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薔薇の名残  第一章 望郷編

第一章 望郷

 一 きみは死んだのだ

 長らく会っていないとはいえ、年賀状だけは欠かさなかったきみの死を、十日ほど経ってから送られてきた寒中見舞いの文面が教えてくれた。奥さんによれば、クリスマスイブの朝、きみはすでに布団の中で冷たくなっていたという。
 ひとと接するのが大の苦手で寂しがり屋。そのくせ、わがままな行動を他人に強いる甘えん坊タイプの私を、心優しいきみはいつも「リュウちゃん」と呼んで親しんでくれていた。
 きみの死を知って以来、私は、自分に対してなされたきみの優しさが思い出されるたび、自分の至らなさを悔やんだ。寛容なきみへの恩返しや弁明ができなかったことへの後悔ではなく、一度として私の申し出を拒んだことのないきみの寛容な心に較べ、私という存在がいかに小さかったかに気づかされることが日増しに疎ましくなってきたからだ。
 なにかに挑んだとき、なにかに苦しんだとき、なにかをしようと誘ったとき、きみはいつも私を受け入れ、私の望むような道を開示してくれた。それも押しつけがましくなく、控えめな力で、ほんのひと押し、ちょいと突いてくれるのだった。
 いまでも印象に強く残っているのは、決して嫌々応じるのではない、だからといって、唯々諾々と受け入れるのでもない、一種悟った大人のように私を見つめるときの、きみの眼差しの奥に見える私の姿だ。兄のように穏やかで、弟のように従順に見開かれた眼。その球面の中央に、僅かに小さく映る私自身の姿。それが、いかに醜いものだったか……。
 それに私は、この歳になるまで気づこうとしなかったのだ――。
 いや、知っていたのだ。知っていて甘えていたのだ。あのときのままに、甘えん坊だった幼いときのままに、それがわがままであることを知りつつ忘れたふりをして、怠惰に溺れる自分の精神の奈落がどこまで深いのかを他人の心を使って量ろうとしていたのだ。
 そう。その一番の犠牲者になったのが、きみだった。その証拠に、きみは私に一言の別れの言葉も告げずにこの世から消えてしまった。仮にその一片の機会すらも私に与えなかった。
 もちろん、当てつけだとは言わない。仕返しだとも思わない。奥さんの言うように、そのような暇はなかったのかもしれない。本人もまさか明日の朝には死んでいて、老いた妻が大粒の涙を流すという予測を立てて眠りに就いたわけではなかろう。
 確かに犠牲者はきみだった。あくまでも犠牲者だったからこそ、きみは誰にも看取られず、独りひっそりとこの世を去った。それが、抗うことも拒むことも知らぬきみの長所だった。望まれれば拒まない。死もまたそうした相手のひとりだったのだろう。
 だからこそ、きみを訪ねてきたあらゆる友は、きみが不在のときでもその家に上がり込み、帰宅するまで待ったのだ。なにを語るでもない。なにを訴えるでもない。なにも不服を言わず、明日もまた同じようにやってくるのを当たり前のように信じて眠りに就いたきみ……。
 私の毒牙にかかってはいても、それに気づかないふりをしていたのは、きみの精一杯の思いやりの所為だったのかもしれない。
 しかし、なにをどうあがこうと確実に、きみは死んだのだ。
 死人に生きて語る口は、もうない。その言葉の意味はこの私も信じよう。そしてそのことを肝に銘じもしよう。私のおぞましさ、私の卑小さ、そして私がなによりも唾棄すべき人間であったことを知る者は、もういない。きみほど私の厭らしさを知っている者は、もうこの世にいないのだ。
 この世にたったひとり、私を愛してくれたきみに私は感謝の言葉を述べよう。
 その傲慢さゆえに私を憎み、蔑み、罵倒し、嘲った人間は大勢いた。だが、きみだけは、そんな私を嘲笑わなかった。無知で、田舎者で、自堕落なだけが取り柄の私を一度たりとも嗤わなかった。聞き分けのない弟の所業を宥める兄のような貌で、いつも私を見てくれていた。
 そんなきみに、なにをいまさら隠し立てする必要があろう。
 私にはもう、語り合う友はいない。たったひとりの友だったきみとはもう、昔のように語り合えはしないのだ。私がこうして語り掛けるとき以外には……。

 二 意志を殺す犯罪者

 いつのことだったか、私が自転車で神戸へ行ってみないかと、きみを誘った。
 きみはいつものように嫌がる風でもなく、かといって格別嬉しそうでもなく、学校の帰りに寄り道するのと同様な表情でこくりと応じた。その後、どんな風に示し合わせて出発したのか、それとも二三日経ってからことだったか――。
 しっかりとは覚えていないが、朝刊の配達が終わってからのことだったと思う。もしそれが正しいとすると、おそらく夏休み中の出来事だったのだろう。ある意味、子供じみた思い付きがなした提案で、神戸というところに特別の思いがあったわけではない。ただ単にその地点に自転車で行ってみたいから行ってみる――という、ごく単純な理由に過ぎなかった。
 いま憶い返してみれば、なにを見物したいとか、そこがどんなところか探ってみるといった、積極的な意図はまったくなく、ただ走ってそこに到着し、そしてあとは淡々と戻る――というその行為だけで満足する旅だったのだ。
 したがって、そこにはどんな冒険もなく、また心躍らせるような感動もなかった。
 ほんとうに朝からなにも口にせず、ただただ道路標識を横目に神戸方面へ向かってひたすら走り、そして埠頭に着いて埠頭を眺め数分経った頃、さあ、帰ろうと再びペダルを漕ぐという、実に他愛のない、そして意味のない足腰の運動を繰り返すだけの旅だったのだ。
 しかし、私には、それが快かった。これもまた憶い返してみれば、きみと丸一日、一緒にいられること自体が心地よかったのだ。私が走り、そしてその横をきみが走る。その黙々とした姿を見ながら、ペダルを漕ぐのが楽しかったのだ。
 ところが、あろうことか、きみは私の目の前ですうっと動きを止めたかと思うと、サドルに腰かけたそのままの姿勢で歩道に倒れた。まさに余力が底をつき、動きを停止したゼンマイ仕掛けのオモチャのように、きみは一言も発さず、その場に頽れたのだった。
 まるで、スローモーションを観るような光景だったのをいまでも憶えている。
 朝からなにも食さず、水さえ口にすることもなく、ただひたすら走った強攻ツーリングが祟ったのだろう。足を動かそうにも、それ以上には上げることも下げることできず、筋肉が震え、言うことを聞かなくなっていたのだ。
 あとから聞いた話だが、きみはそのとき気を失ったのだという。気を失うまで体力を消耗し、脳へも意識を送ることができなかった。だから、自分でも知らずに倒れ、倒れたことにも気づかず、私に起こされて初めてきみは、目を覚ました。
 そのとき、きみは言った。ぼくは死んだのかと思った――と。一瞬、死んでいたのだな、と。
 確かにスローモーションで倒れたきみは、私に映画の一シーンを観た思いにさせた。つまり、それは私の目の前で起きた出来事ではなく、自分のいま生きている世界とはまた別の世界の、まだはっきりとは摑みきれない、不確かな現実のように視えた。死が、自分の内部とは切り離され、別の世界の永続的な事象として捉えることができたのだ。
 私の眼の奥に焼き付いたそのシーンは、それ以来、私のなかの死のイマージュとなった。自分の肉体の痛みとは無縁の、そして最も自分の存在とは遠い事象のひとつとして――。
 自分の思いとは無縁の肉体の動き……。というより、意志の外界にある動かない肉体は、現実ではあっても、動こうとしないその時点ですでに、もはや自分のものではない。どのようにしても動かない肉体は、動かないことをもって、その意志を殺す犯罪者となりうるのだ。
 もっともこれは、意志を殺すことが罪になるとしての喩え話ではあるが、もしそのようにして他者の意志を奪うことができるなら、その行為は犯罪以外の何物でもない。犯罪そのものなのだ。
 私は長じてもそのことに気づかず、その種の行為を数え切れぬほど他人に強いてきた。そして、この歳になるまで、きみやきみ以外の者の意志を奪いながらも一片の呵責すら感じず、ひとつとして償わずに生き永らえてきたのだ。
 もしこの世に真に悪を裁く神が存在するなら、私はとっくにこの世から失せていたであろう。
 だが、私はまだ生きている。生きてのうのうと息を吸っている。 だとすれば、私の罪はやはり、ひとがいうところの意志ではなく、肉体にあった証拠となるのではないか――。
 だからこそ、そのように考えたひとびとは古来、数々の法を作り、刑罰の方法を考えてきた。
 だが、肉体は拘束されても、意志のみは自由を許される。邪な心も悪しき情欲も,そして世にも美しい悔恨の念を見せた偽善者の狂おしいまでの涙も、すべて自由に演じ愉しむことができる。ただひとつ、肉体の不自由さを除いては――。
 したがって、罪は、肉体の拘束によっては償えない。意志を奪うことによってしか罪は、自らを滅ぼすことはできない。意志が拘束され、肉体が外界に放たれて初めて、罪は滅ぶ。意志を殺すという、一種犯罪にも似た暴力を行使された時点で初めて、ひとはそれが精神の死であることを悟るのだ。

 三 無窮の優しさ

 それから私たちは、走りに走り、平坦な道を幾度も踏み越えながら、帰りを急いだ。
 そうして、幾度目かの休憩をはさんで再度、ペダルに足をやろうとしたとき、自転車のタイヤの空気圧が半分ほどに減っているのに気付いた。あまりもの長距離を走った所為なのか。それとも元々あまり入れていなかった所為なのだろう。私は重いと感じつつも、徐々に空気が抜け始めていることに気づかず、疲れが原因のように思って走っていたのだ。
 これに乗れよ、リュウちゃん。きみは、自分の乗っていた自転車のハンドルを私の前に突き出し、換わろうと言った。
 そのとき、私はどのように応えたのか、どのような態度でそれを受け容れたのか、覚えていない。
 だが、なぜかきみが憐れに思えたのだけは記憶している。そのような境遇に陥れたのが、自分であるにも拘わらず、私はきみに同情を覚え、惨めに見えるきみを容赦したのだ。
 いまの時代で言えば、上から目線の、そんな内心の屈託を抱えながら、きみの提案を受け入れ、断ることをしなかった理不尽な自分――。そんな理不尽な自分を、私は赦したのだ。
 だが、神は――。もしそれが本当に神だったとしたら、私に勝手な憐憫の行使を許さなかった。
 そうして数十分も経たぬうち、私の乗った自転車のタイヤも先ほどと同様、フラットに近い空気圧になってしまった。やはり、長距離走行による無理強いが祟ったのだろう。二人の乗った自転車は、暫くするうち百パーセントお手上げ状態になってしまった。
 もうこうなっては、歩いて連れて帰るしかない。それが嫌だからといって、捨てていくわけにもいかない。かれらは明日からまた、朝刊配りための貴重なツールとなるのだ。無用の長物と化した自転車は、ぐずる幼子のように、痩せっぼっちの中学生に引かれ、仕方なしに追いてきた。
 それからの道中は長かった。行けども行けども道だった。歩いては休み、休んでは歩き、疲れては肩を落とし、肩を落としては互いを見遣った。
 しかし、悔恨はなかった。きみも私同様、疲れた様子は見せていても、悔やんだり、私を恨んだりする様子はなかった。そして私にとって、なによりも嬉しいことに、今回のことがほかでもないこの私を愉しませる縁(よすが)になったことを喜んでくれているように見えた。穏やかな、いつもと変わらぬきみの、どこかしら遠くを見るような視線が私に安心感を与えたのだ。
 つまりは、きみの意志を私が奪ったのではないことを、きみの肉体の自由を殺すことできみを殺そうとしたのではないことを、きみは無言の笑みのうちに認めてくれていた。まるで駄々っ子のように、そんな無窮の優しさに甘えたくて、私はきみを誘ったのかもしれない。
 きっとそのとき、きみは心のなかで、わかっているよ、リュウちゃん、きみのしたいことはこの僕がみんな引き受けてあげるよ――と、そう言っているに違いなかった。リュウちゃん、きみが喜んでくれれば、それで僕は満足なんだ――と。
 その日、私たちは透き通るような星空のもと、いくつもの街や橋の上を通り過ぎ、何度も深い空を仰ぎ見ては、互いを鼓舞し、家に辿り着いた。
 それはきみの家だったが、疲弊した筋肉の痛みと、もはや空腹さえ感じなくなってしまった私たちを待ち受けていたのは、二人の母が相手の教育の仕方を詰る姿だった。
 普段、きみに似て、なにごとにも優しく応じてくれていたきみの母……。そんな彼女が取り乱しているのを見るのは、これが初めてだった。
 その後、数十年が経って、きみの家を訪れたとき、彼女は私を誰何したあと、それが自分の息子の友人であることに気づくと、「リュウちゃん、だよね」と恐る恐る自分自身に訊ねるようにして問うた。
 私がそうだと答えると、「ああ、ほんとにリュウちゃんだ。懐かしいわねぇ――」と女性らしい仕草と笑顔を返して言った。そして私がものを書き、本を出すというのを聞いて、「そしたらリュウちゃんに、なにかお祝いしたげなくちゃいけないねぇ」と喜んでくれた……。それが、きみの母と言葉を交わした最後の日となった。後にも先にも、きみの母はあくまでも優しさに満ちていた。
 だが、その日ばかりは、事情が違っていた。きみの母は、今回の事件が不良息子の私がきみの優しさに付け込んでやらかした迷惑行為にほかならないというのだった。
 最愛の息子を振り回された彼女にしてみれば、まさにその通りで、私はそのことについて母に謝ってほしかった。だが、彼女は私の期待に反し、そうしなかった。
 世間知らずで愚かな私の母は、それなら二度と、あなたの息子とは遊ばせはしないと言い放ったのだった。私は、きみの意志を奪い、愚行の極みを唆したことで、きみの肉体を殺し、きみの母を怒らせ、ただでさえ、常識知らずの私の母をさらに心の醜い女に仕上げてしまったのだ。
 だが、私は、きみの優しさを自分の母に伝えなかった――。
 きみの母の弁護をすることで、きみの優しさを証明することで、きみやきみの母に罪はなく、私が責められるべき悪の心の持ち主なのだということを。そして私の母であるあなたのほうに、私の犯した罪を詫びる責任があるのだ――ということを、私は懇願することも訴えることもしなかった。
 母の言葉が実現すれば、私は二度と、きみと遊ぶことも言葉を交わすこともできなくなってしまうということを、実感として捉えることができていたにも拘わらず……。

