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法外の人ーアウト・ロウー浪人の道

8月25日11時から14時の参加者と、夏野菜畑にて土作りの続きをしました。もう何度も来ている学生だと、畑についたらとりあえずトマトやきゅうりを食べるところから始まる。いいね。そんな場所であり続けたい。

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今回は牛糞をたんまり土に混ぜる。いい感じに土が柔らかくなってきました。

前々回の投稿「日出而作、日入而息、鑿レ井而飲、耕レ田而食、帝力于レ我何有哉」で、農本主義者の松田喜一氏が中国古代の撃壌歌の一節をうたった老人に通ずるところがあると記載した理由は以下の点である。通念としての「武士(道)」なるものは、時の天皇や将軍や大臣を中心に、その主君の為に自分の命を犠牲にしてでも尽くすこととされてきた。これを松田氏は「農魂と士魂を履き違えた者が長い年月い続けた」とはっきり言っている。

松田氏の農魂からはその土地に長年根付いてきた産土(氏神)だけではなく、神々への信仰が大量に湧いて出てくる。農魂も士魂なのではなかろうかと同一視は決して出来ないが、決定的な違いとして「農魂」は権藤成卿氏のいう「社稷」そのものが人々ひいては国家を支えるという意識であり、これは松田氏のいう「つまり一生立身も出世もできない者の魂である。」という根の部分である。一方「士魂」は「国家」は國體であり、現代でいえば國體こそ重要だとさえ言っていればいくらでも政治利用してしまう権力側の人々であり、松田氏がいうところの「茎葉の如く上に昇り、他を指導し、支配する魂である。立身出世ができる人の有する魂」ということになる。

以下は神道家の葦津珍彦氏の投稿であるが、これにも通ずるところがある。

この「名も要らぬ」西郷の悲願を継承して修業したのが頭山満である。(~中略~)かれの行動に共感する者は、かれを国士と称したが、共感しない者は、傍若無人の無法者と評した。かれ自身は、決して国士の名にとらわれなかった。(~中略~)かれは名高き貴顕紳士を冷潮したが、賊の汚名をきて平然と殺されていった石川五右衛門や鼠小僧のごときを男らしいとほめた。これは法外の人ーアウト・ロウー浪人の道である。(~中略~)
いかなる世評、汚名をも気にかけぬ「名も要らぬ」浪人の道というものは、決して武士の常道とはなりがたい。
(葦津珍彦「文芸六月号【英霊の声】評」 「神道宗教」第44号)

ただ従うのではなく、「主君が本当に素晴らしい人であるならば、社稷が豊になり、困窮した人が助かり、農村が幸せであふれることを喜んでくれるはず」という信念が、中国古代の撃壌歌の一節をうたった老人にも、松田氏にも頭山満氏にもある。西郷隆盛氏や高場乱氏にもあったように思う。こうした考察から、日出而作、日入而息、鑿レ井而飲、耕レ田而食、帝力于レ我何有哉の投稿ページに『「武士(道)だから百姓をするのだ、米作りをするのだ」ということにも決してなりません。』と記した。(続)


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昆虫がいると手が止まって観察会になります。(恒例)楽しい。

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ツマグロヒョウモンが度々飛んできます。これはかぼちゃの葉。

次回は、白菜などの葉物の苗植えです。


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