「悔しさ引き受け型愛着障害」の当事者研究っぽいもの



◾️はじめに
 2023年6月16日、私はとあるヘイトスピーチに直面し、徹底抗議することを決めた(詳細は冒頭のノート、「哲学カフェをする人たちへ〜とあるセクシュアルマイノリティ当事者より」を見ていただければわかる)。約4500文字の抗議文をしたため、関係各位に送付、ツイッターでも拡散をお願いした。結果として、関係団体からは再発防止に取り組むと言う声明が出たし、加害者への倫理研修も行われる予定でことが進んでおり、私個人に対するSNS上でのバッシングも予想していたよりもずっと少なかった。この件を起点に生まれた他者との繋がりもある。本件はいまだ未解決ではあるものの、現時点までの流れでみると、事態はそう悪い方向には進まなかったように思う。
 しかし、あの日を境に私の体調は一変した。元々うつの診断を受けてはいたのだが、寛解に向かっていた容態は急変、夜は眠れず、毎晩のように悪夢にうなされ、食事が喉を通らなくなり、社会復帰に向けて定期的に通っていた福祉施設へも顔を出せなくなった。極めつけに、遠のいていたはずの希死念慮が久々に顔をのぞかせた。その時、私は確信した。
「これを続けると私は死ぬ」
 私は差別と闘えない。闘い続けると死ぬ。周囲からは、「闘うよりも生き延びることを優先しよう」「もう休もう」とたくさん声をかけてもらった。だが、私には自力でそれができるとは思われなかった。実を言うと、差別に直面した日からこっち、無視しよう、あるいは一旦闘いから身を遠ざけよう、とは何度も思ってきたのだが、私の中のコントロール不能な激しい怒りがそれを許してくれなかった。私にできるのは、ただ感情に操られるままに、事態が一応の収束を見せるまで、そして私がボロボロになるまで、ひたすら闘い続けることだけだった。そして、今後も同じことが起こった時、同じように私は感情に操られ、闘い、そのうち死ぬのかも知れない、と想像した。とても怖かった。
 行き詰まりかけた私は、ふと学生時代に見聞きした「当事者研究」と言う概念を思い出し、そこに生き延びる道筋があるかも知れないと感じた。当事者研究に関する本を手当たり次第に読み漁り、理解もまだ中途半端な時点で、いきなり独自の研究ノートをつけ始めた。何か手を打たなければという焦りと、不安と、死のイメージが私を突き動かしていた。
 ともかく私は、私を駆り立てる怒りと、闘争と、絶望を、私の「苦労」として研究対象にし、自分自身の中から取り出して、一旦棚上げにしてみようと思ったのである。

◾️研究の目的
 闘争と絶望を繰り返してすり減るのではなく、もっと安全に差別と向き合う方法を模索する。私を支配する激しい怒りの正体を突き止め、それとの付き合い方を考える。生き延びる方法を探す。
 ※私は生き延びようと焦るあまりに、経験もないのにいきなり一人きりで当事者研究につっこんで行ったので、ここで書かれているやり方は基本的に出鱈目だ。下手すると危険なことをやっている可能性すらある。真似しない方が良いという前提で、それでもOKという方だけ読み進めて欲しい。

◾️研究の方法
 手帳に自分の行動を記録、そのうち苦労のパターンと思われるものを整理した上で、対処法を検討するために必要な問いを立てる。協力者(パートナー)へのインタビューを通して、自分では思いつかない対処法や意見を提案してもらう。適切と思われる対処法を実行後、その効果についてフィードバックを行う。

◾️研究の推移
 ここから先は、私の研究内容をまとめたものを記述するのではなく、あえて時系列順に、研究推移をありのままに記載していく形を取る。それゆえに、上手くいかなかった推論や失敗に終わったワーク、研究が進むうちに覆された概念なども、一旦そのままに記載している。発想は次々と飛躍し、関心はあらゆる方向へ移り変わり、理性的というよりは感覚的で、矛盾もたくさん含まれている。このわやくちゃな思考の過程をありのままに記述するという行為は、それ自体私にとって自己治癒ワークの一環なのである。もしご興味を持っていただけるならば、私の実践にお付き合いいただきたい。

一章、苦労の在庫整理と問いの設定

 研究目的に基づき、取り急ぎ私は自己病名を以下のように診断した。
 【自己病名】絶望闘争二択型死にたい病
 そして、苦労の在庫整理に取り掛かった。まず最初に行ったのは、「差別と向き合う時に、最も私の心をすり減らしている習慣は何なのか」について考えてみることだった。そして、これは案外簡単に見つかった。
【私の苦労】ツイッターを開いて、自分への批判的な意見や、差別的な言動を繰り返し見に行ってしまう
 これは昔からの私の悪癖で、何度もやめようとして、うまくいかなかったものだ。単純に、「ツイッターを見ないようにしよう」と意識するだけでは解決しないことはとうにわかっていた。
 最初、私は以下のような問いを立てていた。

 《問い》自分を傷つける言葉をわざわざ見にいってしまうのはなぜだろう?

 問いを立てたはいいが、のっけから行き詰まった。なぜと言われても、掲示板やSNSに自分の陰口が書かれていないかどうかをついつい確認してしまうのは、ままあることだ。それゆえに、なぜかと考えてみても簡単には答えが出ない。よって、私はもう少し考えやすいように、問いの立て方を修正する必要があった。
 適切な問いを模索していくうちに、私は、「ツイッターを開いて自分を傷つける言葉を見にいく」ことの意味を考えるうえで障壁となっている無意識の前提条件の存在に気がついた。私はこの行動を「何の役にも立たないし害にしかならないのにやっている行動」だと思い込んでいたのだ。よって、一度その前提を覆すために、問いをこのように修正した。

 《問い》「自分を傷つける言葉をわざわざ見にいく」と言う行動は、自分にとって何の役に立っているのだろう?