 四 浅薄な負け惜しみ

 怠惰だった――かもしれない。卑怯だったかもしれない。しかし、私はそんな母に頭を下げ、哀願することができなかった。そうすれば、世間知らずの母が本心からではなく、ほかならぬ私自身の加護のためにきみやきみの母親に謝ることが必要になる。
 誰の世話にもなるまいと痩せ我慢を承知で身に纏わせてきた自尊心……。
 それだけが、ぽっと出の田舎者で世間知らずの彼女を支えてきたのだ。取るに足らぬ、いとも細やかなプライドだけに縋って、頑なな気振りを固持する母親であったが、このうえの恥辱を彼女に味わわせることはできなかった。
 私の懇願に痛みを覚え、詫びを入れつつも、さらなる抗弁を裡に秘め擱く彼女の口惜しさ。それが私には試してみなくとも分かるのだ。その行為が、彼女の母としての社会的評価をさらに減じ、人間としての信頼を損ねてしまうだけだということが……。
 確かに口惜しさの果てに口にした、浅薄な負け惜しみではあった。だが、たったそれだけでしか我が意として口にすることができなかった彼女に、それ以上のなにを恃むことがあったろう。
 そのように振る舞い、言い放つことでしか、彼女はきみの母と対等にはなれなかった。
 また親として、我が子に威厳を示せなかった。同じ女親として、子供と対峙するとき、私の母はあまりにも幼かった。きみの母が言うような、世間様に恥じぬ教育を施すどころか、放任主義を標榜して憚らなかったくらいだ。それが、結果的に私という紛い物を育てることになったとしても、自らの非を認め、息子の前では決して詫びようとはしなかったろう。
 本来、主義ですらない「放任主義」という言葉を臆面もなく翳して、自らの子育て法を正当化する野放図さに、当時の私はうすら寒さを感じてはいても、それを非難する勇気はなかった。
 いや、違う。それは嘘だ。当時、私は知っていたのだ。知っていて、それを悪用したのだ。
 子どもの教育を放ったらかしにし、他人が指摘する自分の無責任さに思いが至らぬ、情けない自分の親を見下すのではなく、卑下していたのだ。学問もなく、簡単な文章ですら陸すっぽ読めない。そんな親が、おぞましいことに恥ずかしくさえ思っていたのだ。
 できれば、友達の母には真っ当な挨拶や笑顔を交わして欲しかったが、それができないと判っているので、誰の親にも会ってほしくなかった。せっかく可愛がってもらっているというのに、正体が露見し、相手の家族から見放されてしまうことを懼れたのだ。
 だから、私は母の無知を――、社交性のなさを利用した……。
 きみやきみの家族、そして社会と訣別するのが怖くて、母をひとから遠ざけた。社会から引き剥がされるのが怖くて、私は自分自身を母から遠ざけていた……。
 そういう意味では、私は小さい頃から、自分の家族が人目に晒されるのが嫌だった。誰でもそうだろうが、他府県からやってきた母子家庭の私の場合は、とくにそうだった。家族の、とくに母の狭量さが私の世界を狭くするのが嫌だった。訛りがあって言葉もよく通じず、寄る辺なさを感じていた転校生の私の心には、心置きなく何でも話し合える友人が必要だった。
 だが、頼んでまでなってもらう友達なら、いてもらわなくていいという偏頗な母が安易なそれを許しはしなかった。狭量がゆえに変わり者のレッテルを貼られ、貧乏暮らしがゆえにひとから疎ましがられる身内を見たくなかった。もちろん、そこには私という人間もおり、そのように見られることに劣等感を覚える惨めな自分がいたからこそ、私は家族を遠ざけたのだ。
 私は、だから、友達を家に呼びはしなかった。貧乏暮らしをしているとはいえ、たった六畳一間の、薄汚い間借部屋の生活を知られたくなかったのだ。
 母に言わせれば、それやこれやの事実を承知のうえで知己であることを許してくれる友人こそが、真の友人と呼べるというのだった。
 確かにそれは真理の一端を言い当てていたが、心理的にはともかく物理的な意味で、六畳一間にすぎないそれは、二人が遊んで過ごすには狭すぎるという弱点があった。それで終に、きみには来てもらわず仕舞いになったが、いまでもそれでよかったのだと思っている。
 第一にきみは、そんなあれやこれやに拘泥する人間ではなかったし、棟続きの借家住まいで、私と同様、母子家庭の一員であった。ただ違ったのは、家族が多く、いつもひとで賑わっている楽しい一家の長男だったということだ。

 五 文学への目覚め

 いまでも憶えているが、きみには姉がいて妹がいて、弟がいた。そして、籍には入っていないが、八尾さんという男性がいた。この男性は、後にきみに「お父さん」と呼ばれるようになるが、その当時は、所謂きみのお母さんの「若い燕」、すなわち姉さん女房の同居人という位置づけだった。
 私も、そしてきみを訪ねてくる私と共通の友達も、家族みんながその男性を八尾さんと呼んでいたが、なんら違和感も覚えず、普通に接していた。いってみれば、きみにとっては父親代わりの、そして我々にとっては兄貴分の、ちょっと恐持てな存在が八尾さんというわけだった。
 苗字がヤから始まるので、陰で彼のことをいうときは「ヤーさん」と言っていた。
 顔つきがすこぶる厳つかっただけに、まさにヤーさんと見紛う風体の男であったが、その実、極道者でもなければ博打うちでもなく、極めて真摯な愛書家だった。
 読書のドの字もしたことがなく、怠慢なうえに自堕落な中学一年生だった私が、毎週のように学校にあった図書館に通い、数冊の本を借りて読み始めたのも、ひょっとしてこのひとのお陰もあるのかもしれない。
 それに関して、いまだに覚えているエピソードがある。
 それは、山本有三だったか、他の誰だったか、作者の名前は忘れたが、中学生でも知っている有名小説家だったことだけは揺るぎがない。少なくとも、今日でいう「作家」と呼ばるべきひとではなく、所謂「文豪」に近いひとの作ではなかったかと記憶している。
 とまれ、その小説に、いつも襤褸服を身に纏い、裸足でとぼとぼと歩いているところから、村の悪童たちから「ぼんちたびなし」と揶揄されるアタマの弱い男が登場するシーンがあるのだが、それを読まされたか、自ら読んだかしての感想を聞かれたのだった。
 そのときに初めて、私は文学というものが、学校で習うような小難しいものではなく、もっと気軽に娯しんでいい愉快なものなのだということを教えられた気がした。そのときのヤーさんのしたり顔が、いまも私の脳裡に焼き付いている。
 しかし、彼は優しいばかりの男ではなかった。
 二人が二年生に進級したとき、木造校舎の端っこに移動させられた私たちの教室は、風のよく通り抜ける山の端にあったので、秋ならば枯れた木の葉の舞うのが似合う寒いところだった。吹き溜まった朽葉が旋毛風に舞う頃は、学生服の詰襟が冷たくて、カラーを取り外し、その上からマフラーを巻いて寒さに耐えたものだった。
 進級して一月ばかりが経ったその日、私たちはその校舎の裏口にあたる木製のドアのところに佇んでいた。風薫る季節が到来していたとはいえ、まだ肌寒さを感じる日だった。なにをするわけでもなかった。空をふり仰いで見たが、そこには凍えたような碧さがあるだけだった。
 古びた木製のドアは長年の使用によって、ところどころが割れ、その向こうにあるコールタール色をした廊下が冷たい音を立てる風を呼び込んでいた。そのなかに、誰かが面白半分に蹴破ったような跡があった。いかにも脆そうな、乾いた薄い板で覆われたドア……。
 そう、面白半分――。確かに「面白半分」だった。どうせ毀れているのだ。これ以上、毀れたところで、どうってことはあるまい。誰かもそれを愉しんだのだ。――そんなところだった。
 ただでさえ劣化したそれは、大した力も入れていないのに、簡単に割れた。蹴れば蹴るほど面白いほどに、それは脆くも崩れた。私たちは本当に面白がって、楽しくて、それをやったのだ。決して悪さをしているという意識はなかった。
 どこかで誰かが騒いでいるという気はしたが、それが私たちのことだとは思わなかった、それほどに、その遊びに没頭していたのだ。
 憂さが晴らしたくなったのではない。鬱屈したなにかが、二人のなかで弾けたのでもなかった。単純にそれが面白かった。それだけだった。
 翌朝、きみのお母さんの代理として学校に出向き、私たちのことを聞かされて帰ってきたヤーさんが正座した私たちにきつい口調で言った。
 きみたちは、不良になりたいのか――。いいか。不良になるなら、なってもいい。
 ただし、なるのであれば、徹底してワルになれ。感化院でも刑務所でも、どこにでも入って好きにすればいい。ひとを殺せとまでは言わないが、中途半端な不良にはなるな。劣等生でもいい。阿呆な男でもいい。だが、ひとさまに迷惑をかける、最低な人間にだけはなるな――。
 いまにして想えば、矛盾だらけで支離滅裂な、訳の分からないお説教だったが、私たちには効いた。その日から、私たちは徹底した善人ではないが、平凡な生徒になった。

 六 陽だまりの猫

 それにしてもきみは、どうしてあんなに従順だったのだろう。
 私自身はガキ大将というのではなかったし、きみもまた、ひとにものを強要するタイプではなかった。どちらかといえば、ぶっきらぼうで、あまり口を利かないタイプだった。
 いつだったか、きみがいまの奥さんと一緒になるという話が出たとき、きみのお母さんは、普段、二人は一体なにを話しているんだろうねぇ、あんなに無口な娘さんをもらって退屈しやしないんだろうかねぇ、などと案じていたくらいだったのだ。
 寡黙なきみと奥さんが日常、どんな会話を交わしていたのかは知らない。だが、その言葉を聞いて私には判った気がした。私自身がそうであったように、なにを話すでもなく、ただ二人がそこにいるというだけで、陽だまりの猫のような穏やかさと温もりに満たされていたのだ。
 それは、他の友人たちも同じだったろう。きみのところに遊びにくる友達はみな、きみと話がしたくてやってきているとは思えなかった。おそらくその顔を見ているだけで、そして同じ空間を共有しているという、ただそのことだけで、満足だったのだと思う。
 無口なきみは、長広舌を必要とする私とは違って、大事なときにただ一言、ぽつりとしか言葉を発しなかった。だが、その言葉は当を得ていて、発された側にしてみれば、それに対して問いを返したり説明を求めたりすること自体が無意味で、愚かしく思われるほどに的確だった。
 口数少なく、無駄がなく、多くを語らないきみの一言が幾度、私の心を救ったことだろう。
 大学時代、何がどうしてそうなったのかは知らないが、教養課程から専門課程に進むとき、私の専攻がいつの間にか英米文学系のものになっていたのだ。まさかのときに役立つかもと考え、「デモシカ」感覚ではあるが、同じなるなら、社会科の先生より英語の先生のほうがいいということで、教職科目を英語にし、そのゼミに出ていた関係もあったかもしれない。
 朝寝坊で自堕落な怠け心に感けて、あまりキャンパスに出向かなかったのが痛かった。
 受講登録の時期は、もうとっくに過ぎていた――。このままでいくか、それとも、やはり当初の志望通り哲学を専攻するかで真剣に悩んだ。取り返しのつかないことをしてしまったと思った。不甲斐ない自分が恨めしかった。だが、哲学は好きだった。あれこれ考えることが好きだった。
 いまはどうだか知らないが、その専攻だと、当時は社会科の教員でしかなれなかった。好き勝手な御託を並べられる英語教師ならともかく、生意気盛りの高校生相手に倫理だの公徳心だのを生真面目に説く教員をやっていく自信はなかった。
 能天気で自堕落な私が、人生で初めて出遭った岐路だった。
 きみは辛抱強く私の話に耳を傾け、ときおり言い淀む私にその都度、続きを促すかのように頷きを返してくれていた。夕暮れのなか、門灯の淡い光がきみの頬を柔らかく照らしていて、その眼差しがどこに向かっているのかを静かに教えてくれていた。
 きみが、やや眩し気に見ていたのは、眼の前にある門灯ではなく、私の心だった。静かに時は過ぎ、私がそれ以上話さなくなるのを見届けたきみは、私の顔をはっきりと見据え、「リュウちゃん、そりゃ、哲学だよ。決まってるさ」と言った。
 なにが決まってるのかわからなかった。だが、私は一瞬にしてそれを「了解」し、自分の行く道が安堵されたように感じた。アンガージュマン――。覚えたての哲学用語が突如、そのスぺルとともに脳裡に浮かんだ。これがプロジェなのだ。嬉しかった。小躍りこそはしなかったが、心のなかでは、きみに抱きつきたい衝動に駆られた。このときほど、きみの言葉を大切に思ったことはない。
 きみには、そういう力があった。ひとを静かに鼓舞し、勇気づける力……。他者の持てる精神の在りようを無言のうちに悟らせる力。それがきみにはあった。

