きゃすたー

彼女の机の引き出しの3段目に、開封済みのタバコが一箱入っていた。銘柄は、きゃすたー、と読むのだろうか。これまでの人生で私の周りには喫煙者がほとんど居なかったから、タバコの銘柄なんて、小説や映画に出てくるものくらいしかわからない。
「吸うんや。知らんかった」
私の問いかけに、彼女は気まずそうな顔をした。
「んー?あー、今は吸ってないよ」
「辞めたん?」
「うん。……そういうの嫌いやろうなと思ってん。アンタ、優等生ちゃんやもん」
意外な返答に目を丸くする。辞めたにしても、もっと昔の話かと思っていた。だって、彼女と付き合い出して3ヶ月、出会ってから5ヶ月、一度もタバコを吸っているのを見たことがない。タバコって、そんな簡単に辞められるものなんだろうか。ライトスモーカーってやつ?
ほんの数日前、二人で見たバラエティ番組で、ちょうどお笑い芸人がタバコの話をしていた。タバコを吸うためなら何でもやるだの、電子タバコは邪道だのと、何やら自慢げに話す様子を見て、彼女はまるっきり他人事の顔で笑っていた。
そんな彼女は、
「ずーっと辞められへんかったのにさァ、アンタに嫌われたら嫌やなァ、て思うた途端禁煙成功。愛の力は偉大よホンマ」
と言って、照れくさそうにはにかんでいる。
「気にせえへんのに」
私にも照れが伝染する。
「タバコって苦いんやろ?子ども舌の癖に、平気なん?」
彼女のさりげない気遣いは、子ども扱いのようにも思えて少し悔しく、私は逆に彼女を露骨に子ども扱いしてみた。一応、学年では私の方が一個上だ。こうやって、偶に些細な意地をはるけど、大抵、「年上ったって半年しか違わへんやん」と笑ってかわされるか、「私より生活能力つけてから物言うてもらえます?」と返されて、ぐうの音も出ずに終いだ。
今回は、揶揄の意図そのものが伝わらなかったようで、彼女は何にも突っ込まないで、
「コレはそんなに苦ないで。バニラの匂いがすんねん、ホラ」
と、箱から一本取り出して、私の鼻先に近づけてきた。手に取って嗅いでみると、なるほど確かに、微かに甘い香りがする。
「火ィつけたらもっと匂う?」
にわかに湧いた好奇心を隠さず言うと、彼女の両目が自慢げに弧を描いた。
「気になるなら吸って見せたろか?」
言うが早いか、彼女は立ち上がると、引き出しの奥から百円ライターを取り出してポケットに突っ込んでいた。
二人でベランダに出て、人目から隠れるようにしゃがみこむ。彼女は慣れた手つきでライターに火をつけて、タバコの先をじりじりと炙った。煙の苦い香りに混じって、さっきより濃いバニラの芳香が漂ってきた。タバコをふかす彼女は、お人形みたいなかわいい目を柔らかく細めて煙の先を眺めていた。華奢な身体も、整った爪も、ブリーチで少し傷んだ長い髪も、白くてきめ細かい肌も、なにもかもが女の子らしい彼女なのに、その時だけは、ちょっと悪ぶった少年のような風情があった。
彼女と比較すると、普段の振る舞いは私の方が俄然男っぽい。というか、おっさん臭い。癖の強い食べ物やお酒に関しては私の専売特許だし、脱いだ靴下を部屋の隅っこに丸めて隠すので、よく彼女に叱られる。彼女に出会う前は1日3食カップ麺で、とうとうズボラがすぎて食べること自体をサボり始め、骨と皮になりかけた所を彼女に救われたこともあった。一体どこが優等生やら、と私は思うけど、彼女に言わせると、きっかり二十歳まで酒も飲まずタバコもやらずに生きてきたことが、もう信じられないらしい。周りの友達がみんなそうしていたから合わせただけだと言うと、もっと信じられない、と言われた。私からすると、彼女が愛用しているヒョウ柄のボトムスの方がよっぽど信じられないし(なお彼女曰く、あれはヒョウ柄ではなくレオパと呼ぶらしい)、中学生の頃ギャルを拗らせて自転車のハンドルにハイビスカスを巻いてた話は流石に笑ってしまった。