 私はこの問いの出来に満足した。「ツイッターを開いて自分を傷つける言葉を見にいく」という行動がもたらす(あるいは私が無意識のうちにこの行動に期待している)有益さを自覚し、費用対効果を再検証することで、中毒状態から抜け出せるのではないかと期待したからだ。
 そこから私は、以下のような仮説を立てた。

 《仮説》私は自分を傷つける言葉をわざわざ見にいくことで、わざと絶望しようとしているのではないのか

 つまり、自分を傷つけるツイートを目にして絶望的な気持ちになることは、行為の結果ではなく、行為の目的なのではないかと考えたのである。絶望することの効果として考えられることは、具体的な行動をしなくなる、ということだ。差別を前にして、抗議行動をすることは、当然ながら身の危険を伴う。よって、絶望によって自分を危険な行動から遠ざけようとしているのではないか、と私は考えた。
 だが、実際の場面を考えると、私はむしろ、ツイートを見て怒りを増幅させ、抗議行動を激化させている。ほとんど検討の時間を要せずに、この仮説は妥当性が低いものとして破棄することとなった。だが、この仮説を立ててみたことそのものは、時間の無駄というわけではなかった。「絶望」という単語に触発されて、あるエピソードが想起されたからである。

 《エピソード》
 私は、私と同じ属性のマイノリティに対するヘイトクライムが海外で起こったことをTwitterを通して知り、深夜に震え上がった。強烈な絶望感に震えながら抗不安薬を飲みに下階へ降りたところ、寝ていた姉を起こしてしまった。姉は私の様子を見て事情を察し、泣き出した私が落ち着くまで抱きしめていてくれた。そんな折に姉が言った。
「怖いよね。不安だよね。大丈夫、今ここは、安全な場所だからね。貴方は何も悪くないからね」
 姉の言葉は、私に寄り添うものとして完璧に近かったように思う。けれど、私は奇妙な反発を覚えていた。姉に抱きしめられたまま、心の中で密かに、私は姉に反論した。
『違う、私が泣いている本当の理由は、怖いからでも、不安だからでもない。【悔しい】からだ。理不尽に殺されることの屈辱に震えているからだ』

 このエピソードからわかることが一つある。私を絶望している時のは、重要な感情となるのは怖さや不安よりも【悔しさ】なのである。この記憶をヒントに、私は、差別と対面する際に経験する強烈かつコントロール不能な怒りの感情を【悔しい発作】と名付けることにした。

【悔しい発作】の症状は以下のようなものである。
 ・全身が怠くなる
 ・涙が出る
 ・意味もなく叫びだしたくなる
 ・心臓がバクバクする
 ・呼吸が苦しくなる
 ・人を信じられなくなり、孤独感を感じる
 ・辛いことばかり考えてしまう
 ・とにかく誰かに自分の怒りを知ってもらいたくてしょうがなくなる
 ・放置しておくと【死にたいさん】(希死念慮)がやってくる

 自分の状態に「怒りにかられている」以外の、より適切な名前をつけるという行為は、私の研究を大きく前進させてくれた。本質を掴んだぞ!という感じがしたし、何より【悔しい発作】の発明は、後々述べるいくつかの仮説やエピソードを引き出してくれる呼び水となった。

 ※この当時、【悔しい発作】において使われる【悔しい】という概念と、発作以外の文脈で使われる「怒り」という概念の違いは、私の中で感覚的にしか判別されておらず、明確な使い分けもされていなかったため、混ぜこぜに記載していくのがありのままの研究推移になるのだが、それをすると文章の意味がわからなくなるので、あえてここで定義を先に述べておく。【悔しい】が「とあるパターン」を誘因として発作的に起こる感情の爆発であるのに対して、怒りは単に「何かに怒っている」という自然な感情のありようを指している。

 閑話休題、先の《仮説》は破棄されてしまったため、新たな仮説を立てなければならない。私は以下のような仮説を立てた。

《仮説》私は自分を傷つける言葉をわざわざ見にいくことで、わざと怒ろうとしているのではないのか

 このように仮説を修正したのは、絶望に向かう前段階として、怒りの感情があることに気がついたためだ。そして、先のパターンを踏襲すると、次に考えるべきは、怒りが私にもたらすものは何なのか、である。
 最初に立てた仮説はこうだ。

《仮説》私の中には、何かマグマのような有り余るエネルギー源があり、わざと怒ることでそれを放出しているのではないか

 だが、この仮説も早めに頓挫した。うつの症状は寛解に向かっていたとはいえ、私のエネルギーは有り余っているとは言えない状態だった。
 次に、このような仮説を立てた。

《仮説》私は怒りを通して他者と繋がろうとしているのではないか

 ツイッターで溜め込んだ怒りを誰かと共有することで、その人と仲間になろうとしているのかもしれない、という考えだ。この発想は悪くないように思われた。私はさらに仮説を具体的にした。

