほどに昼間から明るいことを知っている。だから結局、全体を見渡せない後輩の代わりに、ドリンクのオーダーでもやっていても誰も恐縮しないし、後で誰もこの飲み会のことを僕と話すことはないだろう。あったとしても僕は、うちの部からいなくなった課長の"Only You"が凄かったことを笑いながら言って終わりにしてしまうだろう。

そんな風に疎外されているのでますます分からないことだが、どうしてうちの部は飲み会だけは派手なんだろう。朝令暮改の部長のせいでチームはバラバラ、新課長はそのことをまだ把握しきっていないという状態で、「チームアップ」のために踊る必要はない。ここで楽しかったからと言って来週からの仕事に対してやる気が出る訳ではないのだ。それとも、仕事がそうであるからこそ、半ば自棄になっているのだろうか。部長の顔が見える昼のオフィスでは暗い顔をして、暗いカラオケボックスでは部長を背に笑う。言われてみればそんなものだろうとも思うが、あまり建設的な感じもしない。

全員の忘れ物チェックをして、暗い部屋から出る。そういえばカラオケの受付は部屋に比べていつも過剰に明るい。パチンコ屋もそうだが、暗くないことが楽しさの演出なんだろう。だが部屋は暗い。実際に展開されていることはたいして面白くないことがバレないように、だろうか。

とにかく人に疲れていた。駅まで他の人と歩いていく気にもならない。そういえばここからなら家まで一時間…悪くても二時間あれば帰れよう。都心に住んでいてよかったのは、こういう時に駅に向かわず一人になれることだ。

「お疲れ様でした!」

大きな声でそう言うと、僕は同僚たちに背を向けて歩き出した。

高速道路が上を走る暗い道を歩いていく。捨て鉢だった。変に体を動かしたので酔いが回っていたし、自分が来週からまたまじめに仕事をしていくのも信じられなかった。無駄にしか思えなかった。高速の下の道から左に折れていく。印刷屋街だ。一階は大体がシャッターが下りており、先ほどよりさらに暗い。古い街で坂や曲道も多いため、街灯の光も届きにくく、点在する自販機の光がなければ本当に暗い道だ。疲れが出てきた。吐き気もする。だるい。水を飲んでも楽にならない。

歩き続けながら、誰かに会いたいな、とふと思った。しばらく会っていない友人が思い出されたが、当然今連絡ができるわけでもなかった。歩きのルートからも時間からも、もう普段の行きつけにも行けなさそうだ。家に帰ってもあの子はいないことは分かっている。いた所で、あの子に喋ったところでどうなるものでもない気がした。そういう付き合いではない。たまたま飲みに入った店で終電を超えて飲んでいたので、家が近く歩いて帰れるという話題になり、その話題で食いついてきたのがあの子だ。彼氏がいるのではないかと思う程度には頻繁に家から出て行っている。他方、僕はあの子とシェアハウスをしているのが効いているのか、最近は特に女性ともいい関係にならない。いや、あの子のせいじゃないかもしれない。例えば僕は結局こうして、同僚と三次会をやるチャンスがあっても、一人でいる。それでも、誰かに会いたい時だってあるのだ。

暗い道を上り、家のそばの大通りに戻ってきた。桜並木も近い。もしや、先週会ったあの痴女がまたいたりしないだろうか。今だったらどうなるだろうか。顔もあまり思い出せないが、横に強く引いた唇と、充血した目は覚えている。白い桜並木の中を、クリーム色のスプリングコートを着て、フラフラと歩いてやしないだろうか。自然と足が桜並木に向かっていた。今なら何か言えるだろうか。シミズではないですよ、か。覚えていますか、だろうか。何を言っても、またあの時のように笑顔で接してくれる気がした。夜の桜並木で、僕らはどこへ向かうだろうか。薄暗い街灯の下で灰色にくすむ桜のトンネルの下で、僕らは何を語り、何を慰めあうのか。想像しているうちに、なんだか楽しくなってきた。

桜並木の角に来て、驚きと共に僕の妄想は消えた。物凄く明るく、とてつもなく白い。こんな時間でもライトアップしているのか。終電までまだわずかだが時間があるからか、桜の下にはまだビニールシートを引いている人達もそれなりにいる。金曜日なので仕事帰りの人も多そうだ。大騒ぎはしていないが、みな楽しそうにしている。そして桜の香りが強い。こんなところにあの痴女がいる訳がない。瞬間でそれが分かったが、僕は桜並木の中を歩いていた。回れ右をする理由もないし、単に桜を楽しめばいいと思える見事な咲き具合だった。花びらがライトアップで光りながら、そこにいる人達へチラチラと落ちていく。静かに話し続けている会社員グループ、片づけを追えたのにいつまでも話し込む数名の若者、アウトドアの椅子を並べている老夫婦…そして最後に、若いカップルがベンチに並んで座っていた。その二人は、特に酒を飲んでいるわけでも、カメラを構えているわけでもなく、語り合うこともなく、ただ手を握り合っていた。

僕は一瞬で自分がここにいるべきでないと理解した。僕は桜並木の中で浮いていた。まったく桜を楽しむという世界に溶け込めていなかった。いまや分かっている。僕に足らないのは、単に誠意だ。ただこの人の手を握りたいと願い、ただその人の手を握る、それだけのことが出来ない。何でも、誰でもいいと思っている。いつだって。痴女と同じだ。とにかくどうでもいいと思っている。ずっと捨て鉢だったのではないか。ニヤつけばなんとかなる、そんなつもりでいたのではないか。失わない程度に手に入れる。二次会まで出て2曲ぐらい踊れば失点じゃないから終わったら帰ってしまえ、恋人は要らないが何となく同居人がいるくらいのスパイスは欲しい、そんな結果がこれだろう。失ったことはない、どれも失っていない。だが、何もなしていない。それそのものだけを願うということをしたことがない。願わないから失わないだけで、そうして、結局、一人で立ち尽くしている。

帰ろう。眠ろう。こんなことをしていては駄目だ。そして、明日、あの子とお昼ご飯を食べる提案をしよう。僕らがどういう関係であれ、ルーターの光でしか分からない相手じゃなくて、人としてもう少し話し合いたいと言おう。

僕は家に向かって歩き出した。その先で、桜の花びらがライトの光を受けながら地面を走っていく。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
煙姫時代の短編で一番人気のあるものでしたので、noteに再掲。花見の場所取りで痴女にあったのが実話、というのが人気の原因という説はあります。ワタシの話。

当時は「これはウテナの同人!俺なりのウテナ!ウテナ前夜の話!」と言っていましたが、どうかしてると思います。でもウテナがなければ書けなかった気はします。

↑クリエイターと言われるのこっぱずかしいですが、サポートを頂けるのは一つの夢でもあります。