短歌研究2022年7月号座談会をめぐるあれこれについて

 短歌研究2022年7月号の第65回「短歌研究新人賞」座談会の記事、その後の選者斉藤斎藤氏のtwitterスペース(音声コミュニティ名称、以下スペース)、twitterについての個人的見解です。
 私の立場は「非応募者で雑誌購入者」です。
 本稿における引用はすべて前述の雑誌より引用しています。

1.経緯

 2022年6月22日、発売直後の「短歌研究」誌における第65回「短歌研究新人賞」座談会のP.51の画像が応募者によってtwitter上にアップされ、斉藤斎藤氏の発言への異議が唱えられた。
 斉藤氏は直接メンションされたことを受けスペースによる対談を提案。一時は実施の予定で進められたが双方の認識の相違で中止となり、氏個人によるスペースが行われた。
 その後、雑誌画像およびツイートについては斉藤氏の著作権侵害の指摘および短歌研究社の削除依頼を受け削除された。

2.座談会誌面で問題だと感じた点

 本章では私が座談会での氏の発言について問題だと感じた点について述べる。あくまで誌面に基づく私の解釈であり、後の氏の言い分については考慮しない。
 当該部分を以下に引用する。

 ちょっと話がずれますけど、今回の応募作品の中で目に見えて多かったのが、女性の生きづらさをテーマにした作品と、あと学園・部活ものだったんですね。 学園ものについては、去年の折田日々希さんの影響でしょうか。傾向と対策を練るにしても、練り方がちょっと間違ってるというか。去年の上位作品に似てるなあ、と思われたらむしろ減点ですよ、ということはお伝えしておきたい。で、女性の生きづらさについては、もちろん傾向と対策とかじゃなく日本社会は女性差別が強いのは事実ですし、me too とかで、いままで声を上げられなかった人が、勇気を出して声を上げられるようになったのはよいこと、というのは大前提とした上で、しかし短歌の世界は、もちろんいろいろ問題はありますけど、外の世界よりかはリベラルで、短歌世界でこういう作品を発表することで批判されることはなく、むしろ褒められやすい。外の社会ではフェミニズム的な発言をすると、ツイッターで絡まれたりしてぜんぜん安全ではないんですけど、短歌の世界では追い風が吹いていて、むしろ安牌なわけです。そういう状況で、そういう作品を応募作として出すことに、ちょっとだけ考えてみてほしいんです。本当にこの視点に乗っかっていいのだろうか。ここにあるのは社会的な意義であって、文学的な意義ではないのではないか。

P.51 候補作「しふくの時」の選考座談会より

 まず、一読しての感想は「4人しかいない審査員の1人に安牌呼ばわりされる時点で全然安牌ではないだろう。2コマ漫画か」だった。
 読み返しても納得が行かなかったため、その後このようなツイートを投稿している。

 著作権を侵害したツイートにいいねを押したことは反省しているが、基本的に考えは変わっていない。
 氏の発言に対する疑問をさらに詳細に述べると以下3点である。

テーマの選択について再考を促している点
 短歌あるいは文学の歴史で繰り返し語られてきたテーマはたくさんある。それらのテーマ(異性愛、死、自然描写等)を選んだ場合、その切り口のオリジナリティと技量を問われるのではないか。
 なぜ特定のテーマだけその選択について問わなければならないのか。

②傾向と対策でテーマを選んだと決めつけている点
 安牌=安全牌、要は「批判されづらい、評価されやすいテーマ」としてフェミニズム的な内容を選んでいないかと問いたいようだが、そこに「応募数が多かったから」以外の論拠は述べられない(提示しようがない。)ならば選者であれ応募者の内面をひと括りにして語る権利はないのではないか。

③斉藤氏はフェミニズム的な作品を読み解けていたのかという点
 短歌関係の少し古い書籍を読むと、「短歌は基本的に男性のもので、女性の作品は『女性の短歌』としてひと括りにされるのだな」と思わされることがある。
 応募作品の中に「男性の生きづらさ」を詠んだ作品は少なからずあったのではないか?
 それは氏にとっていわゆる「短歌」であったために、その中の微妙な差異や巧拙を読み取ることができたのではないか。
 それが女性が主体になると「生きづらさ」という解像度でしか作品を読み取ることができなかった、という話ではないのか。