《仮説》私の目的は「差別に怒っている人と仲間になること」だ

 この仮説の背景には、反差別の文脈でしばしば述べられる「怒りによる連帯」という観念があった。私の「差別に向き合いたい」という欲望から鑑みるに、こうした観念を参考にするのは適切であるように思われた。
 はじめに、の部分でも述べたように、差別に対する怒りに駆られ、抗議行動を行ったことをきっかけに、私には今までになかった繋がりが生まれた。また、過去に別件で差別について声を上げた際にできていたつながりが、私に手を貸してくれている、と感じる場面もあった。「怒りによる連帯」はある程度の成功を収めていたと言えるだろう。
 しかし、Twitterを媒介にしてつながりが生まれるというメリットに対し、心身ともにへとへとになり、【死にたいさん】がやってきてしまうというデメリットは大きすぎる。やはり、私には自分を助けるための、別の手段が必要なのだ。
 単純に考えて、初めに思いつく可能性は、Twitter外でのコミュニケーションだ。さて、私はTwitterの外で、どんなコミュニケーションをとっているだろうか、と考えてみると、そこにもう一つの苦労が浮かび上がってきた。

【私の苦労】私は、差別について他者に語る際に、「人類は皆須くクソ」「倫理は死んだ、どこにも存在しない」「生きることは苦しみしか生まない」等の、極端で共感し難い表現を選んで話してしまう。そのため、他者から「そんなことないよ」と否定され、より一層激しい【悔しい発作】を誘発してしまうことを繰り返している

 これは、怒りでもって他者と繋がろうとしたが、失敗した、という事例だ、と評価できるだろう。だが、事は単純に、「マイルドな表現を使おう」と気をつければ解決するようなものではない。これも、「自分を傷つける言葉をわざわざ見にいく」と同様、何度も止めようとして止められなかった悪癖だからだ。

 《問い》何故私は差別について語る際に極端になってしまうのだろうか

 もしかすると、極端になってしまうのは【悔しい発作】の症状なのかもしれない、と私は考えた。私は基本的に、差別についてTwitterの外で人に話すことはあまりない。匿名でない関係性で差別の問題を取り扱うのは、とてもリスクのある行為であり、相手との信頼関係がないとできないことだからだ。また、相手に心理的な負担を強いてしまうことにもなりかねない。よって、私がTwitter外で差別を話題にする時というのは、私は大抵我慢ならないほどの激しい【悔しさ】を抱いて爆発しそうになっていて、とにかく誰かに話を聞いてもらいたい、と焦っている時なのである。
 【悔しい発作】が原因となって、より深刻な【悔しい発作】を引き起こしているのだとすれば、立てるべき問いは以下のようなものになるだろう。

 《問い》どうすれば【悔しい発作】を引き起こさずに差別について語ることができるのか

 これについては、考えても考えても答えが出なかった。順調に行き詰まった私は、考えてもわからないものは仕方がない、と一旦苦労を棚上げし、代わりにこの現象に全体に名前をつけることにした。私はこのコミュニケーションの形態を【投げやりコミュニケーション】と呼ぶときめた。すると、不思議なことに、なんとなく楽になった。現象に名前がついたことで、苦労への対処法は全くの手付かずであるにも関わらず、自らの手中で扱えるものになった(苦労が小さくなった)かのような感覚を得ることができたのだ。
 ちなみに、この【投げやりコミュニケーション】は高確率で、別のお客さんを連れてくる。【死にたいさん】だ。これにちなんで、自己病名をブラッシュアップさせることにした。

 【自己病名】悔しい投げやり死にたい病

 私の中で巻き起こる出来事を時系列順に記載した自己病名だ。最初につけたものよりも、グッと苦労が身近になったように感じられた。

二章、パートナーとの共同研究
 ここまでで、苦労の概要はある程度浮かび上がってきたのだが、問題はやはり対処の方法だった。
 差別に怒っている人と仲間になるという目的を達するためにも、また、【死にたいさん】が来てしまうのを防ぐためにも(私はあまり【死にたいさん】が好きじゃないのだ)、【投げやりコミュニケーション】を何とかする必要がありそうだ。だが、その方法がわからない。まずは、【投げやりコミュニケーション】以外のコミュニケーションとはどんなものかを想像してみることにした。

《問い》私が本当に望んでいるコミュニケーションはどんなものなのか

 とりあえず、仮の目標として、怒りでもって他者と繋がることができるコミュニケーション、言い換えれば、他者との間で怒りの共有に成功する(差別に対し相手も私と同じくらい怒ってくれる)コミュニケーションを【怒りのコミュニケーション】と名付け、【投げやりコミュニケーション】と対置することとした。

《仮説》私の求めているものは【怒りのコミュニケーション】の成立である

 だが、怒りのコミュニケーションを成功させようとしても、私の言葉を【悔しい発作】がジャックして、適切なコミュニケーションを阻害してしまう。そこで私は、言葉そのものではなく、コミュニケーションを取る前に仕込みを行うことで、苦労を解決することが可能になるかもしれないと考えた。
 方策としては以下のようなものである。

 《ワーク》
1.信頼できる相手を選んでコミュニケーションをとる
2.相手に前もって「私は今【悔しい発作】にジャックされてるから、今だけは私の考えを否定しないで、一緒になって怒って欲しい」と伝えてから話し出す
3.相手が望み通り一緒に怒ってくれたら、「怒ってくれてありがとう」と相手に感謝する

 ここからは相手を必要とするワークが出てくるため、独力で研究を進めることが難しいと判断し、パートナーに研究協力を要請した。まず私は、この方策をもとに、パートナーとの間で【怒りのコミュニケーション】が成立する場合のロールプレイを行おうとした。だが、パートナーは「怒ってないのに怒ってるフリするの?難しいなあ」と困惑している様子だった。このパートナーの困惑は、私に一つの問いをもたらした。

《問い》そもそも、【怒りのコミュニケーション】が実現するとは、どういう状況なのだろうか?

