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服毒

資本主義が正しく機能するためには、交換可能な価値と資本のルールが共有されていないといけない。それはつまり、価値とは何かが認識され共有されているということだ。例えば、手間を掛けただけでなく味も良いので、この食べ物が他のものより高いことに納得感があるなら、その「味の良さ」は共感されうる(そして共感された)もので、だからこそその手間に値段を払う価値があると認識されている。私たちは、私たちの感性までも共有して、この対価という社会を動かすエンジンを作っている。その、共有され個人のものでなくなった認識や感性=何者でもないゴールの話は「未来への展望2021」でしているが、資本主義が存在する以上は、こうした絶対的な価値観が本来は存在していなければならないはずだ。価値と目的が公共に共有され共通言語であることで、資本主義経済は安定していくのが最適化された姿だろう。

ところが、誰もその共通言語を完璧にはマスターできていない(但し、これは通常言語をマスターすることが無いのと同じかもしれない)。例えば、「お金で買えない価値がある」とはよりによってカード会社のキャッチコピーであった。もちろん「買えるものはマスターカードで」と続くにせよ、我々の購買行為が等価交換の行為だけではないと印象付けており、それが経済を支えるという主張。こんなことは前段の通り、純粋な資本主義およびビジネスにおいては本来ありえない。だが、我々がそうした前提をマスターできていないがゆえに、誤謬がまかり通っていて、結果マスターされていない資本主義という、一部の人にとって非経済的で粗悪な部分を持つものが残っている。

つまり、私たちは資本主義下で共有されている価値以外のものを個々に信じているので、結果的に資本主義下に毒が盛ることが出来るし、個人が毒を盛る気が無くても社会には毒が盛られていっている。なお、この毒を意図的に盛る行為については以前書いている(「よーしおじさんもっと遊んじゃうぞ」)。

悪く言うと、加速主義者的なユートピア=完成した資本主義が来ないのは、この毒のせいでもある。この毒を相当程度除いたほうが経済活動はうまくいくという意味で、僕は多くの人間は仕事をしない方がユートピアに近いと思っているが、それは叶わないことも認識している。

もちろん、先も理想のためには「相当程度」除いたほうがいいと書いたが、この毒は塩分のようなもので、摂り過ぎれば毒となるからと言って完全に避けきってはならないものでもある。だからこそ、程度の問題を無視する必要はなく、許されるレベルと許されないレベルがあるだけという整理も可能であろうし、個人の感覚としてその整理を否定する気はない。が、困ったことにビジネスという社会はこの程度の差で明確な合否を出し、差があると定義しようとする。曰く、「社会人失格」「ビジネスパーソンのマインドではない」など、一定以上であれば許容され、それ以下となれば拒否される。冒頭の通り、資本主義下には本来絶対的な価値観が共有されておりそこからの逸脱は許されないなかで、しかして個性をゼロにすることはできないため、こうした合否という差を生み出し判断をしたがる向きがある。だが、繰り返すが本来それは程度の問題で、本質的な違いはない。

正しいことをしていても、それは個人または集団という全ではない存在の行為である以上、どこかで何かの資本主義に対する毒を飲んでいるのだ。その愚かさを自覚しないといけない。私たちは愚かでもいいが、愚かなことを自覚している必要がある。

さて、こんなことを…自身の今までのnoteの記載を焼き直して繰り返すという一見非生産的なことを…しているのは、これがまさしく服薬であるからだ。そしてそれは服毒でもある。自覚は一度きりでは忘れられ、繰り返されなければならない。服薬は一度ではなく定期的に行わなければならない。薬は多すぎれば毒であるし、毒も少量ならば薬になりうる。だから毒性を自覚したうえで、繰り返し毒を、薬のように盛る必要がある。

但し、社会への造反ないしその可能性を意識して薬を飲むという行為であっても、これはマトリックスのネオがレッドピルを飲む話ではない。この服薬に英雄の要素はない。どちらかと言えば、ブルーピルを飲んだことを覚えていて自覚していながらマトリックス世界に生きるという方が近いかもしれない。社会を変えることは無くても、社会とは何かを自覚して、そして、それでも自分らしく生きるために。

服毒して生きろ。

↑クリエイターと言われるのこっぱずかしいですが、サポートを頂けるのは一つの夢でもあります。