 以上である。
 座談会は全文目を通したが、疑問が解消する記述はなかった。
 また、作品の読みについて意見が異なる部分はあるが、批判対象は先に引用した箇所のみである。
 なお、引用部分は以下のように続く。

 でも、それは私が男で、問題に切実じゃないからだと言われれば、それは全くそのとおりで、栗木さん、米川さんが一、二位で、男性陣が八、十位だというところにも表れているのかもしれない。 でも、去年の塚田千束さんの受賞作で「目を狙う ボールペンでも鍵でもよい夜道を歩きながら反芻」があったでしょう。 「くらがりを避けずにひとり歩けたらそれがわたしの最初の至福」は、その一般論 になってしまっていて、塚田さんのほうがいい歌じゃないかと思うんです。 真摯な連作と感じたので八位にしました が、ちょっとそのあたり、考えてみていただけると幸いです。

P.51 候補作「しふくの時」の選考座談会より

 新人賞の選考委員として、同じ流れを汲む先行作品との比較は当然であろう。この部分の記述は私の読みと異なるし、3点目の疑問を補強するものではあるが、この位置に置く批評としては妥当だと考える。

3.スペースについて

 この章では斉藤氏の6月22日のスペースについて述べる。
 抗議を受け、当日斉藤氏のtwitterアカウントでスペースが行われた。(当初予定していた発端の抗議者との対談は中止された。)
 新人賞の選者が、応募者と直接音声による公開対談を行うことについての問題点は当時様々に指摘されていたがここでは割愛する。

 私は録音で後日視聴したが、当日は何となく納得が行かない人と、氏の意図は分かったという人にタイムラインが二分されていた記憶がある。
 おそらくその差は2章で述べたような疑問への回答を求めていた人と、氏の言い分を聞こうとして臨んだ人の差だったのではないか。
 本録音データは斉藤斎藤という歌人の文学観を知る上ではこの上ない資料であるが、私は前者だったため納得が行かなかったし、ある意味座談会以上に氏の偏見を露呈した内容だったと感じている。
 ただし一聴しての感想は本稿の1つ前の記事に書き殴っているため、ここでは改めて2章の疑問への回答という点に絞って整理したい。
 まず、氏のスペースの流れを記述する。筆者の要約で失礼するが、元となるリンク先のアーカイブは30日間保存されるはずである。

当日のスペースの流れ
・抗議者の使った「安易」という言葉は使っていない。
 まずは「短歌研究」誌を読んでほしい。
・単独スペースを行うに至った経緯の説明
・「しふくの時」については後日補足をしているので読んでほしい。
・女性の生きづらさを扱っているから批判しているわけではない。
 視点の取り入れ方の硬さが気になった。
・批判されている部分は女性の生きづらさを詠んだ歌すべてに対して言っているわけではない。
・新人賞の選考方法についての解説
・自分が読んだのは600作品のうち168作、そこで学年ものが約10作、女性の生きづらさを詠んだものは10作強程度。例年より目に見えて多かった。
・女性の生きづらさに注目されたり、ジェンダーバランスが整えられるのは良いことだが、スローガン的な、一般論としてくくれる作品が目立った。
・短歌の世界も完全にリベラルではないが外の世界のように露骨ないじりが毎日のように起きる世界ではない。
・麻雀用語における「安牌」の解説
・「安牌」は女性の生きづらさを読んで裏で批判されることはないでしょう、程度の意味で使った。
・むしろ女性の生きづらさをテーマにすること自体に疑問を呈すると今の自分のように叩かれる。
 ただ女性が実社会で生きやすくなっているわけではないことも事実。
・とはいえ短歌の世界ではその主張は市民権を得ているのでストレートにそれを訴えることに意味があるとは思えない。
・ここにあるのは社会的な意義であって文学的な意義ではないのでないか
この視点に乗っかっていいのか自分に問いかけてほしい。
・女性の生きづらさを馬鹿にはしていない。
・全員魂は尊いがそれを比べるざるを得ないのが新人賞の選考である。
・社会の言葉でなく個人の言葉になっているか。
・(戦争やコロナの被害者に同じことを言えるのかという問いには)面と向かっては言わない。時間が経ち、信頼関係が築けていると感じられば言うかもしれない。
・戦争が終わって反対を口に出して良くなった途端にみんなが同じことを言い出す、そこに乗り切れないというような感性はどこかで持っていてほしい。もしコロナや戦争の被災者であったとしても、精神的な余裕ができて本気で文学に向き合いたいならちょっと自分に問いかけてみてほしい。
・「しふくの時」については補足があるので本誌を読んでほしい。
・自分が至らない点はあるが抗議者のツイートと写真は一致していない。
・もっと文章をよく読んだ方がいいのかなという気がする。
・よく読んで足りないなら批判は聞きたい。
・短歌をある程度一生懸命やろうという方が「安易にテーマにするな」と斉藤が言っていると読むのは危機感を持った方がいい。
 100%の敵でない人を敵だと思っていないか。
・自分は同性婚も国会議員のジェンダーバランスを整えるのも賛成。
・ただ市民権の確立された言葉で抗議しようだとか公開質問しようだとかは市民運動であって文学ではないのではないか。
・このスペースを聞いている人はもうちょっと丁寧に読んだらそういうことは書いてないみたいなこともわかると思う。
・丁寧に読んでこの部分がこの部分は賛成できない、なぜならのようなことをそれなりに丁寧に書かないとちょっと読んでもらえない。
・ちょっと落ち着いて。
・批判があったらなにか引用して書いてください。
・みんな自分の作りたい歌を作って、ふさわしい自分の良さが出る場所で発表してください。