 【怒りのコミュニケーション】が可能となるには、相手と自分が近しい経験を共有しており、かつ相手も自分も怒りという感情でそれを表現しようとした、という偶然が重ならなければならない。これを意図的な方法で安定供給しようとするのは無理がある。
 それに、よくよく考えてみると、私が相手に求めているのは、怒りという「感情」の共有である。「怒っているフリ」という「行動」ではない。上記のワークで想定したコミュニケーションでは、私が満足することは難しいかもしれない。あるいは、「満足をあきらめる」ことができれば、私は苦しみから解放されるのだろうか?それもまた私の苦労の一つなのだろうか?
 またしても順調に行き詰まった私に対して、パートナーは以下のように問いかけた。

「ねえ、たとえば、『人類はクソだ!!』って騒音が怒ってる時に、相手が『そうだその通りだ!』って一緒に怒ってくれたとしたら、騒音はどう思うの?」

 私はぽかんとした。そして、しばらく悩んで、こう答えた。

「え……何コイツキモ、って引いちゃうかもしれない」

 矛盾だらけのようだが、それが本音だった。考えてみれば、【投げやりコミュニケーション】をとっている時の私と同じように「人類は皆須くクソ」「倫理は死んだ、どこにも存在しない」「生きることは苦しみしか生まない」と考えている人がいたとして、私はその人と「仲間になりたい」と思うだろうか。答えはNOだ。そもそも【悔しい発作】に見舞われていない時の私はそんなことを考えていないし、そういう投げやりな態度は、差別を解消したい、という前向きな願いとは相反するものだ。
 つまり、【投げやりコミュニケーション】が受け入れられることを私は望んでいないのだ。メカニズムは不明だが、このコミュニケーションは、相手に拒否されることで始めて目的を達するものらしい。【投げやりコミュニケーション】が受け入れられ、同じ感情を共有できたとしても、それは【怒りのコミュニケーション】にはならないのだ。

 ※この辺りになると、怒りと【悔しい】が質的に異なる現象であること、【投げやりコミュニケーション】は【悔しい】に関するコミュニケーションであり、怒りからくるコミュニケーションではないことに気づいても良さそうなものだが、当時の私はまだその区別がついていなかった。

 【投げやりコミュニケーション】をこちらが続ける限り、【怒りのコミュニケーション】の成立には至らない。であれば、私が【悔しい発作】にジャックされ、【投げやりコミュニケーション】を開始してしまった時、目の前の相手――例えばパートナー等――には、どのように対処してもらうのがよいのだろう。
 私は、自らの過去を探り、【投げやりコミュニケーション】から始まったコミュニケーションが、新たな【悔しい発作】や【死にたいさん】を連れてくることなく終了した事例がないか探してみることにした。そうして記憶を掘り起こすうちに、あるエピソードが思い出されてきた。

 《エピソード》
 私はその日、ツイッター上で差別的なやり取りを目にしたことについての怒りをカウンセラーに語っていた。語りながら、どんどん【悔しい】気持ちが湧いてきて、私は「生きることは苦しみしかない。この社会で私は生きていけないんだ」と語り出した。カウンセラーは「それはどうでしょう。騒音さんは今少しパニックになっているように私は感じます」と言った。私はさらに【悔しく】なり、カウンセラーに反論してやろうと頭の中で次のセリフを考えていた。だが、その後に続けてカウンセラーが言った。「けれど、あなたの怒りは正当なものです。そんな内容を見てしまったら誰だって腹を立てて当然ですよ。大変でしたね」すると、私の中の激しい【悔しさ】は急激に萎んでいった。代わりに何か、肩透かしを食らったような、腑に落ちないような奇妙な気持ちが膨らんでいった。

 私は、このコミュニケーションを【ケアのコミュニケーション】と名付けることにした。【怒りのコミュニケーション】が双方が共に同じ怒りを抱くものであるのに対して、【ケアのコミュニケーション】は片方は怒りを、もう片方は労りの情を抱く形をとる。【ケアのコミュニケーション】では、双方が抱く感情の種類は異なるが、互いに共感しあうことが可能になっている。【投げやりコミュニケーション】に比べると、はるかに前向きなコミュニケーション形態であると言えよう。【ケアのコミュニケーション】は私を満足させるものではなかったが、取り急ぎこのコミュニケーションの形態をとれば、【悔しい発作】が起こったときに、信頼できる誰かに頼ってそれを納めてもらう、ということはできそうだ。
 よって、先に想定した方策を以下のように修正した。

《ワーク》 
1.信頼できる相手を選んでコミュニケーションをとる
2.相手に前もって「私は今【悔しい発作】にジャックされてるから、今だけは私の考えを否定しないで、代わりに『【悔しい発作】が起こっていて辛いんだね』と労わって欲しい」と伝えてから話し出す
3.相手が望み通り自分を労ってくれたら、「労わってくれてありがとう」と相手に感謝する

 これで『【悔しい発作】→【投げやりコミュニケーション】→【死にたいさん】がやってくる』という一連の悪循環は防ぐことができそうだ。今後の取り組みとして、実際に【悔しい発作】が起こった時にこれをやってみる、というワークが追加された。
 そして、新たな課題も見えてきた。【ケアのコミュニケーション】をしてもらうためには、相手と自分との間で信頼関係が必要だ。差別への怒りはデリケートな話題なので、基本的に信頼のおける人にしか話せない。だが、【悔しい発作】がやってきた時に、常に信頼できる人が側にいるとは限らない。コミュニケーションに頼らずに、【悔しい発作】そのものに自力で対処する方法が必要になってくるのだ。
 この悩みをパートナーに話すと、全く別の視点からの言葉が返ってきた。

