ノームコア派なるものはない - K-Hole再読

かつて、いわゆるノームコアに、我々は服の未来と終着点を夢見た。しかしその死が言われて久しい。現在は装飾的なファッションが台頭し、普通でないことを誇りとするストリートウェアが勝鬨をあげている。ノームコアというのは言われるように死に絶えたのだろうか。そもそも、それが意味するのはそもそもトレンドの死ではなかったか。トレンドの死がトレンドとして消費されるとはどういうことなのか。ノームコアというコンセプトは間違っていたのか。

本稿の主旨は、ノームコアという概念を、記号による差異化というものを補助線に再考しようというものである。まずは前提として、記号による差異化ということの意味合いと、それと服との関係について述べておきたい。人間のもっとも根本に関わる記号が言語であるというのは異論がないと思うが、100年と少し前、スイスの言語学者であるフェルディナン・ド・ソシュールは、言葉は必然性があって実際のものに対応しているのではなく、言葉とものとの繋がりは恣意的(偶然そうなっているだけで、必然性がないこと)であるとした。風船がたくさん詰まったプールを想像してほしい。風船は言葉で、プールは世界である。言葉でおおよそ世界は描きつくされ、風船の配置には必然性があるように思われる。そのとき、一つの風船が割れる。その風船が占めていた空間は、空いたままでとどまるのではなく、周りの風船が移動し、割れた風船の不在を補う。言葉に置き換えれば、ある言葉の不在は、世界というプールの中で表せない領域があることを意味するのではなく、それを表すために単に別の言葉が使われるということを意味する。日本語では水とお湯は別の言葉であるが、英語だとcold/hot waterになる。英語の世界にはお湯が存在しないのではない。waterという言葉が二つの領域をカバーしているのだ。このことを敷衍すると、言葉の意味というのは、必然性があって決まっている絶対的なものではなく、別の言葉との位置関係あるいは差異によって決まる相対的なものであるということになる。この点については反論があるかもしれないけれども、記号が差異によって基礎付けられているという視点は、服について考えるときにも重要であるかと思う。

美しいとかクールとされる服というのは何だろうか。生得的に万人に共通する絶対的な美しいプロポーションの基準があるのかもしれない。あるいは、快を与える服が美しいのかもしれない。しかし、そうであるならば一つの型に収斂していって然るべきではないか。また現に、必ずしも全ての造形が美的あるいは機能的な観点から説明がつくわけではない。ジーンズの赤耳を例に取ろう。生地の青と白に対し赤がアクセントとして機能する、あるいは脇割よりもすっきりとして美しいということはあるかもしれない。だが、縫い目に赤のテープを貼り付けたり、別の始末をすれば良いというものではないだろう。セルビッジであるということこそが重要であり、そこに現実的な理由はない。つまり赤耳は、そうでないものに対して差異を持ち、赤耳という記号に価値を与えるのはその差異であるのだ。なぜ赤耳は意味があるのか?なぜなら赤耳は他と違うからである。特にメンズウェアにディテール信仰が根強いのは、良くも悪くもメンズの方がより観念的であるということなのかもしれない。

さて、こうしたディテールはオーセンティシティにその根を持つゆえ、その意味に美的側面から必然性を持たせることが一定は可能であると思われる(赤耳は伝統的であるがゆえに良い(※1))。しかし、一方で、トレンドによる変化というものも明らかに存在する。トレンドは価値に関わるが、価値を生み出すのはあるものとトレンドになっているものとの同質性であり、また同時に、先行するものとの差異である(※2)。トレンドの発生に果たして必然性があるかというのは面白い問題だが、あるトレンドが陳腐化し、新しいトレンドが浮上していくとき、まず単に目新しいということが価値の一端を担っているということは否定できないだろう。以上まとめると、時間的に先行するものとの差異=トレンドや、他の似た選択肢の中での差異=こだわりなど、様々な差異の網の目が存在し、その中での相対的な位置が価値を生み出すという構造が確認できるのである。

以上の点と絡めて、ノームコアとはなんだったのかということについて、発表されてはや3年半が経つK-Holeのレポートを今一度読み返すことで整理してみたい。問題に関心のある人なら誰しもが何度も目にした例のマトリクスをここで今一度召喚しておこう。

ノームコアを理解するには、ここに分類される4つのアティテュード(Normcore, Alternative, Mass Indie, Acting Basic)を理解する必要がある。簡単にではあるがさらっておこう。まずは構成要素である4つのパラメータについて。Samenessは他人と同じであること。Differenceは異なること。Evasionはある状態から離れようとする傾向、Celebrationはありがたく受け入れる傾向。以上に従って4つを書き出すと以下のようになる。

