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オタマジャクシを育てるために、ごはんを食べる

9月9日11時から14時の参加者と、落花生畑にて夏野菜の最後の収穫と、新たに土作りと苗植えを行いました。

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夏野菜の最後の収穫を終え、「しかしオクラがこんなに大きい背丈に成長するとは知りませんでした」と、最初から参加している学生たちはちょっと名残惜しい感じ。

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「楽勝っすよ」と80リットルの牛糞を担ぐ学生がたくましい。

「何の為に勉強するの?」という子供の質問に「人にやさしくあるためだよ」と答えた友人がいる。その答えを聞いた時に、歴史に「学ぶ」だけではなく「習う」のだと言った歴史小説家の井沢元彦氏を思い出した。歴史からその時の人の行動や言論に学ぶだけではなく、発展的に何かの予防や防衛などに活かすことや、あるいは人々が幸せになる方法を導き出す方法にもヒントをくれる。井沢氏の歴史観に賛否はあるが、「学ぶ」だけではなく「習う」とした表現はそのとおりだと思う。

少し長くなるが記したいことがある。実際に田畑に触れてきた中で感じたことである。田畑に「害」があるとするならば、それは昆虫でも鳥でもない。自身の目線でしか物事を精査出来ない人間そのものだ。それは、私自身も含めてそうであるし、あなた自身もそうであると言える。農本主義は資本主義とは相容れないと度々農本主義者の言葉を借りて説いてきたが、しかしこの資本主義を農に該当させない概念など、昨今の人々にはそもそも備わっていない。この現状では、何を言っても改善などされないし、努力次第ですぐにどうにかなることでもないだろう。どうにかしたいと切願するこの気持ちは、「90日農業」という日本にしか存在しない言葉すら忘却した現代人と、近現代言われてきた「鳥が3分の1、虫が3分の1、人間が3分の1」で実った作物をいただくという概念すら持たない農家のほとんどに、心の余裕が見えないからだ。常々記載してきた「農魂」は、農業に没頭し作物に触れることが楽しい心だと言い切っている。しかし、楽しいだけで営んでいる農家は一握りもいない。「カネになるから楽しく出来ている」という農家は存在するが、「赤字だけど、楽しいからやっている」とは、聞いたことがない。実際に農家は経営であり、売上が足りなければ他にも仕事をして兼業せざるを得ない社会構造となっている。他で収益があって、趣味の範囲での農業であれば「赤字だけど、楽しいからやっている」人が存在するのも理解できるが、農業1本で生計を立てるのはとても大変なこと。特に新規参入の事業であれば尚更のことである。

多くの生産が求められ、それはただ生産するだけではなく見た目の良い規格だけを資本に変えられると農協から提示され、その通念は現代人が求める「普通の野菜」として定着されている。だから、泥付きの形の悪い野菜が「病気なのではないだろうか」「栄養が足りないのではないだろうか」「気持ちが悪い形をしている」という感覚を持たれ売れなくなった。しかし、わたしのような資本に結びつかない農業などをやっていると、生命に2つとして全く同じ形などないのに、全く同じ形のものが美味しくて栄養があって病気ではないという感覚こそ奇妙に感じることは強調しておきたい。全く同じ形のもので更には艶がある新鮮そうな野菜の概念は、ことごとく農協や国家政策に創作された農薬の塊だと批判しておく。その上でともに考えていきたいことは、農家がそれをせざるを得なくなってしまった現況がいかに理不尽で傲慢な環境下にあるのかということと、この状況を改善するには一体どうしたら良いのだろうかということだ。