「騒音は、自分の怒りに共感してほしいっていうよりも、自分よりも怒っている人を探してるっていう方が近いんじゃない?だからまずは自分よりも怒っている人を探す方法を考えればいいと私は思う。ツイッター以外の、もっと、ちゃんとしたところで仲間探しをやれば今より上手くいって、楽になるかもよ」

 取るべき方策は、望み通りのコミュニケーションの実現というよりもむしろ、コミュニティとの繋がりではないか、という指摘である。この指摘は私に重要なヒントを与えてくれた。絶望、怒り、【悔しい発作】、【投げやりコミュニケーション】、【死にたいさん】等、これまで私は私に起こる感情や症状にばかり着目して研究を進めてきた。だが、それはいわゆる対処療法でしかない。その症状が生まれる背景、症状ではなく私が置かれている状況にも目を向けるべきなのだ。
 精神疾患を患ったことをきっかけに、私は社会的に孤立気味になっており、SNSは数少ない私と他者を繋げる媒体であった。だが、ツイッターは他者との健全な繋がりを期待するにはあまりにも乱暴なフォーマットである。匿名性が高く、リツイートという機能があり、拡散という現象がおこる場では、私は常に「誰かが私の陰口を叩いているのではないか」という恐怖に怯え続けながら、他者と繋がっていかなければならない。
 そこで私は、以下のようなワークを設けることとした。

 《ワーク》自分と似た経験を持つ人たちのコミュニティに顔を出し、怒り以外のツールで他者との繋がりを増やしていく。その上で、【悔しい発作】が再び発生するかどうかを観察する

 このワークについては、本文を執筆している現在も経過観察中である。時間はかかるだろうが、すでに若干の手応えは感じている、と述べておくに留めておこう。
 また、【悔しい発作】が起こってしまい、近くに信頼できる他者がいない時の、急場を凌ぐ方法についてもいくつか考えて実践してみた。私が考えた対応策とその結果は以下の通りである。

 ①無言で耐える→【死にたいさん】が来てしまった×
 ②その場を離れて散歩してみる→歩くことで思考が活発になり、むしろ【悔しい発作】が悪化してしまった×
 ③ノートに【悔しい発作】の原因を作った出来事や自分の感情の流れを書き殴る→思考と感情を切り離しやすくなるのか、完全ではないものの若干楽になった△
 ④「私は今【悔しい発作】にジャックされているんだ」と心の中で唱えてみる→メカニズムは不明だけれど、何故か少し楽になった△

検証の結果、③または④が比較的効果が高いと考えられ、採用された。
 こうして、私の研究指標は、以下のように定まった。

・【悔しい発作】が起きた時は、ノートに現状を書き殴ってみたり、「私は今【悔しい発作】にジャックされているんだ」と唱えてみたりして自己対処を試みる。
・パートナーが近くにいるときは、パートナーに【ケアのコミュニケーション】を依頼する。
・SNS外で、自分と近しい経験を持つ人のコミュニティとの繋がりを増やす。

 さて、ここまでは「順調」である、……ように思われた。

三章、小さな引っ掛かり
 おおよその研究指標が固まり、《ワーク》を実践しながらノートをつけていたある日、私はふと、【悔しい】という言葉にが気になった理由は何なのだろう、という素朴な疑問を抱いた。以前にも述べたように、私が怒りに着眼したのは、反差別の文脈での「怒りによる連帯」という観念に影響を受けてのことだ。だが、【悔しい】という言葉に対する感情は、そういう理屈を抜きにした「これこそが本質だ!」という直感だった。そのため、肝心の【悔しい】の正体について、私は詳しく考えてこなかったように思う。ここを問わずして、【悔しい発作】の正体や対処法を解明することなど不可能ではないか、と私は反省した。現れた問いは以下のようなものである。

《問い》【悔しい】とは一体どんな感情なのだろう

 そこでまず、「悔しい」を辞書で引いてみた。意味合いは下記のとおりであった。

 [悔しい]
 辱めを受けたり、自分の無力を思い知らされたりして、腹立たしく残念だ。

 辞書的定義を眺めてみて、私は、やはりこの概念が重要なのだ、という思いを新たにした。あのやり場のない、強烈な感情を表すのに最も適切な言葉だ、と思った。
 そして、同時に、この辞書的定義に触発されて、強烈に想起されるエピソードがあることにも気がついていた。

 《エピソード》
 場面は日曜日の昼食時、私は当時小学生だった。私の母は昼食の時、祖母と私と母の三人だけになると、激しい口調で仕事の愚痴を言い始めるのが常だった。母は、自分が職場でいかに軽んじられているかを滔々と語り、母の同僚に対する手厳しい批判を怒声にも近しい調子で捲し立て続けた。昼食が終わって後片付けをし、母と祖母が夕飯の準備をはじめるまで愚痴は終わらなかった。祖母はいつも、母の愚痴をほとんど相手にせず、「そんなこと言うたって何にもならん」と一蹴に伏すのだけれど、そうすると母は一層激しく憤り、愚痴を激化させる。私は二人のやり取りを聞きながら、心の中で必死に母の味方をしていた。母を酷い目に遭わせる母の職場に腹が立って仕方がなかったし、母の話をきちんと聞いてあげない祖母のことを冷たいと思っていた。けれど、子どもの私が何か言えるような空気ではなく、勇気を出して何か母にアドバイスらしきことをしても、母か祖母から「子どもに何がわかるん」と一蹴されて終わるので、私はただ俯いてご飯を食べ、終わりのない母の愚痴を聞きながら自室に戻るしかなかった。

