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重い手

鶴岡政男の「重い手」の、実物を観た。おぼろげな記憶だけれど、小学生の時に美術の教科書で見たのが、初めてだったと思う。作者の名前も題名も覚えていなかったのに、絵だけはずっと忘れられずにいた。

東京都現代美術館へは、オラファー・エリアソン目当てで出掛けた。会場は大盛況で、携帯片手に「映える」事ばかりに精を出す観客に、早々に疲れそそくさとその場を後にした。作品を鑑賞するような雰囲気ではなかった。そして、その日のわたしには、足早で十分だった。

お陰で、その他の展覧会をゆっくりと観る事が出来た。『もつれるものたち』の、リウ・チュアン《Bitcoin Mining and Field Recordings of Ethnic Minorities》(2018)の映像作品は素晴らしかった。

『いまーかつて 複数のパースペクティブ』も素晴らしい展覧会だった。その中でも先に書いた通り、『重い手』の前で足が止まり、しばらく動けなかった。作品の力で、改めてガツンとぶん殴られた気分だった。少し油断したら涙が溢れるほどだった。ズシンと重く全身を覆いかぶさる現実に、二度と自力で持ち上げる事が出来ないのではないか、と思わせる厚く腫れた自分の手掌を、生気のない顔でうなだれ、暗く見つめる。傷だらけで立ち上がる事を拒否するような歪な左足、白くか細い右足。絶望の現実的床。そんな塊に、なんとも柔らかく優しい手が添えられている。背後上部の幾何学模様。頭に射す光。薄く塗られた油絵の具で表現された「重さ」。絶望の中に見えてくる「希望」に、こちらの感情がえぐられた。

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