【映画】ルース・エドガー

ヴァージニア州の高校に通うルース・エドガー。陸上部のキャプテンに任命され、討論部の代表として全米大会にも出場する文武両道の模範的な優等生。7歳でエリトリアからアメリカにやってきた彼を養子に迎えたエイミーとピーターはそれぞれ医者と実業家として仕事をこなし、進歩的な、政治的に正しい、(おそらく民主党支持の)白人。エリトリアでは少年兵であり、勉強よりも先に銃の扱い方を覚えていた彼の心理的な傷を治すべく、カウンセリングやセラピーなど様々なものに必死に取り組んだ。ルース・エドガーは新たに与えられた「LUCE」(イタリア語で光、輝き)の名にふさわしい、人物に育った。
そんな彼が陸上部の仲間と共有しているロッカーに誰かが小包みを入れる。映画はそこから始まる。歴史上の人物をテーマにした課題のレポートで取り上げたのは、フランツ・ファノン。アルジェリア独立運動の革命家であり、「政治的には」過激な思想の持主としてアメリカでは見られている。その内容を問題視した黒人教師のハリエットは、彼のロッカーから危険な違法の花火を発見し、ルースの両親を呼び出し、話をするように説得する……。

というようなあらすじで、まぁ、最初から最後まで不穏な空気が漂い続けるのですが、テーマとしては「正しさ」の押し付けと、こういうテーマがあるのかは分からないけれど「Why me?」という2つなのかな、と。
前者は「悲劇を乗り越えた黒人」「アメリカの良心」の象徴を求められ、その道から外れることは許されない……しかもそれは黒人の先達であるハリエットが強く求めている(しかしハリエットにもそうせざるを得なかった背景を感じさせるあたりがさらに悩ましい)。「いわゆる黒人」のステレオタイプから自由を手にして、箱から出たかと思ったら、もう一つ大きな箱の中にいた、みたいな感覚。それは「名誉白人」的な別のステレオタイプにはまることをルースに強要しているのかもしれない。後者は、「なぜ自分だったんだろう」という偶然性への不安……エリトリアからアメリカにやってこれたのは自分だったのか、救われる人とそうでない人は誰が決めるのか。それらは偶然でしかなく、だからこそなぜ自分が「選ばれた人間」のように扱われるのか、同じ黒人の仲間は一発アウトだったのに、自分は……というような葛藤。そしてこの2つは、それはもう、複雑に絡み合っているわけで。

途中、無人の客席を前にルースがスピーチの練習をするシーンがある。「自分自身について語る」ことを母親に薦められて話すエピソード。名前が上手く発音できなかったので、名前を変えた。そして与えられた名前が「ルース=光」。これをグロテスクに感じるか美談に感じるかで、この物語の見え方は大きく変わるのかもしれない。

※後者のテーマは西加奈子の「i」なんかが近い気がする。
※フランツ・ファノンに対する捉え方も、その生涯やこの著書のこととか考えるとそこまで警戒しなくてはならない、ということにも複雑な感情を抱かざるを得ない。
https://1000ya.isis.ne.jp/0793.html

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