 七 四当五落

 そういえば、あのときもそうだった。ひとより遅れて始めた大学受験――。
 本来なら、十七か十八で挑むはずの大学受験を、私は二十三歳で始めた。
 浪人をしていたわけではない。その時代は、確かに二浪・三浪はザラで、なかには四浪、五浪という剛の者もいた。その意味では、二十三で大学受験にトライするのは、いかにも遅すぎるとはいえ、そう不自然な時代ではなかった。とくに医学部志望の受験生などは、それほどの年齢になっても挑戦し続けていたし、私の周囲にもそういう手合いはいた。
 いまでは、とある県の知事をやっているK君もそのひとりであったし、とある病院の病院長をやっているW君も、かつては塾の講師をしながら医学部を目指していた……。
 だが、私の場合は、そうではなかった。経済的な都合が差し障ったのはもちろん事実だが、なによりも頭のよくないことが第一の理由であった。学費の安い市立の高校を卒業した後、ある書店の住み込み販売員になっていた私は、その書店のオーナーに、きみはこのままでいるのはよくない、学問をつけなさいと奨められたのだ。そのうえで、この仕事が適職だと思ったら、戻ってきなさい――と。
 体のいい馘の口実だったのでは――と歪に捉えるひともいるかもしれない。
 だが、私はそうは思っていない。そのオーナーは若くして肺の病を得、学業を断念したひとで、その病が癒えてからはひと一倍の努力を重ね、今日の系列書店を樹立したひとだったからだ。このひともまた、昏い頭の持ち主だった私に啓示を与えてくれたひとりだった。
 その日から私は、猛勉強をし始めた。しかし、それは自分が思っているだけで、傍から見たかぎり決して猛々しいものではなかった。当時は、「四当五落」といい、五時間以上寝た者は受からず、四時間以内でしか眠らなかった者が受験を制するといわれた時代だった。
 今日のように選り好みさえしなければ、全員が受かる「全入時代」とは違い、夜二時・三時になっても、おそらく勉強部屋であろう二階の窓に明かりが点り、下を歩く者に勇気を与えた。そんな熾烈な時代だったのだ。私も幾度、その光を見て、勇気を奮い起こしたかしれない。
 だが、元々に頭が弱く記憶力の鈍い私に、漫画の主人公がするような、とんとん拍子の勉学が進むはずもなかった。働きながらの受験勉強に限界を感じた――と、それは言い訳に過ぎず、努力不足と勤勉さを欠いた当然の報いではあったが、私は書店のオーナーに辞表を提出することにし、時間の空く新聞配達をしながら、ただでさえ出遅れた受験戦線に追いつこうと決意したのだった。
 それには、書店員時代に知ったある男性が、親からの仕送りで下宿生活をしながら医学部を目指していたことと大いに関係するのだが、私の場合はまたしても新聞配達からだった。
 それも、自力で家賃が払えないことから、新聞社の奨学金を手当てしてもらえる住み込みの配達員を選んだのだった。書店のオーナーは、私の趣旨に偽りはないことを認め、激励の熱い言葉と退職金とはまた別の三ヵ月分多い給料とともに私を「解雇」してくれたのだ。
 その後の受験戦線は、数えるほどしか友達のいない私には、実に孤独な闘いだった。
 受験の苦しさや悩みについて愚痴を零そうにも、またわからないことや詳しく知りたいことを根掘り葉掘り尋ねようにも、その相手がいないのだった。雪の降る日、風の吹く日、朝に夕に、私は新聞を配り、集金をし、折り込みチラシを入れ、勧誘に回った。その合間を縫って、きみからもらった教科書や受験参考書に目を通した。重要なところをノートに取った……。
 だが、故ある「解雇」から数か月、雪混じりの雨が降る日に受けた試験の結果はバツだった。
 ベタな洒落をいうつもりはないが、無性にバツが悪かった。悔恨と自責の念がこみ上げ、目蓋の縁から洟水と悔しさが一緒に這い出して来そうになった。だが、大の大人に言い訳や後戻りの許されるはずがなかった。これまでにやっていた辛い役務が、またぞろ蘇って来るのを感じた。
 もう一年、あの悪意ある無聊の天使と戦わねばならない……。

 八 果てしのない孤独

 桜が散り、無残な日々を過ごした私がようやく立ち直り、最後の仕上げに取り掛かっていた師走のある日、きみからの小荷物が届いた。このタイミングがいかにも、きみらしかった。
 らしかった――というのは、夢破れて間なしの頃であれば、失意の奥底に沈んだまま耳を閉ざし、己と対峙しているであろう私を想像できる、きみならではの配慮に思えたからだ。
 包みを解くと、そこには封書と一冊の本、そして肩タタキが入っていた。書籍は薄い新書で、肩タタキは、背中を掻くときの孫の手がついた、地方の土産物店によくある代物だった。
 この道具はいまでも重宝していて、肩が凝ったり背中が痒くなったとき、大いに役立っている。
 考えてみれば、これがあったから、私は、あの悪意ある無聊の天使と戦い、突然、襲いかかって来る狡猾な睡魔とも対等に太刀打ちできたのかもしれない……。
 無聊の天使は、いつも優しく私に微笑みかけ、誘惑の手を差し伸べて来る。眠くなったとき、怠け心が頭を擡げそうになったとき、その丸く硬い小さな頭で凝った首筋や肩の筋肉を強かに打ってやると、自然に眠気が取れ、きみが叱咤激励してくれているのが実感できた。退屈と怠け心と、己の意志の弱さ。それと闘えときみは言うのだ。果てしのない孤独と空疎な闘い……。
 いつも口数の少ないきみが、珍しく勁い文を書いていた。かつて同級生であった友人たちの間では、この私が、いい歳をしたお間抜けな男として話題になっており、悔しい思いがした。少なくとも自分はそうは思わぬし、応援もするから、是非とも初志を貫徹してほしい。まさに臥薪嘗胆。その精神を決して忘れぬよう精進せよ――というものだった。
 思えば、人情と義理堅さにかけてはひと一倍の、あのヤーさんの心温かな助言も手伝ったのかもしれない。兄にしては歳が離れすぎ、かといって父と呼ぶには若すぎる。そんなヤーさんが繰り出す説諭がきみを動かしたのかもしれない。
 しかし、あの新書が、そんなヤーさんからの文学的なプレゼントかと思いきや、私の心身のリラックスを誘うための、ちょっとしたヨガの入門書だった。それは、大仰さを嫌い、さりげなさを装ったきみの、私への思いが詰まった贈り物だった。
 己の怯懦との闘いである受験戦線を勝ち抜くには、強靭な精神と柔軟な肉体が必要。肩ひじ張って挑んでいたのでは、脳は伸びやかに活性化しない。――どころか、鬱屈とした姿勢でいると、身体の形までが歪んで来る。そうすると、ものの見方まで歪む……。
 と、そうきみは言いたかったのだろう。文字にこそしていなかったが、私にはわかった。誰がどこで何を言おうと、気にする必要はない。本にあるように臍下丹田に意識を集中し、雑念を払い、両の手の十指に温もりが伝わるまで、心身をリラックスさせること――。
 外部からの刺激ではなく、内部から発する熱の力。それを使って、己自身を形にする。あたかも大切なものを指の腹でなぞるように、肉体そのものを弛緩に誘う。そこから立ち昇って来る、自分だけにわかるアロマが、己を覚醒させる芳香となるのだ。
 ある意味、ヤーさんのもつストイックな眼差しを感じなくもなかったが、私にはそれが有難く嬉しかった。このようなやり取りができる友がいる、ということ。そして、その友に知恵を授けられるガイドが存在した、ということ。そのふたつの出来事が「幸せ」に感じられたのだ。
 僥倖、といっていいのかもしれない。あるいは、私のように卑小な存在にとって、「奇跡」といっていいのかもしれない。そんな巡り合わせに、私は深く眼を閉じた。眼を閉じて心を空洞にした。
 心という名の空洞の容れ物のなかに、二人の思いがゆっくりと溶け合わさるのを想像する。私という細胞の隅々が満たされるのを眺め続ける。芳香と化したその思いが私の内側を伝って、外界に向かって流れ出して行く……。そうだ。思想というものは、きっとそうであらねばならない。

 九 肉体からの不如意

 ものの見方、すなわち外界にあるものの在りようを知るには、肉体を通じた内省を経なければならない。思念のみでは決して到達できない世界なのだ。観念は思念のみで成り立つものではない。思想には肉体の存在が必要なのだ。
 そんな観方が私に芽生えたのは、実にきみのお陰だった。肉体なくしての思想はない。空疎な議論に肉体はない。別にヨガの思想に傾倒し過ぎたのではないが、私が「わたし」として存立しえたのは、そこに肉体があったからであり、思念としての欲望があったからではない。
 欲望や渇望は、実に肉体から生じる。理想や希望も、観念や思念からではなく、身体の在りようから生じる。つまりは、生理的な衝動から、ひとは己の思想を語ることができるのだ。
 そう気づいて以来、私はひとびとの語る世界の正邪を「肉体」というリトマス試験紙を通してから判断するようにした。
 たとえば、空を飛びたいと願う男がいるとしよう。
 男は、空高く舞い上がれれば、どんなに自由で心地よいかと想像する。確かにそうなれば、それを望んでいる者にとっては「心地いい」ものになるだろう。
 だが、それは、私に言わせれば、自分に羽根がなく、自由がないからであり、肉体としての羽根を有していれば、空を飛べるのは当たり前のことであり、ごく自然なことなのだ。当たり前にできることをするのに、ひとは誰も憧れたりはしないし、肉体として、それが不可能であることを知っているからこそ、敢えて飛ぼうとしないのだ。
 また、たとえば、自分の頭に浮かんで来る音楽を指で奏でたくなったとしよう。
 かれは色んなものを使って道具を作り、ピアノというものを発明する。そこでは、片手で五本ある指の幅を勘案した鍵をつくるだろうし、両手を最大限に伸ばした身長とほぼ同じ長さの鍵盤を設けることだろう。デジタル時代のいまなら、どんな音階だろうと、どんな長時間であろうと、限界なく、電気がつながっているかぎり無限に、同じ音を続けて出すことができるし、耳に聴こえなくなるまで高周波の音を出すこともできる。
 抽象的な音楽もまた、このようにして人間の肉体がもつ限界を加味してつくられたものなのだ。
 ギターもヴァイオリンも、そして管楽器もまた、人間の身体を限界とした肉体の言語にほかならない。この世の、どの思想も極小単位としての肉体を超えることはできない。
 その意味では、肉体からの不如意、または「そこにない」という生理的な衝動から生み出されるのが、本当の思想であり、音楽であり、その他諸々の芸術といえるだろう。
 肉体が自由にならず、それが欠けるがゆえ、人間は自由を欲する。心が空洞であるがゆえ、ひとはそこに何かを満たしたくなる。満たしたものが、真に自分が欲したものであるかどうかを見極める膂力。それは、自ら命を蓄えた者のみが享受できる特殊エネルギーの空間なのだ。
 私に果たして、その能力や膂力があったかと問われれば、なかったと答える以外にない。
 私の空間には、なにもなかった。その小昏い空間にはなにも存在しなかった。あるのはただ、きみの無限に尊い知恵の深み……。それしかなかった。あくまでも受け身としての、己の存在だけが、虚しく宙を舞っていたのだ。
 もし私に、きみという情報がなかったら、私はとっくに滅びていたろう。せっかく書店のオーナーが奨めてくれたとしても、私は自ら動くことはできなかった。そして、きみの味わった私への屈辱が私自身のものとなって、私はその淵に沈み、二度と浮かび上がろうとはしなかったろう。
 それほどに、当時の私は打ちひしがれていたのだ。しかし、私はきみによって救われた。肉体の欠如、そして肉体からの不如意を認めることによって、私は自分の限界を知った。もうこれ以上、孤独を味わう必要はなかった。沈黙からの解放。寒い冬からの脱却。それを私は味わえると感じた。
 そしてついに、その思いの通じるときがやってきた――。
 大学の合格発表があったその日、きみは私の代わりにバイクに跨り、大学までそれを見に行ってくれたのだ。そのバイクに乗って、私がいる新聞販売店の店先までやってきたきみは、新聞折り込みを入れている私の姿を部屋の奥に認めるや、両手の拳を空高く突き上げるようにして微笑んだ。そして、そのままハンドルに手を戻し、風のように去っていった……。
 一瞬、旋風が巻き起こり、スローモーションでそれを見送っているような気がした。
 嬉しさ。いや、というより優しさが――。きみの届けてくれた優しさが、胸の奥からこみ上げ、私は自分の頬に生暖かいものが流れているのを知った。
 もう、あの闘いは終わったのだ。きみの味わった私への屈辱、その蔑みへの悔しさが、いまにしてようやく晴れ、それがあの、握りしめた拳の高さとなって顕われたのだと直感した。
 まるで自分ごとのように私のことを護ってくれたきみの拳が、私を勇気づけたのは間違いない。だが、それ以上にきみは、私のためにその拳を揮ってくれたのではなかったか――。
 おそらくそうなのだろう。きみというひとは、そういうひとだ。
 一陣の風のように、一瞬にして私の心に触れ、ふっと消えるように去って行く。礼の言葉も感謝の笑みも必要とせず、照れ隠しのように後姿だけを見せて去って行くきみ。付かず離れず、それでいて遠いところにいるきみ……。