 以上である。
 文学論としては、一般論ではあるが全体的にはまっとうだと思う。
 他方、この中で2章で述べた疑問について回答している部分は以下のみだ。

・女性の生きづらさを扱っているから批判しているわけではない。
 視点の取り入れ方の硬さが気になった。
・批判されている部分は女性の生きづらさを詠んだ歌すべてに対して言っているわけではない。
・もっと文章をよく読んだ方がいいのかなという気がする。
・よく読んで足りないなら批判は聞きたい。 

 発端となった抗議の方については分からないが、私は社会ではなく個人の言葉を、という部分についてはまったく引っかかっていない。 
 2章で引用した部分についてそうは読めなかったから抗議したし、選考過程においてテーマ自体の否定がないのであればそれで良い。 
「短歌研究」誌で声明一つ発表すれば済む話である。
 しかし、自分の言い方もよくなかったと認めながらわざわざ50分近く文学論を語り、対談相手の不在にもかかわらず5分近く「文章が読めてない」と決めつけて締める、その行動自体が自身の言葉とまったく一致していないではないか。
 こちらは「そう読める」文章だったから抗議したのだ。

 ましてや女性の生きづらさを描いた作品は氏が読んだ168作中でわずか10数作品だったと言う。
 言い換えれば10数作品中2作品が最終候補に残るクオリティであったということだ。話の前提となる氏の認識にそもそも齟齬がないか。

 なお、「しふくの時」の読みについてスペースで氏はこう述べている。

「しふくの時を読めてなかったなっていることに座談会の後しばらく経って気づいて、それはつまりその読みが浅かったっていうのは、何か私が男性であって女性の生きづらさっていうものにあまりピンときてなかったと、そこまで興味が持ちきれてなかったことが原因ではないかなって反省点がそれはあるので、それは短歌研究をまだ購入いただいていない方はご購入いただいてですね、選後感想の私の中のところ、64ページを読んでいただければ幸いです。」

 雑誌の当該箇所は以下の通りである。

 連作の中盤、小田急線沿線のほのぼのした日常の描写がつづき、やや冗長と感じたのだが、冗長であることに意味があったのだ。その冗長さには、犯人のような疎外された人物に、この平凡な日常はどのように見えているのか?という問いが籠められていたのだった。
 だから「しふくの時」には、やや不十分とはいえ、犯人から見た世界への想像力が確かにあった。犯人にとって 「至福」が、女性にとっては「幸せそうに見えないように」生きねばならぬ「雌伏」であるという、タイトルの掛詞も効いている。