Alternative (ALT) : 人と同じであり、現状から離れようとする

Mass Indie (MI) : 人と違っており、現状を受け入れる

Acting Basic (AB) : 人と違っており、現状から離れようとする

Normcore (NC) : 人と同じであり、現状を受け入れる

レポートに従って、それぞれを詳しく見ていく。ALTは人と同じで、そこから抜け出そうとしている。先に触れたような、先行トレンドが陳腐化し、新しいトレンドに移行する運動の動力となっているのがこうした人たちであるだろう。MIは、人と違っており、そこに留まろうとしている。ここで重要なのは、現代社会において、人と違っていることは必ずしもアイデンティティの確立を意味しないということだ。インターネットを探せばどんなニッチな嗜好でもほぼ確実に愛好家集団が存在する。人と違っていることは単に、小さい社会集団への帰属を意味するのだ。差異は固着して記号化し、ある集団の中で流通しだす。1万円のTシャツをは周囲との差異の記号であると同時に、シンプルな装いの中にこだわりを持つ社会集団の一員であることの記号である。一般的に流布している、一見普通だけどこだわりが強いというノームコアのイメージは、MIに含まれると言える(※3)。MIはこのように差異化を通じて集団としてのアイデンティティの確立を行っていくわけであるが、この過程においていくつかの問題を抱える。まずは、クラスター間の差異が細分化されすぎ、見分けが付かなくなること(このTシャツとこのTシャツ、一緒だよね?どこが違うの?)。二つ目は、差異を求めるあまり、誰にも理解されなくなること(Tシャツにこの値段…一体誰が買うの?)。三つ目は、差異が作り出されるペースが早すぎること(袖が超長いけど、流行ってんのこれ…?)。MIは小さな社会集団に自己のアイデンティティを仮託しているのであるが、差異そうした集団の存在は相対的な差異に基づく不安定なものでしかなく、その意味で彼らは常に危機を抱えていると言える。K-Holeによれば、現代はMIの時代である。

次にABであるが、ABは、人と違っておりかつそこから離れようとしている態度として定義されている。ABはMIのメタであって、彼らは言わば、差異を捨てるという差異を選ぶ。一見矛盾するようだが、彼らにとっては人と違っていないことが差異となるのだ。差異を得るために差異を求めないという態度、これがABである。一般的に流布しているノームコアのイメージの別形態、端的に服装にこだわらないというものは、ABに分類されるように思う。こうすることで、ABは問題を回避したように思える。が、実際にしていることは問題を逆転させただけであって、差異の否定もまた差異化というシステムの上に成り立っているため、ABもまた結局は差異化によるアイデンティフィケーションという罠に捉えられる。そもそも、普通とは何であるのか?皆と同じであることは、完全に到達できない絵に描いた餅のようなものなのだ。ではどうするのか。ここで、NCが登場する。先ほど確認したように、NCは、人と同じであり、かつその現状を受け入れる態度として定義される。これまで、人といかに差異化するかということが問題になっていたのであるが、NCのここでしていることとは、差異のゲームそれ自体から降りることなのだ。レポート曰く、NCはどこかに所属していることを恐れない。差異化をベースとしたクールネスではなく同質性に向かうクールネス、これがNCにとっての価値なのである。そうして先ほど確認したように、ノーマルというのはどこにもない。だからNCが目指すのは、その時々に応じて自分自身を同質なものへ変化させることとなる(※4)。

以上、差異化という切り口からK-Holeのノームコアレポートをまとめてみた。もう一度整理しておこう。ALTは周りと同じで、自分自身を差異化したいと思っている。MIは差異化には成功しているが、差異は無限に連なっていくため、彼らのアイデンティティにおいてこのあり方は問題含みである。ABは差異化のゲームの果てに、差異化自体しないという選択肢を取るが、その選択がすでに差異化のゲームに巻き込まれている。NCは差異化のゲームからは降り、周囲に同質化することをむしろ目指していく。さて、一言言っておきたいのは、結構しっかり読んでも、具体的にNCが目指しているものがどう言ったものであるのかというのは、はっきり言ってわからない。というか、定義として定義不能であるというか、差異の網目を構成しないもの、もし偶然網目に引っかかることがあっても、差異のゲーム自体にはかかずらわないもの、そう言ったものがNormcoreとして言われているように思う。服という領域に敷衍して考えれば、良品でも悪品でもなく、トレンドでもトレンド外ですらなく、それらとは無縁であるようなもの。客観的ではなく主観的な事態がここで言われているのであるとは思うが、それにしてもここで言われているのは一種の服のユートピアであるという印象を禁じ得ない(※5)。