 十 友人からもらった伝書鳩

 柔らかな陽射しを浴びて午睡をするような、そんな日々をいつしか過ごしたいと思っていた。何物にも囚われず、どんなものにも臆しない、そんな穏やかな晩年が送れたら――と願っていた。
 それも、きみと一緒にK市街が一望できる、あの小高い山の頂きに登って、二人で来し方を語り合う穏やかな日々が来るのを楽しみにしていた。中学のとき、訳もなく、あの山に登っては、そうしていたように、きみと心置きなく他愛のない話がしたかった……。
 二十数年前、最後にきみと食事をしたとき、何年か後の春の日に、またいつか逢えれば――と、きみは言ったが、その春をすら待たずにきみは逝ってしまった。また逢えた春の日に一体、何を私に伝えたかったのか、私にはわからない。
 きみの言いたかったこと。伝えたかったこと。そして私に託したかったこと。なんでもいい。きみの話が聞きたかった。いつも私の話にばかり耳を傾け、さきを促しては頷き、決して自らの思いは語らなかったきみの、心からの言葉に耳を傾けたかった。
 それが唯一、私にできることのはずだった。自らは与えることを知らず、授けられるもののみを唯々諾々として受け取り、それを恥じともしなかった私にできる、唯一の恩返し――。それが、きみの言葉に耳を傾けることだったはずだ。
 きみは、なにも求めなかった。少なくとも、私からは求めようとはしなかった。
 求めたとして、得るものはないと知っていた。だから、欲しがらなかった。無から有の生じようはずがないことを、私のような存在からは何も生じないことを、きみは知っていた……。
 そういえば、なにも求めず、なにも欲しがらなかったはずのきみが、たった一度だけ、私にねだったことがあった。それは、鳩だった。私が伝書鳩を数羽、友人から譲り受けたことを告げると、初めて自分の要望を口にしたのだ。最初にして最後となった、きみの望み……。
 あれは、たまたま同じクラスの友人にレース鳩をやっている者がいて、鳩の数が増えて処理に困っているのだが、よければ飼ってみないか――と誘われたからだった。
 六畳一間の二階家の、歩くとみしみし音を立てる部屋で、私は友人から教えられた通り、近くの電気屋さんから冷蔵庫用の木枠箱をもらってきて、簡素な鳩小屋をつくった。自身が辛うじて身を入れられるだけの、小さくて見窄らしい鳩舎だった。
 作り方は、至って簡単だった。箱全体を取り巻くように金網を巡らせ、その正面の一角に入口を設える。その入口には――専門的には「入舎口」というらしいが、人の出入りはできない――鳩が帰還したとき、なかに入るための一旦停止場となる板状の舞台が必要だった。その舞台、普段は立てかけて入口を塞ぎ、放鳥のときだけ水平に倒して「止まり台」とするのだ。
 そして最後に、トラップといって、内からは下端が邪魔して出られないが、外からは、それを前に押しさえすればなかに入れるアルミ製の、二本セットになった棒状器具を取り付ける。
 ――と、これでお仕舞いだった。いわば、鳩が入れば元に戻るこの装置で、朝夕二回の放鳥でも、止まり台を倒しておきさえすれば、鳩たちには好きな時間にご帰還いただけるという訳だった。
 それもこれも、すべて友人から教えてもらったノウハウだった。
 だが、残念なことに、きみは私に教えを請わなかった。その代わり、いまでいうノウハウ本を買ってきて、それで勉強し始めたように記憶している。
 なにかを始めるとき、必ずきみは事前に下調べした後で、ことに当たる男だった。
 少林寺拳法をやり始めたときもそうだったし、吹奏楽部に入り、サキソフォーンを吹き始めたときもそうだった。少林寺拳法を始める前、私に柔道を勧めたときもそうだった。生憎、きみの家とは違い、我が家にはそのようなものに出費できる余裕はなかった。なにかに金を払い、下調べをしてからことに臨むという習慣がなかった――。
 いまとなってはもう、はっきりとは憶えていないが、確かにそのとき、きみは鳩の飼い方・育て方を研究しはしたが、鳩は飼わなかった。まず事前に下調べをするというきみの慎重さに私は驚いたが、それ以上に驚いたのは、試しになにかに挑戦してみるという行動様式が、我が家にはまったく存在しないということだった――。私は、このときほど、きみの家を羨ましく思ったことはない。
 これはいまにして思う想像だが、きみが鳩を飼わなかったには理由があった。
 そこには、あのお節介焼きのヤーさんの働きかけがあったはずだ。おそらくきみは、鳩の飼い方の難しさ、その繁殖力の旺盛さ、近隣への迷惑、そしてなによりも、毎日の世話を誰がするのかについて、滾々と諭されたに違いない。それがついにきみに翻意を促すことに繋がったのではないか――。私は、そう思っている。
 ところで、我が家の鳩は――というと、私の無知が原因で、すべてが死んでしまった。
 ……というより、殺されてしまった。というのは、近所に住む野良猫たちが入れ代わり立ち代わり鳩舎に入り込んで、一羽残らず連れ去るか、その場で深手を負わせ、最終的にすべての個体を死に至らしめたからだ。やつらは、私が学校へ行く前に開けていった鳩舎の止まり台から入り込み、私がそれぞれの特徴を取って名付けた可愛い鳩たちをすべてなぶり殺しにしたのだ。
 内側から外へは出られないはずの鳩舎から、鳩より大きな身体をもつ猫がどうして出られたかというと、ひとつには、トラップそのものが鳩の出入りをしやすくするために、極めて軽量につくられているということがあった。しかも、アルミ製だけあって、可塑性に富み、猫がその図体を押し込むと簡単に開いたままになるので、猫はちゃっかりその間隙を利用して、入ってきたところと同じ場所を通って出ていくことができたのだ。
 いまでも、そのときの口惜しさや憎しみを忘れられないでいるが、ここでは書くまい。自分の愚かしさが増すだけだから――。

 十一 思い人との別れ

 私は、もともと沈思黙考するタイプの男ではなかった。
 おっちょこちょいで、はしゃぎ屋で、そのくせ人見知りで含羞みがちな子どもだった。
 話は遡るが、K市に越してくる前、私はまだ小学二年生になったばかり。ようやく学校という異空間にも馴染み、大好きな女先生と会話が交わせるのが楽しいと思い始めていた矢先だった。
 身体も弱く痩せていて、よく風邪をひいた。そして、大勢の友達と群れて遊ぶタイプの子どもではなかった私は、その先生が大好きだった。その先生が校舎のどこかで私を見かけたとき、「リュウくん」と話しかけてくれるのが好きだった。そんなとき、私が駆けて行って先生を抱きしめると、先生は、もっと力を込めて私を抱きしめてくれるのだった。
 そうして抱きしめられると、その日一日、安心していられた。抱き上げられるのではなく、同じ眼の高さにあって抱きしめられるという、その受け身の行為が私を有頂天にさせた。楽しくて、嬉しくて、そこいら中を走り回りたくなるほどの気分にさせたのだ……。
 私にとって先生は、なんと言っていいのだろう。いわば「思い人」だった。
 先生に会うのが楽しくて、先生に抱きしめられるのが嬉しくて、私は毎日、学校に通った。毎日が楽しかった。大人になり、こんな齢を経たいまになっても、その嬉しさは変わらない。おそらくこのまま一生を終えることになったとしても、その思いは終わりを告げないだろう。
 何度も言うが、私は先生のことが好きだった。やせっぼっちで、貧相で、近所の子どもたちや親戚の子らからすら疎んぜられ、莫逆の対象とは決してならない、そんな私をなにも言わず、走って行けば必ず抱きとめてくれる大人の女性……。そんな先生のことを、私は他の誰よりも好きだった。
 だが、家族はあまり好きではなかった――。父からは抱き上げられたことはなかったし、もっとも愛してくれるはずの母からも抱きしめられたことはなかった。現実ではそうではなかったかも知れないが、記憶にある限り、母は先生のように抱きすくめてはくれなかった。
 母は当時、なぜか疲れていた。私を見ても、先生のように眼を輝かせてはくれなかった。学校から帰っても、先生のように両手を広げて迎えてはくれなかった。いつも私ではなく、遠い世界の別の生き物を眺めているようで、その眼になにが映っているのかはわからなかった。
 そういえば、父の姿もいつの間にか見えなくなっていた。いまにして思えば、なぜそれに気づかなかったのか、自分でもわからない。それに父には、遊んでもらったという記憶があまりなかった。唯一残るのは、学校に入る前、簡単な漢字や平仮名の読み方を教えてくれたことだった。
 お陰で、私は入学前にはすべての平仮名が読め、書くことができた。当時は、トイレの紙は新聞紙を小さく切ったものを使っていたが、そのなかに出て来る小学生向けの文章も読むことができたくらいだった。しかし、学校に入ってからの母の顔は、日に日に厳しく険しいものになって行った。読み書きがよくできたと先生から褒められたと告げても、母の顔は変わらなかった。
 そうして数か月が経ったとき、母は突然、K市へ行くと言い出した。K市というところがどういうところかは知らなかったが、私は自分の住んでいるところを離れたくなかった。生まれ育ったこの土地、この町の風景が好きだった。母にまたここに戻って来れるのかと問うと、わからないが、場合によっては、そういうことになるかも知れないという返事だった。
 だが、私たちは、二度とその町に住むことはなかった。私は、大好きな先生と別れなければならなかった。母からは、明日でK市に行くことになるから、今日はちゃんと別れの挨拶をしておいでと言われたが、その意味をはっきりと自覚できてはいなかった。
 通り一遍の、いわば日常の別れの挨拶を交わしただけだった。先生がなぜ悲しそうな表情で、私を堅く抱きしめてさよならを言ったのか、理解できていなかった。勉強、頑張るのよと言われたとき、うんと頷き、急いで家に駆け戻っただけだった。
 先生が盲腸の手術を終えて退院し、再び学校に姿を見せたとき、あまりの嬉しさに抱きつき、別の女先生から「駄目よ、先生はお腹の手術を終えたばかりなのだから」と押し止められて泣きだし、駄々をこねる私に「いいのよ、先生はもう大丈夫だから」と抱きしめてくれた先生……。
 あの先生には会いたくても、もう会えないのだ。K市に引っ越してから暫くは、その思いに浸ってばかりいた。幼心に芽生えた「ひとへの思い」を断ち切った引っ越しは、だから、大嫌いだった。
 生まれ育った山や川のある風景、小さな足で通った学校までの道のり、いつも左右を見てから渡った線路の踏切、そしてあまりにも大きく、広く思えた運動場や校舎……。
 それらの映像が私の脳裡に棲みついて一体、何年が経ったろう。優しい女先生に抱きつきたくて駆け寄って行った幼い自分の姿が、いまも眼に浮かぶが、きみと出会うまでの幼年時代、いや、K市に来るまでの私は、そんなタイプの少年だったのだ。