 そのエピソードを思い出しながら、「ああコレいつものやつだな」と思った。私をしばしば襲う症状の一つ、トラウマのフラッシュバックである。私は、カウンセラーから「貴方は虐待された経験を持っている」と指摘されており(周りくどい表現であるが、「私は虐待されていた」と言おうとするとどうにも違和感があるので、自身の症状について説明する必要があるときはこういう言い方をしている)、カウンセリングを通して過去のトラウマの処理をしている。この記憶についても過去にカウンセリングで扱い済みなので、私はカウンセリングで行った処理を思い出しながら自己対処を試みた。
 自己対処が成功し、ある程度落ち着いた時、私はふと、カウンセラーから教えてもらったとある知識を思い出した。実は、【悔しい発作】が発明されるよりもずっと前に、「職場で理不尽なことが起こった時、コントロール不能なほどに激しい怒りを感じてしまう」という苦労についてカウンセラーに相談したことがあったのだが、その際におおよそ以下のようなことをカウンセラーは語ってくれた(記憶違いもあるかもしれないので話半分で聞いてほしい)。
『人間の脳の中には、パソコンのファイルのように、過去の記憶が整理して収納されている。その中で怒りに関する記憶には「怒り」という専用タグが付けられていて、「怒り」で検索を掛ければすぐに閲覧できるようになっている。現実世界で何か腹の立つ出来事が起こって、脳の大脳というところが怒りを感じると、「怒り」のタグが検索にかけられて過去の「怒り」ファイルがズラーっと開封されていく。この、開封された過去の「怒り」がファイルがすでに処理済みで、安全な記憶になっていれば問題はないのだけれど、子どもの頃に親子関係が上手くいかずに、怒りを受け止めてもらうべき時に受け入れてもらえない、という経験が続いていた人は、未処理の「怒り」ファイルが一気に開封されて感情が爆発してしまうことがある。カウンセリングで今行っている記憶の処理は、この過去の「怒り」ファイルの感情を大人の貴方が受け止めてあげることで、処理済みの安全な記憶に変えていく作業だ』
 この知識は、【悔しい発作】のメカニズム解明の上でヒントになるのではないか、と私は思った。当時の私が母や祖母に感じていた「怒り」のファイル――トラウマのエピソードが【悔しい発作】を誘発している可能性があるかどうかを、カウンセラーに聞いてみる必要があると私は考えた。取り急ぎ、備忘録として以下のようにノートに書きつけておいた。

 《ワーク》先生に質問
 トラウマと【悔しい発作】は関係があるか?

 だが、この仮説の検証については次回の診療日時まで待たなければならなかった。

四章、突如現れた魔法の言葉
 私は、第三章で見つけた小さな引っ掛かりを診療予約日まで保留にし、先に別のワークに取り組むことにした。

 《ワーク》同じ怒りを共有できそうな人とコミュニケーションをとってみること

 このワークは、【怒りのコミュニケーション】が成功する体験について再考するためのワークであった。【怒りのコミュニケーション】が【悔しい発作】にどのような影響を及ぼすのか気になっていた、というのが半分、肩透かし感のない、満足のいくコミュニケーションをとってみたいという気持ちが半分だった。差別の問題に造詣が深く、かつ当事者性も兼ね備えている友人を二人ほど知っていたので、それぞれとコンタクトを取り、【怒りのコミュニケーション】が成立するか、そして私がそれに満足できるかどうかを試してみた。カウンセラーとではなく、自分と近い経験をしたことのある身近な友人と、対等な立場でとるコミュニケーションならば、同じ経験に同じような怒りを抱いてもらえる可能性は高いように推測された。
 結果から述べると、そこに【怒りのコミュニケーション】は成立した。友人たちは、時に私よりも鋭い怒りを口にすることがあったし、私の怒りにも深い実感を伴った共感を返してくれた。それがとても嬉しくて、私は安心して自分の怒りを口にすることができた。充実した時間だった。私はとても満足した。
 にも関わらず、何か、根本的な問題が解決していない気がしてならない、という不思議な気持ちだけが心の底に残っていた。やはりコミュニティに属することのほうが重要で、コミュニケーションの内容は重要ではないのかもしれない、などと考えつつ、自転車を漕いでいた帰り道、ふと、SNS上での私に対する批判的な意見を思い出して、強烈な【悔しい発作】が起こった。私は私を辱める全てのものに対して怒りをぶちまけてやりたいと感じ、頭の中でその算段をつけ始めていた。一刻も早く家に帰ってSNSをチェックしたくて仕方がなかった。だが、この時とても不可思議なことが起こった。自転車が赤信号で止まっている間に、私は、何の前触れもなく唐突に、このように思ったのである。

『でも、これって私の悔しさじゃないよな』

 すると、私を支配しようとしていた【悔しい発作】は嘘のようにおとなしくなり、等身大のイライラだけが残った。私の胸に残っていたのは、SNSで顔も知らん奴がなんぞ言ってるな、という時に相応しい、私の心を侵害しない、小さな小さな怒りだった。どこかで聞き齧ったアンガーマネジメントなるものを思い出し、6秒間深呼吸して適当に気を逸らせばあっという間に対処できてしまって、SNSを見に行こうと言う気持ちも消え失せてしまった。
 私は直観的にこの感覚を「正しい」と思った。家に帰り着くと同時に、研究ノートに以下のような言葉を殴り書きした。