今から11年前、米の選定の時期に農協の職員と農家を回った。その時にこの選定人は米を見て判断したのではなく、米を作る人が自分と仲が良いのか悪いのか、あるいはこのひとが好きか嫌いかで等級を決めていた。わたしたちが「これはコシヒカリで1等米でとても美味しい」と感じる米は、半分以上が思い込みであったということにもなり得る。また、詐欺にも等しいこの農協の判定は、農家を馬鹿にしている。更に、高齢者しかいない畑にはトラクターを次々に買わせる。莫大なローンを組まされた農家は、二束三文でも米を売らなければ、このローンを返済出来ないという仕組みに取り込まれてしまっている。農薬も肥料も苗も農協から買わされる高齢者の農家はとても多い。

農家がいなければ米は食えない。米が食えない野菜が食えないという状況になれば生きとし生けるものは皆死ぬ。そのような、人々にとってとても大切に扱われなければならない農家(第一次産業)は、「言うことを聞かなければ野菜を買い取らない」と脅されて、懸命に育てた野菜を二束三文で農協に売るという事態が各所で現れているのに、土を触ったことのない人達は「百姓が汗水流して育てた野菜を残すな」と簡単に言って、農家の代弁をしている気になっている。もちろんそうした気持ちは大事だが、農家の汗水が流れているうちに農家への劣悪な農協の態度を変えていかなければ、汗水を流すことも減少し、遂には家庭に野菜が供給されないという事態が訪れることも充分に考察すべきである。

ごく最近、農協(農林水産省)が以下のようなツイートをしたことで話題になった。

まず、農機具共済に入りましょう。トラクターの盗難は今に始まったことではない。また、売った側の業者も対策等を農家にばかり任せきりにしないで、一緒に考えるべきですが、おそらくそういう時代ではないので、買った農家は遠慮せずにフルにこの共済を利用するべきだ。その為の共済だ。ガンガン使おうぜ。

そしてなぜか、「トラクター等の機械」の盗難被害のツイートにぶらさげて、「野菜が盗まれた」とつぶやいた方がいるそうですが、「野菜が盗まれる」ことはおそらく何千年前からあることで、農家なら誰しも一度は経験していると聞く。わたし自身も経験があり、植えた人参が全て盗まれたこともある。当時は土付き人参をミキサーで生野菜ジュースにして飲むという流行りがあり、そのために売ったのではないかと推測したが、こうした部分に社会保障というものは実質存在していない。トラクターのように保証はなく、「損害○○万円」というものしか残らない。せっかく育てた野菜が盗まれるのは悔しいし悲しいけれども、数十万円で人の命や生計を保てたなら、人参を育ててよかったと思える。これが何百万何千万であるならば、国家がこれを保証すべきである。そのために収入保険や農業共済があるが、この保険や共済は大規模農業にしかメリットはほとんどない。少し盗まれたぐらいでも「盗みは立派な犯罪だ」と言って犯人探しをするような人は入ればいい。この制度はつい最近できたばかりのもので、つまりつい最近までは、被害にあっても倫理的に盗みは良くないけど我慢したり、それが日常だと感じたり、困った人がこの地域に出たのかと心配したりすることが多かったのだ。それよりも農家は虫や鳥にやられる被害の方が存分に大きい通年の被害となる。(無農薬・有機栽培の場合)

台風被害や水害などの天災には逆らえない。だから、仕方ないと言えるが、相手が「命」になると、ピラミッドを組み立てて自分の位置を確かめるようなしぐさをする。これは農家がいわゆる害虫に対して思ってきたことだ。害虫をなくすためにたっぷり農薬を撒く。すると、水田にいたカモは少なくなり、小さな生き物も激減する。これを人間が食べるというなんとも恐ろしい状況だが、綺麗事を抜きにした場合、農家が社会のために役立てている部分は、環境の維持や生物を活かすこと他ならない。美しい田園風景は農家がいなければ見れない。しかも、これを見るのは無料である。でも農家はこの田園風景を作り出しても一円も儲からない。ここに農家の最大の価値がある。しかし、土俵が資本や経済になると、規格品を作るために農薬を使い時間を使ってきれいにパッキングする。その時間を作るために農薬を撒く。つまりこれは人々の納得のいく形造りに勤しんでいるだけで、本当に美味しいもの造りとは言えない。しかし需要に合わせた供給をしなければ、農家はやっていけない。なぜ、人々の命をつなぐ農家(第一次産業)が、これだけの要求に答えてわざわざ農薬を使い土を台無しにして虫や鳥や人の命も考えることをやめてしまったのか。やはりそれは、根源に資本があるからに他ならないだろう。もちろん、この事態そのものをいま責めることは出来ないが、批判はしていきたい。少しずつ人々の概念を変えていかなければ、食うものも食えず、死んでいい人、生きていい人などという生命の差別が生まれてくることを危惧せざるをえない。