 十二 先生に固執する自分

 生まれ育った空間からの断絶。離脱ではなく断絶――。そんな想いだった。
 私がいたT市は、私にとって「生まれ落ちた空間」というより「思い人の心が詰まった空間」であり、その象徴となるのが、あの先生のいた「学校」であった。K市に越してからというもの、言葉の違いもあって友達もできず、独り過ごしていた私にとって、心の通わせ所として存在したT市の学校は、私にとって自身を鼓舞して生きるための精神的支柱になっていた。
 断ち切られた心の拠り所への希求はますます募り、中学、高校と進むにつれ、その想いはさらに強まり重くなった。これまた下手な駄洒落を弄する気は更々ないが、その想いは本当に重くなり、一種の強迫観念のように私について離れなくなってしまったのだ。
 書店に就職して十九歳になっていた初夏のある日、私はオーナーから五日間の休暇を許してもらい、自転車(そう、またもや自転車だ――)を駆って、あの小学校をもう一度、眼にしてみたいと思った。
 もうあの先生には会えないかもしれないが。――というより、その居所さえ知らないのだから、逢えはしないのはわかっていたが、そうでもしなければ、いつまで経っても幼い自分を脱却できず、それに振り回されて生きる人生が待っている気がしたのだ。
 感動的なものを「感動」として捉えることのできる感性――。私には、それが欠落している気がしていた。なにを見ても、なにを読んでも感動しなかった。
 それもまた、あの先生に固執する自分がいたからだと考えていた。あのように私を赦し、抱きしめてくれる存在。その存在が私を縛っていた。本当は、そんなものはいないのだとわかっていた。頭のなかのどこかで、それが甘えだとわかっていた。
 しかし、頑迷な私は信じようとはしなかった。絶対的な善は存在するのだと、揺るぎない精神そして無辜の意識は善から生まれるのだと信じようとしていた。だから、それを払拭したくて、頭のなかからそいつを取り去りたくて、私は自転車という道具を「手段」として使うことにした。
 だが、今度は、あのときのように頑丈な荷台付きの、厳めしいタイプのそれではなかった。
 きみと一緒に新聞配達をやり始めたとき――ああ、そうなのだ。この新聞配達をしようと言ったのも、私からの提案だったのだ――から貯めていた小遣いを叩いて、近所の自転車屋に出入りし、いわゆるドロップ式のハンドルやサイクリング用の細いタイヤに「改造」していた私は、それに乗って自分を見つめ直そうと思ったのだ。絶対的な善のひとは実在する――という観念を諦めなければ、私は前に進めなかった。
 なぜなら、周りにはあまりにも自分勝手な、そして傲慢な人間ばかりが犇めいていたからだ。そのひとたちを信じたとき、私は必ず裏切られた。後年になって、どこかで耳にした「XXからの逃走」ではないが、そこから脱却しなければ、私はXXであることができないと思い込んでいた。
 私にとってのXXとは、何ものにも囚われない、拘泥しない心であった。だが、何ものにも囚われず拘泥しないことと、物事に固執しないでいることとは次元が違っていた。「固執」と「拘泥」とは、私には別物だった。言葉遊びが過ぎると思われるかもしれないが、固執とは先生をひとと思い続けることであり、拘泥とはそのような自分を哀れな客体として観取することだった。
 拘ることによって己を縛り、観念を固定することで、精神は羽撃かなくなる。「感動」の反意語がもしあるとすれば、まさにそれだった。「意識」に対して「無意識」という言葉があり、「無意識」という名の意識が存在するように「無感動」という名の感動も存在する。――だとすれば、私は思い人との思いがけない別れに固執し過ぎて、無感動の闇を生きようとしていたのだ。
 新しい自分、弱い自分からの脱却。それこそが私の囚われからの解放だった。逃げるのではなく、立ち向かう。これが私に与えられたチャンスだった。観念や想念ではなく、この眼でしかと見えるものを信じる。それこそが、この短い旅で私が見届け、解放しなければならない腫瘍だった。
 その日の朝、私は自転車の前後にシュラフやパンク道具など、ちょっとした小物の入る容れ物を取り付け、走行中に必要になるものを詰め込んだ。もちろん、備え付けの空気入れは忘れなかった。往復二日は要かる道のりを、あのときのように連れて歩くわけにはいかなかったからだ。

 十三 引っ越しの謎

 長いトンネルと上り坂をいくつも超え、私はついに、あの小学校が見える丘に辿り着いた。
 穏やかな丘陵の先に田園の広がるのが見え、そこから見える校庭は、いまにしてみれば確かに小さく狭いものだったが、私には充分に存在感のあるものだった。私は確かにここに実在した。観念ではなく、そして想念の生み出した架空の造形ではなく、私が私として認められた空間がそこにあった。
 木造の校舎も小さくはあったが、可愛かった。思っていたほど朽ちてはおらず、あの時のままの姿で私を迎えてくれた。白塗りの校舎のあちこちに剥落したような跡があったが、それ自体が私に微笑みかけ、大人になった私を見上げるように迎えてくれた。
 そう。あのときとは全く逆に、私が学校を可愛く思い、その小ささをあのときの自分と重ね合わせながら、その白い肌のひとつひとつを、そして窓を通して見える、小さな小さな椅子や机たちが隣り合わせで並ぶ愛らしさに、いつの間にか溢れ出た涙が頬を伝うのがわかった。
 ああ。私はここにい、そして呼吸していた。そしてあの先生に駆け寄り、その胸に飛び込んで行ったのだ。生きること。死ぬこと。生きて呼吸しているということ。そんなことは一切知らず、ただ先生の優しさにだけ縋って自分を「自分」として認めていた。
 善は確かに存在した。しかし、それは過去のことだった。大人になろうとしているいま、それに固執することは、却って己の空間を縮めることになる。過去は捨てねばならない。
 だが、本当に捨てられるだろうか――。私のなかで誰かが反問した。
 お前がお前であった証は、この空間を「実在」として認めることではなかったのか。それを否定して、果たしてお前は「己の未来」を生きられるのか――と。
 その自信はなかった。正直言って、そんな自信はなかった。誰かに頼り、誰かに縋らなければ生きて行けない自分が、どこかで叫んでいた。まるで捨てられた仔犬のように、天空に向かって咆哮していた。生きて行くということが、たった独りの営為の結果ではないと信じたかった。
 やはり私は、この過去を捨てては生きられない――。そう悟ったとき、校舎はあのときのままに蘇り、机や椅子たちは私に着席を促し、黒板の前に立って私を見下ろす笑顔の先生を蘇らせた。先生の姿は年老いておらず、あのときのままだった。先生、ぼくどうして引っ越さなくちゃいけなかったの。私は手を挙げて訊ねたが、先生は悲しそうな笑みを浮かべ、頭を振っただけだった。
 数秒が経っても、返事はなかった。教えて先生。ぼくはあのとき、どうして――と言葉を重ねようとしたとき、先生は静かに教壇を降り、私には何も言わず教室を出て行った。教室には私のほかには誰もいず、どこか遠くでニイニイゼミが啼いているのが聴こえた。
 そうか、いまは夏なのだ。夏休みだから、誰もいないんだ――。
 それにしても先生、どうしちゃったの。どうして口を利いてくれないの。お願いだから、ぼくを置いて行かないで――と最後に大声で叫んだとき、片腕が机から滑り落ち、私は自分が小さな椅子に座り、机にうっ伏しているのを知った。顔を上げると、机の上には水溜まりがいくつかあって、指でその膨らみをなぞれば流れ落ちそうになっていた。
 涙とも思えたが、たぶん「涎」でもあったのだろう。丸一日間、この校舎に会いたくて、この教室の匂いを嗅ぎたくて、それこそ一睡もせずに走ってきた疲れが身体の芯からあふれ出し、私を眠らせてしまったのだ……。夢は一瞬にして、謎と涎の筋を残したまま、覚めてしまった。
 引っ越しの謎など、あの先生が知る由もない。……のは、幼心にもわかっているはずなのに、どうしてあのようなシーンが夢に現れてしまったのか。なぜ我が家が、あんなにも急に引っ越さねばならない羽目になったのか。――については、先生ではなく、母に訊くべき事態であるはず。一介の児童の、複雑な家庭の事情なぞ、赤の他人の先生が知ろうはずもなかった。
 私は、今夜はゆっくり休もうと思った。疲れているのだ。駅でもいい。お寺の境内でもいい。なんだったら、この校舎の隅っこでもいい。夏だから、蚊の飛来にさえ用心すれば、シュラフひとつで充分なはずだ。
 だが、その前に見ておくところがある――。
 それは、私が生まれたあの家、いや、いまはもうないであろう、あの家の佇まいが眺められた場所。そして、その空間の移り変わりだった。それが見てみたい……。

 十四 腹を空かせた少年

 私が引っ越しが嫌いな理由はただひとつ。それは「別れ」を伴うからだ。
 別れは必ず、ひとを悲しくさせる。だが、「訣別」は違う。訣別は自らの意志において積極的に振る舞う「行為」の一環だからだ。別れは、しかし、それとは反対に自らの意志とは違うところで起こる「運命」の一形態であり、不可抗力の一種なのだ。
 私は運命論者ではないが、意志とは関係のないところで起こる悲劇や喜劇は、枚挙にいとまがない。人間である限り、いや、生きとし生けるものである限り、それは避けて通ることのできない「必然」の出会いなのだ。選び取ったのではないが、選び取らされる悲劇もまた必然の出来事なのだ。
 罪との関連においてそれを論述することはできないが、生きてあること自体が必然の結果であるとするなら、別れは罪の行為と重なり合う。別れが悲しいのは、それが良心の呵責を伴うからだ。
 ああしておけばよかった、こうもしておいてやりたかった、なぜあのとき、そうしてやらなかったのだろう。あんなに止められたのに、なぜやってしまったのだろう。なぜ、なぜ、なぜ……。後悔が無念が、そして罪の感情が己の不備を、失敗を、怠慢な注意力を、責め苛む。
 この世の誰ひとりとして、他者の世話にならなかった者はいない。生かされてあることは、そうした「必然」の結果なのだ。独りでは生きられないにも拘らず、己を過信した報いが傲慢を生んだとしたら、その後の生は地獄への道行にほかならない。業苦が、罪の意識が、自分を責め苛むのだ。
 だとしたら、ひとはなぜ生きるのか。そこまでの目に遭いながら、ひとはなおも、生きようとするのか――。その答えが私にわかったら、どんなにか幸せだったろう。
 かつての家、いや、かつてそこにあった私たち家族の家の跡は、僅かにそれとわかるように少しだけ残っていた。眼の前の車一台が辛うじて通り過ぎることのできる道路、そしてなにかの拍子で手を火傷しそうになったとき、駆け寄って腕まで沈めた小さな川、そしてその上に登っていて落ちそうになったとき、枝が太腿に突き刺さることで一命を取り留めた柿の木、そのふたつだけはひっそりと、かつての家の面影を漂わせていた……。
 想えば、この小川に生け簀を置き、父が釣ってきた鯰や鮒、鯉などを入れていたのだった。さして深くもない川だったが、子どもの私には膝くらいまでの深さがあった。
 水は清く澄んでいたが、なぜか顔彩絵具の容れ物が、たったいま捨てられたように色の水の線を描いていたのが記憶にある。おそらく絵を描いていた父が捨てたものか、あるいは固くなってしまった絵具を洗い流すために浸けていたものだろう。
 父は眼の前にある、この道路の中央に立って祖父や祖母、近所のひとたちに見送られ出征した。そして戦後、戦地から戻ってきた父は暫くの間、絵ばかりを描いて暮らしていた――と父方の祖母から聞かされた。戦地でなにがあったのかは知らない。父は多くを語らなかったという。
 父方の祖母で憶い出したが、父方の祖父母はなぜか私に冷たかった。あまりにも痩せていて、孫らしく見えなかったからかもしれない。それとも、何かがあって、私が憎らしかったのか――。
 その祖母の葬式か何回忌かの会が催されたときであったのだろう。私が卓袱台に出されていた大鉢のなかの漬物を二つ三つばかり頬張ったとき、祖父に無言のまま、思い切り手の甲を抓られたのを覚えている。よほど飢えていたか、食い意地の張った子どもだったのだろう。
 いっぽう、母方の親の子どもたちからは、肋骨が見えるほどに痩せていたのを気持ち悪がられ、遊んでくれなかったことを覚えている。いまにして想えば、あの先生が私を抱きしめてくれたのも、私が不憫に思えた所為なのかもしれなかった。
 こうして家の跡地を眺めていると、これまた次々に想い出されてくるのだが、風邪をよく引き身体の弱かった私は、西式健康法といって、硬い枕に板の寝床に寝ていた。板の上にたった一枚の毛布であろう布切れを敷いて、その上に眠るのだ。
 あの別れ以来、この家や学校の姿を追慕し続けて来た私だったが、ここに到って、ようやく気づかされた。私が幼くして極端に痩せ細っていた訳――。その謎を解く鍵がここに存在していたのだ。
 その頃は、母に言われるままに、当然のことと思って――というより、そんなものがあるとは思ってもいなかったのだが、私には朝食を摂るという習慣がなかった。昼は、確かに母のつくってくれた弁当箱を学校に持参し、その中身を食していた記憶はあるが、それと夕食以外にはなにも食させないというのが西式療法方針というものだったのだろう。
 当時は、おそらく民間療法に近いものだったのだろうが、病弱な私を心配した母が私に施した唯一最善の処置であったはずだ。当時、私は背むしになるかもしれないと言われていたのだ。例の漬物つまみ食い事件も、あるいは、そのことを承知の祖父に阻止されてのことかとも思ったが、大勢のひとのいる眼の前で卑し食いする孫の姿が恥ずかしかったのだろう。いま想い起こせば、いつも腹を空かせ、ひょろひょろしている見窄らしい少年が私だったように思う。
 ある日のこと、その寝床で微睡んでいると、別の部屋から母の苦しむ声がした――。
 時間的にどのくらいの時刻であるかはわからなかった。電燈も点いていず、部屋全体が明るかった印象があるところをみれば、日中または夕暮れに差し掛かる前の出来事だったのだろう。まだ時間の観念がなく、時計の読み方を知らないときだった。
 その声は間欠的に起こり、次第に大きくなって何度も私の眠りを妨げた。思い返してみれば、母の部屋には見知らぬ老婆がやって来ていて、母には入って来てはならない、いつものように板の上に仰向けになっていなさい――と言われていたのだった。
 何度聞いても母のその声は、その老婆に痛みを与えられる度に出している悲鳴にしか聴こえなかった。私は、父の道具箱から金槌を取り出し、母の部屋に向かった。

