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非科学的な農学

8月19日11時から14時の参加者と、落花生畑にて収穫と雑草むしりをしました。

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オクラが育ちすぎています。凶器かってぐらい痛い。この間、トマトはほとんど動物に食べられてしまいましたが、この日は高い位置にあったトマトがギリギリ残っていました。

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落花生もこんな感じで掘られてやられていました。

私は微動だにしない。なぜならば、ここに農本主義者達が残す課題のひとつである「共生」というものが存在するからである。農本主義者の宇根豊氏はこう言う。

現代人はただ自分のために稲を栽培しているのである。これは共生ではなく、単なる生産である。(~中略~)害虫がいるからこそ、その天敵が育ち、ただの虫が育ち、めぐりめぐって稲にも恩恵が及んでくる。そう考えると、稲が害虫をわざわざ引き連れている理由がわかる気にならないんだろうか。田畑で、カネにならないものがたっぷり生産されている原因が、ここにあると思えば、おろそかにはできない。(宇根豊 国民のための百姓学/家の光協会)

宇根氏は共生への道は、田畑に足繁く通うことだと言っているが、松田喜一氏はどうか。もっと情熱的に、体現した感覚を比較的資本主義に擬えず、まっすぐに「天地の声なき声を聴くことが百姓になることである」と「農魂」に擬えている。こうした感覚はいわば精神論とも言えるが、もちろんそれは誰にでも持てるものではない。

百姓の五段階
一、生活のための百姓
生活は低くせよ。

二、芸術化の百姓
芸術味を解する百姓は、作る者の心が楽しいばかりでなく百姓が楽しくなり、作業に没頭するから失費の機会がなく富み栄える

三、詩的情操化の百姓
百姓の薫りが高いのは、田園の詩的生活に入った人である。天地の自然美と融け合うことの出来る人間である。詩的とは一切の現実を離れて、自然の環境に空想する心である。大自然に酔うがごとき気持ちである。春夏秋冬の田園風景の変化は、さらに我らの情緒を濃かならしめ、林に歌う鳥の声も、草野にすだく虫の声も、神の奏でるとこそ聴かれるのである。

四、哲学化の百姓
天地の声を聴く百姓になることである。天地の声のことを「真理」といい、これを発く学問が哲学である。

五、宗教化の百姓
百姓の最高峰は「天業翼賛の百姓」である。神様の手伝い以上のものはないはずである。農村こそ信仰を得る場所である。

この五段を併せ得た者が真の百姓である。生活だけなら「二十姓」「四十姓」に進め、「六十姓」に届け、「八十姓」に昇れ、そして百姓に座せ。

(松田氏の農魂表現)

ここで「共生」という言葉は一切使用されていないが、松田氏の農魂表現には「三、詩的情操化の百姓」に「天地の自然美と融け合うこと」「自然の環境に空想する心」「林に歌う鳥の声も、草野にすだく虫の声も、神の奏でるとこそ聴かれる」とあり、ここでは明らかに現実を離れて天地と一体になっている。また、「四、哲学化の百姓」には「天地の声」=「真理」とあり、明らかに百姓が自然の一部と化している。
宇根氏がいう「田畑に足繁く通えば」とはいうものの、「天業翼賛の百姓」に誰しもなれるということではないのは確かだ。そう簡単なことではない。(続)

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オクラと格闘している様子。

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学生が持ち帰ったお野菜で「晩ごはんにいただきました!」と送ってくださった画像です。喜びはプライスレスです。


花瑛農園ではコロナによる困窮学生への学業・生活支援と農業体験を兼ねてアルバイトを引き続き募集しています。
10月の募集も開始しています。
※コロナ対策に原則として、マスク着用でご参加下さい。アルコール消毒液などは用意があります。


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