 『まほうのことば「それは私の悔しさじゃない」悔しいを元の持ち主に返すための言葉。悔しいを返しましょう。お母さんの悔しいはお母さんに、誰かの悔しいは誰かに返す。こんにちは、私の悔しさ。こんなに小さかったんだね。』

 後から見返すとなんか怖いくらいにポエミーだ。だが、実際問題、「まほうのことば」は私にとってとても有効な手法だった。これ一回きりの経験ではなく、その後も【悔しい発作】が起こるたびに効果を見せた。それどころか、この「まほうのことば」の存在に気づいて以降というもの、【悔しい発作】の発生回数自体が少なくなっていったのである。

五章、自己イメージのパラダイムシフト
 「まほうのことば」の発明を経て、私は急遽これまでの認識を改める必要に迫られた。第三章ではちょっとした「引っかかり」程度に考えていたことが、一転して極めて重要な意味を持ち始めた。私は以下のような仮説を立てた。

《仮説》【悔しい発作】は怒りの感情の爆発ではなく、トラウマの発作なのではないか

 自分の日常生活をよくよく思い返してみると、【悔しい発作】が発生しやすい状況には、いくつかのパターンがあることがわかってきた。

・誰かが陰口を言っているパターン
・仕事で理不尽な扱いを受けてしまったパターン
・誰かが激しく怒っているのに、他者がそれをきちんと受け止めてあげないというパターン

 そして、【悔しい発作】が発生する3つのパターンを、私のトラウマのエピソードと比べてみると、

 ・母が職場の人の「陰口を言っている」という状況
 ・母が「仕事で理不尽な扱いを受けている」と感じている状況
 ・母が「激しく怒っている」のに、祖母が「それをきちんと受け止めてあげない」と言う状況

 というように、いずれも共通項があることがわかった。実は、「はじめに」で述べた出来事も、慎重に因数分解していくと、私の怒りの中心部には差別への怒りとはまた別の感情として、「陰口を叩かれることへの【悔しさ】」が存在していた(詳細は冒頭のノート以下略)。「仕事で不条理な扱いを受ける」ことへの【悔しさ】は、本論文では今までごく軽くしか言及してこなかったので唐突に思われるかもしれないが、私が職場でのストレスをきっかけに適応障害を診断され、カウンセリングを受診するようになった原因の一つに、理不尽さに対する耐性の低さがあるのは事実だ。そして、最後のパターンが最も重要である。SNS上のコミュニケーションが、そこで語られる内容が良かれ悪しかれ、非常に「陰口的な構造になりやすい」ものであることはすでに述べたとおりだ。
 ※念のために述べておくが、SNS上で述べられる反差別の声を「陰口」と名指して貶めるつもりは全く、これっぽっちも、小指の先ほどもない。それどころかむしろ、SNSで反差別の声をあげることは、SNSという社会資源を暴力ではない形で適正に利用しうる数少ないやり方であると私は考えている。私が言及したいのは、リツイート、匿名性、拡散、炎上などの一連のSNS的なコミュニケーション構造が、極めて「陰口誘発的」であり、その構造が私に【悔しい発作】を引き起こすのだ、と言う事実のみである。

 そんな「陰口の温床」で、わざわざ私が「私よりも差別に怒っている人」を探している理由についてじっくりと考えてみた時、私はついに、最もしっくりくる仮説に辿り着いたのだ。

 《仮説》私は自分のためではなく、母のために怒っていたのではないか

 私は、私の怒りではなく、記憶の中の母の怒りを代行しようとしていたのかもしれない。この仮説が正しいとすれば、私は【投げやりコミュニケーション】でも、【怒りのコミュニケーション】でもなく、【ケアのコミュニケーション】がしたかったのだ、ということになりはしないだろうか。それも、私の方がケアラーとなり、母をケアするコミュニケーションだ。この仮説を採用するならば、ずっと謎だった【投げやりコミュニケーション】の原理も以下のように推測できてしまう。

 《仮説》私は【投げやりコミュニケーション】を通して、母と祖母のやりとりを無意識のうちに再演しようとしていたのではないか

 つまり、【投げやりコミュニケーション】は、目的とする適切なコミュニケーションが阻害された姿なのではなく、それ自体が私の目的とするコミュニケーションなのだ、ということになる。私が極端なやり取りに走ってしまうのは、単に【悔しい発作】に邪魔されたから、というだけではないのかもしれない。これも、私が母の怒りをケアしようとする行為の一環だったのかもしれないのだ。

 これらの仮説の台頭は、私の自己イメージを大きく揺るがすものだった。私は長い間、【悔しい発作】を自分の本質的な怒りだと思い込んで生きてきた。【悔しい発作】中の私こそが私本来の姿なのであり、これとどうやって付き合っていくかが肝になるのだ、と自分を理解してきた。だから、私のことを「優しい」とか「人好きのする」とか「温和」とかいうふうに評する人に出会うたび、「それは貴方が私の本質を知らないからだ」と感じてきた。同時に、正体不明の怒りに支配され続ける自分、人を傷つける自分、横暴で尊大な自分が嫌いでしょうがなかった。だが、本当は私の方こそが、私の本質を取り違えていたのかもしれない。私は私ではないものを、私の本質だと思い込んできたのかもしれないのだ。