 十五 弱者への眼差し

 あれは、妹が五月生まれだから、私が四歳になる二か月前のことだった。
 てっきり母が、あの老婆に虐められているのだと思った私は、部屋に入るや否や、その老婆めがけて鉄槌を振るったのだった。いくら幼子の力とはいえ、痛かったろうと思う。
 ちょうど妹が産湯に浸かり、小さな身体を清めてもらっているところだった。少なくとも三~四回は、その老婆、いや、産婆さんを叩いたろう。私は母に怒られ、部屋を出て行かされたのだった。
 いかに抱きしめられなかったとしても、母は母だった。このときばかりは私にも、ひとし並みな人間性が備わっていたのかもしれない。哀れな母の声を聴いて助けに行かなかったとしたら、私は、その後の人生を悔いて過ごさなければならなかったろう。私にとって、このことだけは唯ひとつ、自分の生に許せる善行のひとつだったとして認めたい。
 もしこの善行がなければ、私に救いはなかった。私に「良心」というものの存在はなかった。自分が根っからの悪人ではない――という証拠が私には必要だった。この証拠が、いや、支えがたったひとつだけでも存在したから、私はその後の生を生きられたのだ。
 取るに足らぬほど、ちっぽけな良心だったかもしれない。だが、私にとっては自分にそれが存在した証となる真の「事実」であった。この世の悪に染まる前に、世間の汚濁に浸るその前に自覚した無辜の意識は本物の善であり得る。素直に、嘘偽りなく自分の良心を信じ、母をいたぶる「敵」に昂然と立ち向かって行った、初めての試みだった。
 これが本物だったからこそ、私は私が私であることを信じ得た。一片の良心の呵責。それを放置することほど無責任で、後ろめたいものはない。あの出来事は、幼い私の無計画かつ無意識の意識がなした結果だったからこそ、その後の私の生を救う善行のひとつに成り得たのだ。
 思えば、それだからこそ、あの先生もまた、自らの「良心の呵責」の命ずるままに私を抱きしめるという「事実」を受容したはずだった。教師としてよりは人間として、不憫を不憫と感じ、哀れを哀れと認知したがゆえに、私という「存在」をなんの屈託もなく抱きしめてくれたに違いない。
 ここまで思い到ることで、私は長年、胸のなかに巣食っていた幾つかの腫瘍のうちのひとつが取り去れた気がした。固執からの解放、そして訣別。別れという消極的なものではなく、訣別という自らの意志で行う積極的な行為――。この旅で、そのひとつが行えただけでも、儲けものと言えたが、もうひとつ私には、取り除かねばならない腫瘍があった。
 それは、過去からの断絶ではなく、離脱だった。断ち切られた生は、過去からの断絶であった。だから、どうしても私の生は「離脱」でなければならなかった。一片の良心の呵責。それがあっただけでも、私が私であり得たように、大仰に言えば、私が私として他者からその存在を認められたように、過去は断ち切られてはならないものだった。
 ただ問題は、その過去がいつまでも臍の緒のように、私の身体のどこかにぶら下がり続けていては、それが邪魔になって前に進めない――というデメリットがあることだった。
 過去を否定するのは簡単だ。無視すればいい――というひとがいるかもしれない。
 だが、否定や無視は存在するものを「ない」とすることであって、「ある」ものを「ある」と認めることではない。いっぽう離脱は、「ある」ものからまた別の「ある」ものへの移行を意味し、元あったものをまで「ない」とする意図は含んでいないのだ。
 どうやら本当に疲れて来たようだ。考えが堂々巡りをし、目蓋が自然に閉じる……。
 その夜、私は近くにあった寺の境内に自転車を乗り入れ、東屋にあった長い腰掛の上にシュラフを乗せ、そのなかに身を横たえて眠った。

 十六 剥がれ落ちる心の瘡蓋

 目が覚めて、私は境内入口の近くにあった水屋の柄杓を使って口を漱いだ。次いで水を含ませたタオルで顔を拭ってさっぱりした。手水の使い方など知りもせず、お寺さんからみれば無礼千万な作法だったろうが、賽銭箱に百円玉を数個投げ入れて、そのお礼とした。
 今朝も快晴だった。夏の朝の陽射しが眩しく、昨日の疲れが嘘のようだった。
 私はかねて考えていた、あの場所に行ってみようと思った。あの場所とは、幼いときから印象に残り、かつての家や学校と同じくらい、この眼でもう一度見てみたいと願っていた場所だった。
 過去を否定するのではなく肯定し、その価値を認める。そうして初めて自分は過去から離脱し、自分自身を解き放つことができる。そう信じていた私には、あの光景は、まさにいい意味での新たな旅立ちとの邂逅であり、まだ清新であった頃の自分との再会であった。
 前方に続くなだらかな上り坂は、父が私と妹をリヤカーに乗せて連れて行ってくれた、見渡す限り広大な台地にたどりつく峠道のはずだった。
 不思議なことに、そのリヤカーには、それを牽引するはずの自転車が見当たらなかった。朧げに浮かぶ記憶では、幼いふたりがその上に乗り、父が引いていたのだけがクローズアップ映像のように目蓋に残っているのだ。恐らくは私が、小さな妹がリヤカーからずり落ちないように見張りをする役目を担っていたからなのだろう。
 私はサドルに跨り、その峠へ向かうべくペダルを強く踏みしめた。頬や腕にあたる風は涼しく、早い朝の晴れやかな光は空全体に満ち、その先に続く道を明るく輝かせていた。十一年ぶりに見るあの光景は、いまも変わっていないだろうか。あの満面に水を湛え、鏡面のように見えた池は、あのときのように、どこまでも深い空を映して悠然としているだろうか――。
 小学校入学前の子どもにとって、その行動範囲は知れている。しかも、自家用車どころか子ども用自転車すらがなく、乗り物といえば隣町にゆくバスでしか乗ったことのない自分には、あんなにも大きな水溜まりがこの山中に存在すること自体が信じられなかった。
 眼前に拡がるその光景は、まさに別世界――。生まれて初めて眼にする「神秘的」な光景だった。その光あふれる光景をまた眼にすることができるのだ。私は期待に胸を膨らませながら、ドロップハンドルで前かがみになった姿勢をさらに沈めて全身の筋肉に力をこめた。
 確かあそこは、大の大人でも驚嘆しないではいられないほど広大な演習場だった。
 当時、父が教えてくれた言葉によると、トーチカがあり、そのなかで母が用意してくれたのであろう蛍烏賊の入った弁当を食べた記憶がはっきりとある。
 そこは、大人のひとが四~五人も入れそうな暗い穴倉のようなところだった。分厚いコンクリートで固められた内部には、小さく細い横長の窓があり、そこからは外が見えた。仄暗いなか、窓の外を見る父の眼に細い光が射していた。大分傾いてきた弱い陽の光の所為で、父の顔までが弱くなったような気がして、父の名を呼んだ記憶がある……。
 明るい陽射しのなかの農道は真っすぐに伸び、平坦ではあったが、上り坂のため、自転車で進むにはそれまでの倍の筋力が要った。私は徐々に勾配を増す坂道を抜け、傍らに見えてきた池らしき水際を横目に見ながら、曲がりくねった山路をいくつも登った。
 そうして暫く経って視界が開けたとき、眼前に現れたのは、忘れもしない、夢にまで見た、あの池の悠然とした姿だった。満々と水を湛え、微動だにしないその面は、あの時と同様、私に神秘的な感銘を与えた。そう。私はこれを見たさに、ここまで己を引っ張ってきたのだ。
 心の瘡蓋という言葉があるとしたら、この景色を見ることで、一気にその瘡蓋が剥がれてゆく思いがした。泰然として己を喪わないその姿に安心感を覚え、これまでの親に対する恨み辛みの類は捨て去らねばならないという気になった。
 己の不遇をいつまでも親の所為にし、あのまま故郷にいさえすれば、自分はこうはならなかったという傲慢な思い込みが、いま消え去ろうとしていた。私は暫く池面を眺め、呆然とした後、自転車を降り、池を背に記憶のなかの、平野ともいうべき広い台地に向かって歩いた。
 おそらくこの先に、父の言っていたトーチカがあるはずだ。
 それにしても、父はこんな距離を徒歩で私たちを連れ、リヤカーを引っ張って上ったのだ。
 なんという忍耐力だったのだろうか――。私なら疾っくに投げ出していたろう。私のどこかに張り付いていた瘡蓋がまたひとつ、小さくなった気がした。
 あの当時の記憶では、ほかの箇所にもそれがあり、そのなかのひとつに入って、あの醤油で甘辛く煮込んだ蛍烏賊を啄んだのだった。その味は小さい自分には辛すぎるように感じられ、あまり食べたいとは思わなかった。父に、ご飯と一緒にもっと食べろと勧められたような気もするが、それ以上は食べなかった。例の西式健康法が習慣になっていたせいかもしれない……。
 向かう坂道の頂上に右手に、丸い形のコンクリートの造形物が見えて来た。
 どうやら、あれがそうなのだろう……。だが、その姿は近づくにつれ、想像していたのとは少しずつ異なって行った。もっと四角形に近く背の高い建物だと思っていたのだが、案に相違して、これほど丸く造られているとは思っていなかったのだ。
 記憶とは、いかに事実とは異なるものか――を思い知らされた気がした。「記憶」は創られる。そして「事実」は変容し得る。いわば、心の瘡蓋が記憶だとすれば、無意識に巣くう腫瘍は事実であった。方や快方に向かうものであり、もう片方は、下手をすれば死に向かうものであった。
 腫瘍は「取り除かねば取れない」が、瘡蓋は時が到れば「自然に取れる」ものなのだ。その方向性に思い到ったとき、私はこの瘡蓋は無理に取り去る必要のないもの――と直感した。
 記憶は、それが己の生きる縁となるのであれば、取り去る必要はなく、消え去りようのない事実は多少の変容を来たしたとしても、温存しておくべきなのだ――と。それが死に至らしめる悪性の癌であるとわかったとしても、それが天の定めた己の寿命なのだ――と。
 身体が小さいがゆえ、大きく背が高く見えたトーチカは、物理的にも意外に小さく思えた。それが事実だとすれば、今度はこれを記憶という優しい思い出のなかに包み容れ、時折取り出しては生きる縁とすればよいのだ。
 薄暗いなかに入ると、そこにはベンチ状になった円形の椅子があり、ちょうど肩の高さよりやや低いところに肘掛けのような台座があった。そう。ここに弁当箱を乗せて、あの蛍烏賊を妹と一緒に口にしたのだ。そういえば、彼女も私と同じように、あまり食べなかった。おそらく子どもの口に合わなかったのだろう。いわば、あれは酒の摘まみのような食べ物だったのだ……。
 細い窓から外に眼をやると、そこには広大な平野ともいうべき台地が遠方へと続いていた。父はあのとき、この穴を覗いて何を想っていたのだろうか。私は傾いた陽の光に照らされた父の姿を想った。

 十七 事実としての思い出

 生きることの意味は、私には分からなかった。このとき、私は十九歳。初めての一人旅だった。
 いまからおよそ、半世紀前のことだ。しかし、そのとき、生きたいとは思った。この先、なにがあるかわからない。どんな不幸が待っているかわからない……。
 だが、死にたくはなかった。少なくとも、殺されたくはなかった。
 死を選び取らされる自由というものがあるとしたら、そのような自由は強制であり、運命であった。いわば、国家の命令で戦地に赴かされる兵士は、いや、学徒や農民や村民やは、運命としてそれを受け入れ、お国のため――という名目のもとに死を選び取らされたのではなかったか。
 中学生の頃、きみの母から聞かされた当時の話に、兵隊に行くのが嫌で彼女の部屋に閉じ籠もった親戚の伯父さんか誰かが「そんなに嫌なら、行かなくてもいいようにしてやる」と迎えに来た兵士に撃たれ、兵役を免れたというのがあった。真偽のほどは定かではないとしておくほかないが、彼女の名誉を思えば、そのようなことは当時、ほぼ日常的に行われていた事実ではなかったか。
 そのような死が本当にあったとすれば、それは国民の自由意志の結果ではなく、国家による「自死」の強請であり、軍部の暴走を許した政治の怠慢であったはずだ。
 お国を救わんがために行使した自由意志とは、運命の受諾ではなく、それとの訣別でなければならなかったはずだった。昭和二十年に終結したその戦いが「敗戦」から「終戦」と言い換えられ、戦後という感覚がまだ厳然として国民の心に残っていた時代とはいえ、私は父の言うトーチカという言葉の意味も、その建物の使用目的が何だったのかも言い当てるには幼過ぎていた。
 自らの意志に反し、選び取らされる肉親との別れ――。それは私にとって、あの先生との別れのように「強いられた」精神の死にほかならず、そのようにして他者の意志を殺すのは犯罪であった。それゆえ、かくも悲惨な精神の死を強いた国家は、犯罪者でなければならなかった……。
 父は、どう思っていたかは知らない。だが、私はこのように美しい水の光景を、この平和で長閑な風景を、私の心のなかに残してくれた父に感謝した。それらは私のさもしい欲望が生んだ幻想や捏造の類いではなく、「事実」そのものだったのだから……。
 幼い頃、私は青い空が好きだった。それも遠いところにあるそれではなく、天の真上にある一等深いところの青さを見上げるのが好きだった。そして一気にその空へ高く舞い上がり、大きな声を辺り一帯に響かせる雲雀の飛翔する姿を眺めるのが好きだった……。
 もしこのような「事実としての思い出」がなかったとすれば、私は本当に根無し草になっていたろう。故郷を持たぬ苦しみ。そしてその故郷を故郷として認め、その想いに浸ることのできる安堵感。私には、説明できるルーツがあったのだという安心感。それらは、生きる根拠としての支柱になり得たし、ひとはなぜ生きられるのかという問いへの答えともなり得た。
 人間に思索の跡があったとすれば、それは哲学の痕跡だ。木石には哲学はない。
 何万年経っても、木石は木石のまま存在し、哲学をすることはない。ちょうど、私の母が放任主義の何たるかを知らず、自分がそうであると開き直ったように、哲学をしないという選択肢を選ぶのもひとつの哲学ではあり得たろう。
 だが、思索を行わぬ人間は、そして唯々諾々と他者の思いに身を委ねる人間は、木石がそうであるように、何万年経っても哲学者足り得ない。人間は生き続ける限り、哲学者でなければならない。開き直りがさらなる開き直りを生むように、ひとたび開き直れば人間は死ぬ。そして、路上に転がる石ころや田んぼのなかの切り株のようにひとに邪魔にされ、疎まれる存在となるのだ。