日本のカエルのほとんどは、田んぼで産卵する。(中略)つまり、田んぼがないと多くのカエルは生きていけない。田んぼは、もちろん百姓がいなくては、成り立たないし、そこに稲という植物が育たないと意味を持たない。その稲は、ごはんにして食べてくれる人がいなくては、植える価値が出てこない。稲が田んぼで育つから、カエルも一緒に育つ。カエルを、トンボやメダカやホタルやゲンゴロウやハクチョウやコウノトリと置き換えてもいい。「自然」と呼んでもいいだろう。つまり、その田んぼのごはんを食べる人間がいるから、その田んぼの自然の生き物が育つのである。百姓は、その取り次ぎをしているのだ。(中略)
自分の命を糧としてごはんを食べるという行為を、次のように言い換えてみよう。「オタマジャクシを育てるために、ごはんを食べる」と。
(国民の為の百姓学/宇根豊 光の家協会)

農本主義者の宇根氏は、食べ物を通して生き物とのつながりを実感できるという。そして、こうした繋がりを見失ってしまったことが、現代人の不幸の始まりだったと言っている。自分の資本のために、自分だけのために、農が存在しているのではなく、農は常に農魂を抱くものとそれを理解し受け取る側で成立している。そこに資本が介入するときは、見た目の良さや形ではなく貴重な農魂そのものに敬意として介入すべきだ。そうした過去の理論からすれば、農魂の中にドロボーなど存在していない。資本主義の中の農家にはこれが存在し、農家が食う為の野菜を盗む泥棒が存在するが、この構造事態は農協(農林水産省)や日本の経済優先の政策によって作られただけのものでしかない。であるから、農家が衰退し始めた頃からの野菜の輸入も増大している。本来ならば、切り捨てずに農家を大切にすべきであるが、まるで使い捨ての生業としか思っていないだろう。だから適当な政策しか存在していない。その中で農業をすることはとにかく資本を稼ぐための農業として、シビアに物事を考えるように仕組まれている。これは国家が農家を大切にしていない証拠だろう。もっと言えば、国家やそこに生きる者そのものを大切に思っていない証と言える。

宇根氏の同書のイラスト解説には、こうある。
一杯のごはんは約3000粒から4000粒の米粒がある。この米粒は稲株が3株。3株にはオタマジャクシ35匹が生息できる。米を育てるという行為には命を絶やさないという行為も含まれている。この原点を決して忘れてはならない。全ての命を包容出来なければ、そこに農魂は絶対的に存在しない。

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わたしから離れたがらなかったアキアカネ(だと思う)。

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本来は牛糞をまいて少し土を休ませてから植えますが、学生支援も終盤に差し掛かっているので、今回小松菜や白菜の苗を植えました。まだまだ暑い。熱中症には気をつけましょう。

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これは作業の二日前の落花生。だいぶ調子がいいです。収穫は10月11日で、貴重な生落花生の販売ももうすぐ完売となります。食べたことがない方はぜひ一度味わってほしいです。千葉半立という品種で塩ゆでして食べるとめちゃくちゃ美味しい。

下記ページより購入出来ます。

https://kaei-farm.stores.jp/items/5f21b846223ead202a92ad0c

学生支援と農業体験も残り5回となりましたが、まだ募集しています。
詳細は以下ページよりご確認下さい。




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