見出し画像

「制限」の有効活用

コピーライターになりたい、と思ったことがある。

駅で目にする宣伝会議のポスターモデルに目を奪われて、ということも否定はできないが、「言葉を武器にする」仕事に憧れていたのかもしれない。が、それは後付けの理由だろう。

一番は「一言考えるだけでお金がもらえるとは、なんとコスパの良い仕事だろう」という、浅はかな考えが発端なのだと、今振り返るとそう思う。

その"一言"の裏にどれほどの努力があってどれほどの準備と時間を費やしているのか、想像もできないくらいの苦労があることでしょう。ラクな仕事はない、ということか。

毎年恒例になっている、この行事を目にすると、そんなことを思い出します。またこの季節がやってきましたね。サラリーマン川柳。

川柳には5・7・5の計17文字で表現しなくてはならない、という制限があります。字余りや足らずといったアクロバットな作戦もたまにはアリなようですが、自分にはよくわからないので割愛。

小中学生時代の宿題であった原稿用紙2枚分の作文。800文字の壁が途方もなく高いと感じていた自分からすると、たった17文字書けばそれで良い、とは、なんてラクなんだろう、という感じで、川柳を見ていました。

しかし、今年のサラリーマン川柳を見ていると、その「たった17文字」でどうしてこうも面白い作品を作ることができるのだろう、とひたすらに感心させられてしまうのです。

17文字の制限を制限のようにはまるで感じさせない、自由な発想から繰り出される川柳の数々からは、川柳の可能性や更なる広がりすら感じてしまうようです。

たまに書類仕事で見る「フォーマットは自由です」の不自由さよ、と嘆きたくもなります。自由に書いて、といったって、何から書いたらいいのよ、と。

わーい自由だ!と無邪気に喜べる心は無く、ただ途方にくれて、どんよりとモヤモヤが広がるばかりです。そう考えてみると、制限とは、何かを縛るものではなく、むしろ創造を膨らませていくうえで必要なことなんじゃないか、なんて思ってしまいます。

例えば。

むかしむかし、ビートルズ以前のロックは3つくらいのコードで構成されるのが常であった、と聞いたことがあります。初期の「Love Me Do」もその一つで、一曲通してほとんどCとGの繰り返しでできています。

当時のミュージシャンが自ら制限を課していたのか、それとも業界の常識かなにか暗黙の了解みたいのものでそうなっていたのか、詳しいところはどなたかご教示頂きたいところではあります。ただ、どちらにせよ、今未だ色褪せない名曲たちは数多くあることからも、制限があることは必ずしも表現の足枷になるとは言えない、ということがわかります。

最近、SpotifyでNew York Dollsを流しがちなので、特にそんなことを思ってしまった、今日この頃であります。

何から考えていいのかわからない!何も思い浮かばない!

そんな時には、期日を切ったりキーワードを限定したり、なんらか"マイ制限"を課してみてはいかがでしょうか。そこから閃くものがあるかもしれませんよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?