なおその頃の私はというと、ニキビだらけの顔にダサい丸メガネをかけ、くせっ毛でお下げ髪を結い、友達がいないので休み時間は勉強するか、文学少女よろしく図書館で借りた本を読んでいた。嘘みたいなホントの話だ。なるほど優等生っぽいかもしれない。
慣れた風情でタバコを吸う彼女は、悔しいけと結構様になっていて、格好よかった。23歳にもなって今更『悪い子』に憧れるって、いくらなんでも子どもっぽいだろうか。そもそも、二十歳すぎた大人がタバコを吸っているのを、『悪いこと』だと感じてしまうこと自体が、彼女に揶揄される通り『優等生』なんだろう。露骨に言い換えれば、イタい。
なんせ、大人に言われたとおりの道を一生懸命歩いてきて、他のみんなはもっと好きなように生きているんだと気がついた時には、もう大人になってしまっていたのだ。あーあ、やだやだ、私も思春期にレオパ履いてハイビスカス巻いとけば良かった、なんてくだらないことを考える程度には、私は彼女の人生を羨んでいる。
彼女が蒸かしたタバコの煙は、ベランダの屋根を優しく撫でてから、初秋の高い空に音もなく溶けていった。しばらくはそれをぼんやり眺めていたのだけれど、ふと視線を感じて、彼女の方を振り向いた。目と目が合うと、彼女の眦がすうっと細くなって、いたずらっ子の顔つきになる。
「喫煙者とキスしたことある?」
耳にかけていた彼女の長い金髪が垂れて、ベランダのセメントすれすれにふわりと落ちる。
「……ない」
ゆっくりと唇が近づいてきて、触れたか触れないかのうちに離れた。つい息を詰めてしまったから、バニラの香りはあんまりわからなかった。私がよっぽど硬い表情をしてたからだろう、彼女はクスクス笑いだした。
「アンタってたぬきみたいやんな。ちょっと脅かしたらポテンと気絶しそうやわ。ついでに顔つきも似てるしな」
鼻の先を指でつつかれて、頬が熱くなる。この揶揄の元は、昨夜私が自慢げに説いた蘊蓄だ。『タヌキは臆病で、鉄砲の音を聞いただけで気絶してしまうんよ。そんで、死んだと思い込んだ漁師が背負って帰ろうとしたら、目を覚ましてとっとこ逃げる。仕留めたはずがドロンと消えるから、狸に化かされたァ〜、って言うようになったんやで』ちなみに全部、子どもの頃に読んだ教育絵本の受け売りだ。彼女はいかにも興味なさそうに、ほーん、と適当な返事をしていたけれど、実はしっかり聞いていたらしい。
「……ほなドロンと逃げたろかいな」
年上舐めんな、駆け引きならのったるぞ。なんて思ったけれど、
「逃げてしまうん?」
と、寂しげに言った彼女は、ころっといたずらっ子の顔を引っ込めて、今度は子犬のような真ん丸な目で見つめてくる。とても可愛い。もう降参だ。
「ウソ、逃げやせん。しっかり仕留められてしまいました」
両手を上げて参りましたのポーズ。自分で言っといて、ちょっと赤面しそうになる。
「うわ、クッサ!自分言うてて恥ずかしないのん?それ」
案の定突っ込まれる。けど、その辺はお互い様じゃないの。半ばむくれて、
「……どの口が言うてんの」
と返すと、吸いかけのタバコをベランダの床でもみ消してから、またキスされる。今度はしっとりと押し付けるように。
「この口」
彼女はクスクス笑っている。私は今度こそ赤面した。
「いや、クッサイやつやん!」
「ええ〜?バニラの匂いやのに?」
「そっちやないて……」
しょーもな、と呟いた声は、タバコの煙と一緒に空に溶けてしまった。

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