 私は興奮しながら、ノートに以下のように書き付けた。

『【悔しい】を捨てても私は優しい。私は人が好きだから。私は他者を愛しているから。』

 私は、【悔しさ】こそが、差別と闘うための必要不可欠な感情であると思い込んできた。私が差別に向き合い、戦おうとするのは、差別が私を【悔しさ】に駆り立てる故であると。だが、【悔しい発作】が以前よりも少し遠い存在になった今も、私は変わらず他者と共にありたいと願っているし、差別の根絶を願っているし、私にできることをしたいと考えている。私が差別と闘うために本当に必要とするものは、【悔しさ】ではなく、怒りですらなく、私に備えられた愛――他者と繋がり、寄り添いたいと言う欲望――なのかもしれない。

 そして、とうとう発掘された私の苦労の正体はこれだ。

【私の苦労】私は、過去の母の感情を、自分のものとして引き受けてしまう

 これにより、ここにきて私の自己病名は大きく変化することになった。

【自己病名】悔しい引き受け型愛着障害

 私を闘争と絶望に追い込んでいたのは、生き延びることから遠ざけていたのは、愛着障害だった。「貴方は虐待されていた」というカウンセラーの言葉を、今なら素直に受け入れられるかもしれない、と初めて思った。私に本当に必要とされている《ワーク》は、【悔しい】の仕分け作業、つまり、母の【悔しさ】を母に返し、私自身の本来の感情に目を向けてあげる作業だったのだ。

 さて、《問い》と《仮説》と《エピソード》を直感的につぎはぎしてここまでやってきた。ようやく辿り着いたこの地点を「正解だ」と感じる気持ちに嘘はない。だが、懸念はないわけではなかった。

 《問い》【悔しい】を自分から切り離すのは安全なことなのか?

 散々述べてきたように、【悔しい】を「自分の感情じゃない」と判断した根拠は直感だ。論理的な何かではない。本当にそれを信じて良いのだろうか。例えば、この直感に従って【悔しい】の仕分け作業を行なっていったとして、「本当は自分の感情だったのに、正しく引き受けられなくなってしまった」という問題が生じたりはしないだろうか。この懸念について、私はこれまでの思考の経緯も添えて、カウンセラーに尋ねてみた。カウンセラーの回答はこうだった。

「単純に、感情を分離するというふうにだけ聞くと、多少問題がありそうにも思われますが、騒音さんの場合は、騒音さん自身の感じている怒りが、【悔しさ】とは別ものとして残っている感覚があるんですよね?そうであれば、さほど危険だとは感じませんね。いずれにしろ、騒音さん自身が良い影響を感じとっているのであれば、一旦はその状況を続けてみて、様子見をするのが良いのではないでしょうか。そして、もしも苦痛を感じたら早めにやめて、また相談してくださいね」

 苦痛のアラートに耳を澄ませつつ、現状維持をするという判断は、非常に合理的に思われた。私はカウンセラーのこの提案を受け入れることとした。

◾️結論
 現時点での私の研究の結論をまとめると、以下のようになる。

【自己病名】悔しい引き受け型愛着障害

【私の苦労】
 私は虐待経験によるトラウマのトリガーとなるパターンを発見すると【悔しい発作】を引き起こしてしまう。【悔しい発作】とは、過去に私の母が感じていた【悔しい】という感情にジャックされている状態であり、その時私は自分本来の自然な怒りの感情が見えなくなっている。また、【悔しい発作】は【投げやりコミュニケーション】により自らを再生産しつつ、過去のトラウマの再演を引き起こし、最終的に【死にたいさん】を招いてしまうという負のスパイラルを形成する。

【今後の目標】
 安全に差別と向き合うために、【悔しい発作】と、私自身の怒りを適切に腑分けし、【悔しい発作】がおこりにくい状況を作っていく。

【必要なワーク】
・【悔しい発作】が起こった時は、「これは本当に私の悔しいかな?」とまほうのことばで自分に問いかけてみる
・どうしても【投げやりコミュニケーション】がしたくなったら、信頼できる人に「【悔しい発作】起こってるから、今は【ケアのコミュニケーション】をとってほしい」とお願いし、望み通りになったら感謝を伝える
・SNS外の、自分と近しい経験を持つ人たちとのコミュニティに顔を出す
・信頼のおける友人たちと【怒りのコミュニケーション】を楽しむ
・これら全てはあくまで経過観察の必要なワークであることを肝に銘じ、常に苦痛のアラートに耳を澄ませておく。問題があれば適宜カウンセラーに相談する。

◾️おわりに
 不細工ながらも当事者研究もどきを行ってみて感じたことは、私には「自らを助ける力」が備わっているということだ。そして同時に、研究過程で私を助けてくれたパートナー、友人たち、カウンセラー、コミュニティの方々、その他私に関わるすべての人々の力がなければ、私は生き延びてはいけないだろうということも感じた。一見すると、二つの事柄は「自立」と「依存」という対照的な概念のように見えるが、その実、「自立」と「依存」は、互いに支え合い、補い合うようにして成り立っているのではないだろうか、と私は思った。
 なお、今回見つかった苦労は、【悔しい発作】以外にも私の中にトラウマの発作が眠っている可能性を示唆するものだった。私が母から引き受けている感情は【悔しい】だけだとは限らないからだ。また、【悔しい発作】の対策についても、いついかなる時に苦痛のアラートが鳴り響き、私を踏み止まらせるかはわからない。苦労はまだまだ山積みであるし、研究はまだまだ続いていくだろう。なるほど、とても順調である。

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