さて、すでに述べたが、人口に膾炙したノームコアは、こだわりのある普通/こだわりのない普通のどちらかであり、それはK-HoleのレポートによればそれぞれMass Indie、Acting Basicに属するアティテュードであった。すでになされてきたように、Normcoreという概念の誤用を指摘するのはあまりにたやすいが、冒頭で提起した問いを踏まえて、最後に、我々がノームコアに見た服の終焉とはなんだったのかということをK-Holeのレポートを踏まえた上で改めて考えてみたい。まずはこだわりのない普通という意味でのノームコアであるが、ABのアティテュードから逆算して考えると、これにおいて目指されたのは差異の否定であったと言っていいだろう。ここでどのような服を着るのかという選択の問題を考えたとき、差異の否定は歴史における最大公約数的な服という選択において実現されると言って良いだろう。つまり、レギュラーのヘインズにレギュラーの501といった、いわゆる定番品で構成された出で立ちである。しかし、501もまた定番品という記号として差異化の網の目から逃れない。こうして、例えばジーンズの中でもより差異を殺した服は何かという問いが生まれる。ここで、差異は価値の源泉であるということから、価値のないものがより差異化を逃れているという考え方が出てくる。ノームコアとコスパ論争が交わる点はここである。ユニクロはノームコアの象徴であった。なぜユニクロなのか。それは、ユニクロが服におけるインダストリアルデザイン、つまり目的に対するリソースの最適化を最も実現する服だったからだ。こうして我々は、服における差異化を殺したと信じた。しかし、K-Holeがいみじくも見抜いていたように、差異の否定はそれ自体が記号となり、差異を生み出すことになる。こうして、差異の否定である(誤用の)ノームコアですら陳腐化を免れなかったというのがここ数年の流れであると言えるだろう。こだわりのある普通としてのノームコアも同様である。ここにおいては差異の完全な抹殺は目指されていないのだが、一見普通であるという(否定的な)外見がそれ自体が記号化し、陳腐化した。

こうした流れを見ていると、K-Holeが言うように、Normcoreという、常にフレキシブルにいて変化する外界に同化し、アイデンティティを作り変えていこうとするアティテュードは陳腐化を免れる唯一の手段なのではないかと思えてくる。ノームコアは差異をすり抜ける。しかしすぐに気づくように、この意味でノームコアが特権的でいられるのは、差異を作り出す実体を欠いているからに他ならない。こと実体を扱う服という領域において、ノームコア派というものは存在しないのだ。ノームコアはおそらくは言われているように死んではいない。しかしそれは、おそらく血肉を持って生きたこともなかったのである。服の終焉は服においては実現されない。ノームコアの死がいま我々に教えるのはこのことであるだろう。



(1) K-HoleのEmily SegalはバズリクソンズのMA1を例に挙げ、ウィリアムギブソンの「more authentic than original(オリジナル以上にオリジナル)」という一節を引用していた(https://www.youtube.com/watch?v=nTFTIWBN7rg )。

(2) 陳腐化ということに関して付言しておく。差異の記号であったものが拡散すると、そこに差異はなくなる。この焼畑がトレンドの陳腐化のメカニズムであるが、例えばシュプリームが成功していることの一因は、この陳腐化に対抗するような機構が働いていることであるように思う。その一つの方法は、需要に対して絞った供給量にすることで、必要以上に拡散することを避けているということ。そしてもう一つは、決してセルアウトしないという自らのポリシーを守ることで、固有名詞としてトレンドとなることである。キッズは単に、ボックスロゴのフーディが欲しいのではなく、シュプリームのそれを求めているのだ。

(3) 少なくともK-HoleにおけるMIの概念は、いわゆるこだわり、差異を求めるアティテュードに紐づけられていているのであって、そうし傾向を持つ主体や行為はNCでも、ABですらなく、ALTあるいはMIなのである。よくノームコアとして引き合いに出されてるジョブスですらABのところで説明されているし、正直ノームコア概念の誤解の原因がよくわからない…。

(4) レポートの最後の部分において、自分とかにこだわらずにピースに生きようぜっていう人生論が開陳されるんだけど、本論にとってあまり重要性も感じられなかったのでこの部分は割愛したい

(5) ヴェトモンの2017awにおいては種々の制服が取り扱われた。制服は一つのこうしたユートピアを実現しているように思うが、しかしヴェトモンがしたのは制服を差異化することであって、ことモードという領域ではこうしたユートピアは実現不可能であることを言わば裏側から示したように思う。

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