 十八 ダイナモの発見

 ひとはなぜ生きるのか――という問いに答えはない。古今東西、ひとびとはその問いを問い続けてきたが、いまだその答えに到達してはいない。だが、なぜひとは生きられるのか――という問いについては、私なりの回答がある。それが、これまでも縷々述べてきた十九歳の私が感得した「事実への了解」ということであった。
 これまでひとは生きる目的を求め、その解を探し続けてきた。ひとが生きるためには、目的があらねばならない――と。そう思い込むことで、ひとは迷路に陥った。目的なしには生きられない――とひとは思った。そう思いなすことで、ひとは自己を喪った。
 金儲けのため、愛するひとのため、地域の人々の生活に潤いをもたらすため、ひいては自らが幸せになるため――と様々の目的を想定し、それを遂行する過程で自らを失った。アイデンティティなるものは存在しないと言い切って憚らぬ時代が幾度かあったが、その実は、自己を偽り、他人の生を生きていることに気づかないひとは大勢いた。
 だが、ひとは過去なしには生きられない。誰にでも過去はあるが、その過去をどのように認識したかによって、ひとは生きもし死にもする。生きられる生は、未来という目的成就のためよりは、過去の肯定であり、その想いがあってこそ、ひとは生きられる。
 五十年以上前、十九歳のとき、私はこの真理に思い到った。まだ見ぬ未来ではなく、すでに超えてきた過去によって、ひとはまた新しい自己を生きることができる。この旅は、まさに私にとって新しい自己を見出すための旅であり、「いま」を超えていく力を与えてくれるダイナモの発見であった。
 たったひとりでいい。自分を理解してくれるひとが、この世にあるということ。それ自体が自分を生きさせてくれるのだ。きみが、きみであり、きみでしかないように、私もまた私であり、私でしかなかった。それを認め、受け容れることで、私は未来を生きられる生として捉えた。
 欲望ではなく、なんらかの目的の成就のためではなく、細心に己を過去から離脱させていくダイナミズム。それが、十九歳の私が見つけた「生きられる生のメカニズム」であった。
 いっぽう、きみはこの頃、高校を卒業し、ヤーさんのやっていた担ぎ屋という家業の見習いをしていたのだったが、それには「生きられる」という生のダイナモが感じられなかったのだろう。三年だけでいい、せめて三年だけは好きな道に進ませてほしい――と、きみはヤーさんやきみの母親に頼み込み、高校時代にトロンボーンをやっていた先輩の伝手で、テナーサックスの演奏家になった。
 その先輩はピアノをよく熟し、すでにジャズ・ミュージシャンとして関東にある、とある県のキャバレーでの演奏や作曲で収入を得ていた。高校時代、私も加わって夏の盆踊りの季節になると、各町内を回って、グレンミラーの曲やその他のスタンダードを演奏した。いわば、高校生の我々にとっては夏の風物詩ともいえる行事、いや、セルフ・パフォーマンスの見せ場所だったのだ。
 このときのリーダーがその先輩で、当時の高校生にしては珍しく優秀な演奏家だった。しかも、いまでいうMCにしても可笑しくないほど魅力的な話し方ができる男でもあった。彼は、営業マンとしても有能で、各町内会の会長に頼み込んでしっかりと注文を取り、ちゃっかりと演奏料を得ていたのだったが、いっとき、その金の分配を巡って仲間内で揉めたことがあった。
 途中から参加した吹奏楽部のトランペッターが、タダでは協力できない――と言い出したのだ。本人はまだ高校生で、先輩が引っ張ってきたプレイヤーのひとりだったが、アルバイト感覚で参加していたため、その金が我々のバンドのために使われる――と知って怒り出したのだった。
 先輩が宥めすがめつ、やや気色ばんで凄むなどして説得すること数時間――を要しても、結局そのトランペッターは折れることはなかった。この時点で、毎年恒例のバンド活動も終焉したのだが、先輩だけはその夢を捨てず、トロンボーン奏者になっていたのだった。
 きみもまた、生きられる生を生きるために、過去を選んだ。親の、そしてヤーさんのそれではなく、自分の過去になしてきた事実を、その後の人生に捧げようと誓ったはずだ。自己を偽り、他人の生を生きないためにも、きみは、きみの事実を自分の人生の延長線上に措定したはずだった。

 十九 お涙頂戴で糊口を凌ぐ作家

 私はトーチカを後にし、もと来た田園風景の続く坂道を下った。その昔、近隣の村民たちが幾多の艱難辛苦を重ね、それこそ臥薪嘗胆の思いを込めて開拓したであろう、そのなだらかな開墾道を来たときとはまた違った心で味わいながら走った。
 高台の麓に見えてきた平野は、私の生まれたT県N郡F町、すなわちいまでいうT市の長閑な光景だった。あのトーチカから遥か彼方に見晴るかした風景――。それが、この町であった。
 そこには、幼い頃、母屋と呼んでいた母方の大きな家があるはずだった。父方のそれとは、かなり隔たったところにあった記憶はあったが、いまは父方のそれに関しては何も憶い出せなかった。おそらくあまりいい印象を持っていなかったため、記憶から消し去ったのだろう。
 それとも、無意識に巣くう悪性腫瘍は取り除かねばならない。――とそう思って、私は父方への家路を脳裡から消し去ったのかもしれない。
 あのとき父は、あの暗いトーチカのなかからこの町の光景を眺めることで、なにを思い、何を考えていたのだろうか。同じ光景ではあっても、父の脳裡には、私のそれとはまた違った感懐が浮かんでいたに違いなかった……。
 途中、どこを見回しても、記憶のなかのそれらしい道は見当たらず、たまたま畑作業をしていた農家のご婦人に出会った。これ幸いに、近辺に三崎という家の所在を知らないかと訊ねた。この辺には三崎という姓はいっぱいあり、下の名前がわからないことには――というのだった。
 残念ながら、私に父方のそれはもちろん、母方の兄弟の名前をはっきりとは知らなかった。
 母には八人の兄弟姉妹がいたというが、詳しくは知らなかった。――というより、母は自分の家族のことをあまり話してはくれなかった。母も、その当時は、故郷の父母や兄弟のことを憶い出すのが辛かったのかもしれない。最初の頃は、それなりに耳を傾けていた私のほうもまた、毎度のように聞かされる彼女の繰り言には辟易し、嫌気が差していたのだった。
 その頃の母の言葉を朧げに辿ると、確か長男の名は「カイッツァン」だとか言っていたような気がするが、漢字表記となると皆目、見当がつかないのだ。
 ことの序でに言っておくと、私はいま筆名でこれを書いているが、戸籍上の姓は三崎という。
 それを「岬」と改めたには、山あいの地に生を享けた自分が「岬」と称することで、少しでも明るい性格の持ち主になれるのではないか――との浅はかな考えを抱いたからだった。
 F町は開放的な平野にあったとはいえ、私にとっては閉塞的な町であった。
 その閉塞感を払拭するためにも、物書きになったら、その名を筆名にしようと決めていた。高校時代に手がけた懸賞論文に駄洒落めかして、その名を記したのが切っ掛けだった。その甲斐あってというべきか。こうしてある意味、「作家」と呼ばれる存在になったのではあるが、私が思うところの「小説家」ではなく、いわゆるノンフィクション作家というものにはなったのだった。
 だが、プロの物書きとは名のみの悲しさで、明治の伝記作家、大門正二を題材にした評伝『D氏の肖像』がヒットし、とある賞を得たのは得たのだが、それを最後に鳴かず飛ばず……。いまでは、しがない雑文を書いては弱小出版社に送りつけ、お涙頂戴で糊口を凌いでいる身分に過ぎない。
 とまれ、このとき十九歳。世間知らずの私は、親切な農家の物知り婦人のお陰で所在がわかり、母の兄である「嘉一郎」さんの三崎家に無事、辿り着くことができたのだった。
 ところが、そのカイッツァンの話を聞いていて、世間知らず――というより能天気な私がいかにお粗末な脳味噌の持ち主であったかに気づかされる事実が続々と鎌首をもたげてきた。
 そのひとつ――。私が生まれたあの家は、父の名義ではなく、母方の、つまりは嘉一郎さんの父の名義であったというのだ。しかも、父の姓も三崎ではなく、「溝畑」であったことも意外だった。つまり、父は三崎家の四女であった母と結婚し、あの家を新居に婿入りした――というのだった。
 伏せられていた過去があらわになり、一枚ずつ薄皮を剝がされるように開示されて行くと、私は、積み重なった瘡蓋のひとつひとつが心の皮膚からぽろぽろと剥がれ落ちていく清々しさを感じた。固執した過去はすでに変容しており、もはや自分ものでさえなくなってきていた……。
 綺麗さっぱり全身の皮膚が洗い流される気分で、私は、母よりも何倍も老いた嘉一郎さんのぼそぼそと語る家族の昔話を聞いた。そして、彼の語る情景のひとつひとつを眼蓋の裏に浮かべながら、懐かしさの込められたその声に耳を傾け続けた……。
 T市、いや、T県独特の地方訛りで語られるそれは、私にとっては一種の音楽であり、その声の奏でる旋律は大河となって、記憶の果てへ流れて行くのだった。

 二十 牛革でできた黒いランドセル

 嘉一郎さんの語るところによると、三崎家の先祖はもと戦国大名の家臣で、代々庄屋を世襲している家柄だった。嘉一郎さんのお祖父さんが存命だった頃、屋敷には立派な石の門と屋敷林があり、母屋の上がり框の前には、いまよりも広い式台が設けられていたという。そしてもし、そのまま庄屋として存続していれば、私はその十六代目に当たるというのだった。
 確かに言われてみれば、おぼろげではあるが、家の正面に向かう小径には石で造られた門の跡らしきものがあったし、部屋へ上がるための板間も二段構えになっていた……。
 しかも、母屋の前面には小さな池泉もあり、その水辺の周りには、不思議に透き通るような碧い色をした石がほかの石と混ざって並べられていた。私は、緑色をしたその美しい石が特に欲しくて溜まらなかったのだが、おそらくあれが翡翠や瑪瑙といわれる玉髄質の類いだったのだろう。
 一度、それをねだったような記憶もあるが、おそらく即時に却下されたはずだ。それが欲しいという心がいまもあるが、そのことを憶い出そうとすると、なぜか嫌な気分が胃の底から湧き上がってくる感じがするのは、よほど強く断られたから――と思っている。
 それに比して、父方の家は狭く、いわゆる屋敷というのではなかった。子ども心にも、その家はみすぼらしく、遊びに行くにしても楽しいところではなかった。というのも、その家には自分と遊んでくれるような年恰好の子どもはいなかったし、第一、相手をしてくれるとすればお祖母ちゃんそのひとだけで、苦虫を噛み潰したような顔つきのお祖父さんが怖かったためもある。
 そのお祖母ちゃんがしてくれたことで、忘れられない嫌な思い出がひとつある――。
 いまも一種のトラウマになっていて、憶い出すたびに恨めしさが募るのだが、私が学校に上がる前、母方の祖母が私を連れて下見をし、黒い牛革のランドセルを買ってくれることになっていた。私は、それを買ってもらえるものとばかり思っていて、とても楽しみにしていた……。
 だが、その後、暫く経つ間にどういう経緯があったのかは知らないが、なぜか父方の祖母が買ってきた私の好みでないランドセルが与えられたのだった。
 なぜ、そのランドセルが気に入らなかったか――といえば、皮革が豚のそれであったのと、色が肌色で蓋の中央にバットを構えた野球選手の絵が入っていたからだった。祖母としては、私が男の子だから――とその絵柄を選んだのだろうが、野球に興味のない私にはそれが気に入らなかった。
 いっぽう、母方の祖母が選んだのは、いかにも堅牢な感じの黒い光沢を放つ牛革のそれだった。おそらく父方の財力では、それを買うほどの余裕がなかったのだろう。豚革のそれは、表面がぶつぶつしていて、いかにもそこが毛穴です――といった感じの手触りが私には嫌だった。あるいは母が義母に気兼ねして、父方の親の顔を立てた所為だったのかもしれない。
 そのランドセルは、その後どうなったか――については記憶にない。K市に越してからも、そのランドセルを背負っていたのかどうか――も記憶にない。
 たぶん、K市の子どもたちは全員、牛革でできた黒いランドセルを担いでいたろうから、恥ずかしさを感じ、担ぐことをしなかったのかもしれない。それとも、幼心にも縫製が下手だとわかるほど堅牢度が低かったため、半年か一年もしないうちに潰えてしまったのだろう。
 それほどに貧しかった父方の家だったが、嘉一郎さんによると、その家は他人の手に渡り、いまはクリーニング店になっているらしかった。見に行くなら場所を教える――と言われたが、そんな気にはなれなかった。家族の在り方に陰と陽があるとしたら、父方のそれは明らかに「陰」だった。
 ただでさえ陰気な自分が、そんなところへ行ってさらに陰気になるのは眼に見えていたし、明るい想い出のない父方のそこは、私にとっていわば鬼門に相当すると言えた。この旅は、暗くなるためのそれではなく、陰鬱な自分を払拭するためのものであるはずだった。
 だから、鬼門を避け、明るい気分になるための話題をしなければならなかった。それには腫瘍ではなく、瘡蓋のほうを発見しなければならなかった。瘡蓋なら、容易に剥ぐことができる。それが剥がれることで、心も格段に明るくなれる……。
 私は、嘉一郎さんに母のことを訊ねてみることにした――。
 そうすることで、なぜあのとき、私たちが引っ越さなければならなかったのか、そして、なぜその先がK市でなければならなかったのか――の謎が解けるのではないかと思ったからだった。

