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異動後の日々を支える本たちと、仕事に対する自負心

9月に異動した。目の前に仕事が山のように積まれている。

料理に例えるなら、ものすごい量の料理が大皿に盛られた状態だ。

土佐の皿鉢料理か。いやそんな明るい気持ちにしてくれるような色味ばかりではない。

「ルパン三世 カリオストロの城」のミートボールパスタか。

いやもっと多いぞ。『千と千尋の神隠し』で、千尋の父母の目の前に並んだ料理か。あぁ、分量としては、そんな感じかもしれない。

ただ、どれとも違うのは、決して美味しそうなものばかりではないということだ。

異動したばかりなので、期限があるタスクには、期限に余裕があるものが手元にあるので、「ヤバい!」という危機感は少ないものの、気持ちに余裕がなくなる時間が増えた。

それでも、何とか気持ちが荒まずに済んでいるのは、多様な種類の本に毎日触れているからだろう。「毎日、物語1つ、詩を1つ、論考を1つ」読んでいる。

大自然に触れる日もあれば(「ローソン短篇集」「山のパンセ」)、人間の業に迫る日もあれば(「人間失格(太宰治)」「オイディプス王(ソポクレス)」「李陵(中島敦)」)、欲に縛られる人間(「人間椅子(江戸川乱歩)」)、神聖な気持ちになる日、ただただ楽しい気分にさせる作品。それらを詩という形、エッセイという形、短編小説という形で毎日、何らかの刺激を受けているせいだと思う。

必ず毎日、思わぬ楽しさ、悲しさなどの刺激を受ける。昔読んだ名作を再読すれば、当時、感じなかった喜びを見だすこともあった(「春琴抄(谷崎潤一郎)」)。

生活圏が墨田区にあるので、池波正太郎さんの「剣客商売」「鬼平犯科帳」を読むと、作中の人が歩く道順までイメージできて、小説世界にいるようでワクワクする。

エッセイ・評論では、そんな見方を? と驚くことが多い。

橋本治さんの「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」を読めば、普段ダラダラと読んでいるマンガに隠れた表現や作者の考えに「はぁ」と嘆息するし、中森明夫さんの「午前32時の能年玲奈」を読めば、昔のアイドルを思い、表に見えないアイドルたちを思い、涙する。「大前研一の新・国富論」を読めば、令和の今、議論されていて、まだ国民への説明が足りないと言われていることが40年も前に建設的に考えられていたことを知る。日本の為政者は、勉強したことないのか? と感じてしまう。呆れてしまう。

そんな日々の刺激があるから、目の前の仕事に埋没せずに済んでいるんだろう。


一方で、マーケティングの仕事がとても楽しくもある。

去年から無料のマーケティング学習講座を受講していて、一気に、マーケティング活動の全体の見通しがよくなった。細かい部分にも目が届くようになった。

毎週、ほぼ毎週、2-3時間を講座を視聴し、3-4時間かけて、noteに視聴メモを書いている。

講座で紹介された書籍も毎週、何らかの形で手に取って、2-3時間は読んでいる。週のうち7-8時間は、マーケティングの学習に費やしている。講座が休みの週もあるが、最低でも月に30時間はマーケティングの勉強をしていることになる。

マーケティングの実務上の知識、タフなマーケティング経験では、適わない人も社内にいるし、マーケティング活動の隣にある営業活動では、知識も経験も豊富にあって、遠く及ばない人がたくさんいる。この人のいうことは絶対に蔑ろにできないと思う人は社内にたくさんいる。でも、「マーケティングのお勉強をしている」時間なら、今、社内で一番だろう。

実際、実務に使うための知識習得を目指した講座なので「お勉強」なんていう言い方をすることはないけれど、尊敬できる周りの人たちを高く持ち上げるために少し幼稚な言い方をしてしまった。講座の運営の皆さんすいません… すごく役立ってます。そして、マーケティングの仕事が楽しいです!

マーケティングの知識が定着するにつれ、それが仕事上でどの位置にある活動かが、すごく見えるようになった。足りないところもはっきりわかる。

ここ2年くらいの活動が、実績としては実を結ぶまで来ていない。だけど、少しの自信と、楽しみながら生活できているだけで、今は十分かもしれない。

仕事で実績を残すことは、20歳代、30歳代とずっと望んできたことだ。スポットでは、いい仕事ができたと感じても、継続してできてはこなかった。なんとか、毎日の楽しい読書とマーケティングの勉強を続けて、会社に継続して結果を残せるようになりたいものだ。


いい歌を詠むため、歌の肥やしにいたします。 「スキ」「フォロー」「サポート」時のお礼メッセージでも一部、歌を詠んでいます。