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国土有って而る後に人民有り

10月2日11時から14時の参加者と、秋~冬野菜畑作りの作業を行ないました。主には前回作った土面の仕上げと畝作り。それから白菜の苗植えです。久々に暑い。

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かなり良い感じの土になったので、年末年始の鍋は期待できそうです。植え付けの感覚的には、次回に間引きが必要と感じるかも知れませんが、この白菜はみなさんが想像するスーパーの白菜の半分ぐらいの大きさにしか育たない白菜でとても甘みがありそれでいてシャキっとした歯ごたえのあるミニ白菜です。

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このトマトは、前回の学生たちとの農作業をした際に、まだ黄緑色だったトマトです。学生たちが夏野菜を土から抜き取り、茎や葉は処分(別の場所の土に返した)したのですが、なんとなしに茎についていた熟していない実を捨てれず、ちょこんと並べてそのままにしていたので、次回見せようとわたしもそのままにして置きました。今回、これを見せて、「これは生命の強さであり、熟れる魅力は茎から放されても続くんだぜ?」と会話しました。

日常で見るバナナも熟れているから黄色い。でも、農家が見る美しいバナナの姿は緑色だ。最近だと、鯵は開きのまま海の中で泳いでいると認識している人もいるぐらい、生産者と消費者の繋がりは浅く、私たちの日常に不可欠な食に関する知識さえ乏しい。それゆえに、「土」や「農」になど興味がないのも当然と言える。

天地大自然のあたたかきふところにおいて、その生のやすらかなるふるさとを見出すことなしに、またほかにそれを見出し得ざる人類にとって「土」はじつに生命の根源である。土を亡ぼす者は一切を亡ぼす。
我々は今や勤労生活を捨てて、協力団結を解消し、土を亡ぼして自滅せんとしておる。しからばすべきことも明らかではないか。
我々は今やまさに土に帰らねばならない。そして一切を土の安定の上に築きかえなくてはならない。土に帰れ、土に帰れ。土に帰ってそこから歩行の新たなるものを起せ。それのみが自己と他と一切とを解放すべく我等に示された唯一の途である。それのみが都市農村と全国民社会を救うべき大道である。(橘孝三郎著書 農村学より)

度々「農業学」と「農学」はどう違うのかと問われる。農業学は、土の凄さや素晴らしさやそのメカニズムを科学的検証を交えて立証するが、農学あるいは農本という視点は、先述した橘孝三郎氏の言葉に含まれるように「悲痛の叫び」が原点にあることが最も注視しなければならないところである。資本に苛まれる「土」や「故郷」や「天地自然」や「自治」あるいは「社稷」を守ろうとする「悲痛の叫び」からなる思想である。更に、ゼロ金利の時代になった2020年現在でも資本を求めることを辞めない日本においては、おそらく終焉のない思想であると言える。

国土有って而る後に人民有り、人民有って而る後に君長有り、(中略)既に各おの其の気象風土に随う、而して其の漸、其の宜、其の化を異にす、亦た各おの同じからず、或いは君長の制囚する所と為し、或いは宗教の律する所と為す、痼以て人類社会を致し、遂に皆帰一する所有る能はず、降って此の後に及び、強は弱を凌し、衆は寡族の姓を暴す、部落の兼并と混合は各おの地形に依り画し、権域を為し乃ち漸々為して国家を為す、此れ蓋し人類進化の公例也、此の公例を知り然る後に以て経国の大本を明らかにす可し
(「東亜月報」に内田良平氏名で発表した権藤成卿氏の「日清民性異同」より)

「風土」や「自然」から見る「地方分権」を意識した農本主義者の権藤成卿氏の思想もまた、人々の安寧を慮るからこその「悲痛の叫び」であることがわかる。これは後に権藤成卿氏の著書「自治民範」の基礎となっている。

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80株前後の白菜の苗を植えながら、学生たちとの会話は尽きません。しかしいつも通り最後は「腹減った!」「よし、飯食いに行くか!」です。


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神がかったウリハムシのおかげで、いまはミニかぼちゃ(栗坊)が採れています。通常のかぼちゃと比べて栄養価は約3倍。甘みもあって、調理もしやすいです。


花瑛農園では6月よりコロナによる困窮学生への学業・生活支援と農業体験を兼ねてアルバイトを募集してきましたが、最終日までの定員が埋まってしまいました。たくさんのご応募をありがとうございました。

10月11日にいよいよ生落花生の大収穫祭を行ないます。既に生落花生を購入してくださった方々には収穫当日に発送致しますので楽しみにしていて下さい。



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