P.64 選後感想

 これを「自分が男性であって女性の生きづらさっていうものにあまりピンときていなかったという反省点を踏まえた評」というのは無理があるだろう。
 連作全首を読めていない以上不用意なことは言えないが、一人の働く女性に視点を固定した作品に対して、「犯人側への視点も持てているから」評価できるというコメントはむしろ逆である。

 かくして氏の「回答」を求めてスペースを聞いた人間は2つのモヤモヤを抱えて途方に暮れることになる。
 書いていないことをちゃんと読めと言い切られても困るよ。
 キャッチフレーズ化に危機感を持つというのは一聴するともっともらしいけれど、そもそも勝手にカテゴライズしているのはそっちではないか。

4.その後のtwitter上のやり取りについて

 氏のスペースについては賛否両論があった。他方で当初の発端となった誌面のツイート(その時点では未削除)は拡散され、短歌以外のジャンルのアカウントからも反応を寄せられることとなる。
 この章では、それらの一部に対する斉藤氏のリプライ3例について感想を述べる。
 この章を付ける理由は、「全部読み、聞いた上で反論があるなら引用の上反論してください」という氏のスペースでの言葉をうけてのことだ。
 本稿でそれをしようというのではない。
 以下に述べるような振る舞いをしていたらまっとうな反論など来るわけがないではないか、という指摘を残しておくためである。

①「短歌をあらかじめ下に見てる」発言

 漫画家・瀧波ユカリ氏とのやり取りで、批判にあたり出典を参照していないことを受けての発言。twitter上の画像しか参照していない点では相手に非があるが、「短歌をあらかじめ下に見てる」は無根拠である。

②自身が推薦した新人賞受賞作を、自身を正当化するため引き合いに出す発言

 同じく瀧波氏とのやり取りで、自身が推薦した新人賞受賞作「Lighthouse」を自身の正当性の根拠として引き合いに出している。(この他にも受賞作まで巻き添えになると心苦しい、他の発言がある。)
 だが、批判を受けているのはあくまで斉藤氏の発言で、選考結果への異議および受賞作への批判は確認範囲で一切ない。
 そもそも選考会における斉藤氏の「Lighthouse」への評価は「『フェミニズム』とか『LGBTQ』といった言葉で括られる、その一歩手前の心情をすくい取っている。」である。

③「マイルドな批評をこころがけます」発言

 「マイルドな批評をこころがけます」とのことだが、「厳しい批評と傷ついた応募者」の構図を勝手に作らないでいただきたい。
 「これは批評ではない」と判断したから抗議をしているのだ。

5.最後に

 正直な感想を述べれば、氏のスペースからtwitterまでの発言は「書いていないことを書いてあると言う」「相手が言っていないことを言っているかのように返す」「問われていない持論を述べる」の三種類だった。
 抗議した人間に非がないとは言わない。
 特に、発端となった方の振る舞いはあまりに直情的だったし、結果「文章を読んでいないフェミニストに糾弾されている」という認識しか持てなかったのかもしれないと思う。
 これは想像だが、氏の噛み合わないやり取りは「お前は女性差別者だろう」という決めつけに対する返しであると仮定するとどれも辻褄が合うのだ。
 だがならば尚更、当日にスペースなどではなく、短歌研究社なり第三者なりを交えて自身の言葉を見直し、何を問われているかを把握した上で文章を紡いでほしかったと思う。
 だってさ、もっともらしい文学論とリベラルな政治哲学を語りつつ、批判は相手の読解力の欠如で片付ける、そんなの全然文学の言葉ではないではないですか。

 本件よりもっと怒るべきことはたくさんある。
 このような長文を書く意味があるのかも分からない。
 だが私はものすごく腹が立った。
 タイムラインの女性たちの作品が「女性の生きづらさ」などと言うクッソださいキャッチフレーズで丸められたことに。
 魂が、と大上段から他人の作品をジャッジする人間が、自身の言葉に対してあまりに不誠実なことに。
 そして、賢く人柄も良く、けれど私たちが何に怒ったのかをまったく理解していない男性たちがタイムラインをなだめにかかる姿に。(賢く人柄も良く、というのは皮肉でもなんでもない。)
 だからこれを書いた。
 誰かに伝われば嬉しい。
 以上です。


細く長く続けて、いつか作品をまとめられたらいいなと思っています。 応援していただけたら嬉しいです。