 二十一 一度目の訪問

 ひとの驚きを自分の驚きとして感じる共感力――。あるいは、悲しみや苦しみを己のそれとして呼吸する共振力――。それが、私には欠けていた。私は、伯父の語るさまざまの言葉に耳を傾けたが、そのすべてを実感として受け取ることはできなかった。
 この当時、私はいわば「欠陥人間」として生きていた。その生の在りようを少しでも改善できればと断行したのが、この旅だった。物事をその在るがままに受け容れるだけでなく、あるがままの姿を自分のものとして感受する、その深みある精神を身に付けたかったからだ。
 そのように思って、明治以前から始まる伯父の訥々とした昔話を聞いていると、自分の幼い頃に感じた不思議な思い出が少しずつ姿を見せ始め、心に蘇ってくるのが分かった。
 そのなかで、とくに印象に残っているのが、この屋敷の一角に立派な体躯の馬がいて、その馬が大豆や人参の細かく刻んだ餌を食べているシーンだった。大きな桶にすっぽりと鼻を突っ込んで食べているその餌は、自分でも欲しくなるくらい旨そうに見えたのだった。
 これもまた、例の西式なんたらのお蔭で「食い意地が張っていた」訳ではなかろう。
 ――とは思いたいのだが、まさかこんな片田舎で競走馬の飼育でもあるまい。だからといって、一介の民家がペット替わりに飼える代物とも思えなかった。長じてからも、すっきりさせたい謎のひとつがこれだった。
 嘉一郎伯父さんがいうには、その馬は当時、農耕用に飼っていたもので、私がまだ三歳になるかならずのときに処分したはず――という話になった。三つ子の魂なんとやら。子どもの記憶力のよさというより、不思議さに関する好奇心は、かくも鮮明な記憶として残るのだと知ったのだった。
 だが、それとは別に、私の心に引っかかったのは、つまり、私がまだT市にいるとき既に、あの馬はいなかったことになる――ということだった。
 そう言われれば――と、私は憶い出した。というのも、私がK市からこの家に来たのは、これが初めてではなく、二度目の訪問になるからだった。
 一度目は、この家のお祖母ちゃん、つまり嘉一郎さんの母親が亡くなったときになる。
 私は、おそらくはこの嘉一郎さんから送られてきたであろう電報を受け取ったものの、どうすればいいかわからず、ポカンとしているところへ、近所のおばさんから、これを持ってすぐお母さんのところへ行きなさいと言われ、母の務める縫製会社に急いだのだった。そのときのシーンは、いまも覚えているが、能天気な私はその紙切れが重大なことを告げているものだとは露ほども思っていなかった。母のいる会社の門衛さんに母の名を告げ、暫くして出てきた母にそれを見せると、たちまち表情が険しくなったのを感じた。その後のことは、よく覚えていないが、おそらく母は早退し、二人で家路を急いだのだろう。K市に越してきて二年も経たない頃のことだった。
 そうして母と二人で、暗いトンネルのなかでも煙を吐く汽車に乗り、煤で顔や鼻の孔を黒くしながら、十数時間も費やしてここにやってきたのだった。

 二十二 様変わりしていた母屋のイメージ

 ようやく辿り着いた母屋の広間に置かれた、棺のなかのお祖母ちゃんを見た……。
 お祖母ちゃんは仰向けになって手を合わせ、静かに眼を瞑っていた。その鼻の孔を忙しなく出入りしている、眼に見えないほどの小さな蝿がいた。そのことを考え併せると、あの電報の内容は「ハハシススグカエレ」だったのだろう。私たちが死に目に会うことは既に不可能だったのだ。
 しかし、彼女の鼻腔を出入りしている蝿のことは誰にも教えることはしなかった。親戚縁者であろう大勢の大人のひとたちが集まって、種々のことどもをあれこれと語り合っているなか、そうしたことを言い出すのはよくない――ように思われたからだった。
 通夜の夜が更け行くなか、私のことを懐かしがり、頭を撫でてくれた北海道の叔母ちゃんの言葉遣いが珍しくて、話の内容はともかく、彼女が他のひとと話す声の美しさに耳を澄ませた。なんて綺麗な言葉なんだろうと思った。K市とは大違いだった。
 そのようにして眠い目を擦りながら通夜に付き合い、眼を醒ますと、いつの間にか布団のなかにくるまれていて、身動きがとれないのに気が付いた。悪戯好きな叔父さんの子どもたちが母に寝かしつけを頼まれたのをいいことに、面白がって私を簀巻きにしたのだ。
 布団も顔の周りまでくるまれていたため、息苦しくなって目が覚めたのだとわかった。身動きが取れず、息もできないことの恐怖で、このまま放っておかれれば死ぬ――と思った。私は大きな声を出して助けを呼び、それに気づいた大人の誰かに助け出された。助け出してくれたのはおそらく母だったろうが、伯父さんの子どもたちは、さして怒られた様子はなかった。
 翌朝、数人の男たちが棺を担ぎ、私たちも参列者の行列を従えて山のなかに入って行った。
 平坦な山道を上って行くと、そこには台形になった木の櫓のようなものがあり、そこでお祖母ちゃんの亡骸を棺ごと火葬にするのだと判った。山のなかといっても、おそらくは墓地の一角であったろうが、いわゆる焼却施設の一角というのではなかった。一種、小高い丘のようなところだった。
 何分ぐらいが経ったのだろう。櫓や棺が完全に燃え尽き、灰になったのを確認して、私たちは長い箸を使って骨を拾った。ひとが骨になるのを見たのは、これが初めてだった。すべてが白く乾いていて、箸で触れると陶器の欠片のような音がした。これが喉仏、これは下顎の骨といった風な会話が大人たちの間で交わされ、それぞれが涙していた。
 そういえば、このとき、父の姿はなかった。なぜ、父はこのとき、母と一緒に来なかったのか。想像するに、妹はこのとき、父と一緒にK市にいたのだろう。まだ幼過ぎ、手がかかるがゆえ、連れてこなかったのかもしれない。
 確かに、二度目の訪問のとき、あの厩はなかった。その裏に続くはずの土間もなくなっていた。当時、庭と呼ばれる土間から直接、馬に餌をやれる構造になっていたはずだ。それに、目蓋に深く映っている大きく白い土蔵の姿も、あるはずの場所から綺麗さっぱり消えていた。そのことを訊ねると、当時の家は古くなったので建て替え、現在あるのは二年前に建てた新築だというのだった。
 その意味で、私の知っている母屋のイメージはすっかり様変わりしていた。白く大きな土蔵は、その当時、単なる物置小屋のような使われ方しかしておらず、私たち子どもの絶好の遊び場となっていた。湿った漆喰のカビのような臭いのする、暗くて迷路のようになったそのなかは、隠れん坊をするチビっ子たちには持ってこいの場所だった。
 そこには、長櫃や取っ手金具のついた箪笥、古びた木箱など様々のものがおいてあり、私たちは箪笥の金具を工場の装置かなにかに見立ててカチャカチャと音を立てて仕事をしているお父さんのふりをした。長櫃のなかも「仕事」のふりをして覗いたことがあるが、なにか着物のような布がたくさん入っていた記憶がある。おそらくいまでいうクローゼットのようなものだったのだろう。
 嘉一郎伯父さんがいうには、その昔、長櫃は嫁入り道具のひとつで、もしなにかあって嫁が死に、実家に戻すときは、それが棺代わりになったというのだった。
 そういわれれば、小さい頃、そのようなことを教えられた気がした。
 というのも、いつしか悪ガキたちも、そのなかを覗き見るのが怖くなり、それ以来、長櫃の付近では遊ばなくなった記憶があるからだ。ある意味、大人たちの先人の知恵で、勝手になかを荒らされないように――との策略だったのかもしれない。
 そのなかに髪の長い女の死体が入っていて、なかを開けると、その顔が眼玉をひん剥いてこちらを見上げていると想像するだけで、小便どころかウンコまでちびりそうだったのだから……。

 二十三 「髪結いの亭主」タイプの人間

 夜、B29が轟音とともに大編隊で襲来し、焼夷弾を霰か雹のようにT市の扇状地に降らせた。
 終戦日の、たった十三日前のことだった。被災者十万人、死者三千人。T市を遠くに臨める演習場の高台にいた嘉一郎叔父さんは、あのトーチカのある丘の上からT市街が赤々と燃えあがり、空を焦がしている様子を涙しながら、仲間たちと一緒に見詰めたという。
 そして一ト月もしないうちに、家の貸し賃で林檎ひとつしか買えない時代が到来した。それまでの「暖衣飽食を許さず」どころか、それまで以上に弊衣破帽、襤褸そのものの耐乏生活が襲ってきたのだった。農地改革で地主制度は解体され、三崎家も自作農に替わることを余儀なくされた。
 なにもかも、一から始めなければならなかった。空前の食糧難が日本全国を一斉に襲った。政府は、「緊急開拓事業実施要領」を閣議決定し、この食糧危機を脱すべく復員軍人・引揚者・戦災者たちをこのF町や隣町のJ町に入植させ、新たに農地を開墾させたのだった。
 私も脳の一部に貧乏生活の断片記憶があるが、学生服にしても霜降りのものを着ていたし、靴もゴム製のものだった。小学校からの帰り道、近くの小川で散々苦労して捕まえた八ツ目鰻のような細長い魚を、それに入れて家に持ち帰った覚えがある。
 つまり、戦後十年経っても、F町のような田舎では、まだそんな状態だったのだ。
 だが、ハイカラなK市では誰も、そんな靴を履いて闊歩している者はいなかった。大人はもちろん、幼い少年すらも布でできたズックを履いて、軽快にあちこちを飛び回っていた。
 それに引き換え、K市に越してからの私は――と言えば、ズックこそ買ってもらったものの、長靴は買ってもらえず、雨の日もそれで学校へ行かなければならなかった。そういう意味では、あのゴム靴のほうが雨降り対策用としては優れものといえたかもしれない……。
 とまれ、そんなこんなで、誰もが飢え、生活に苦しんでいた時代だった。
 嘉一郎伯父さんが問わず語りに話すところによると、復員の後、除隊となった父も生活の足しにと履物屋を営んだものの、妻子を養えるほどには至らず、若い頃、奉公に出ていたK市に舞い戻り、一定の仕送りをすることとなった――というのだった。
 確かに私の記憶にも、本来は土間であったろう玄関口が大きく開け放たれ、そこに色々な種類の下駄や草履が並べられているシーンはあった。しかし、客が来たのを見たことはなく、いつもがらんとし、声だけが空しく響く店先だったのを覚えている。
 しかし、いわゆる履物専門の下駄屋としては可笑しなことに、一足だけ売れ残っている変なものがあった。店先に並べられている以上、売り物ではあったのだろう。
 それは、陽の光に当たり過ぎて退色してしまった長靴で、幼心にこんなものが売り物になるのだろうか――と訝るほどの品物だった。ところが、なにをどう勘違いしたのか、父はその上から真っ青なペンキを塗って、新品まがいに売ろうとしたのだった。
案の定、それは完全に売れ残ってしまった――のは、いうまでもない。
 そんなふうで、嘉一郎伯父さんに言わせれば、ちと風変わりな父だったが、絵を描かせれば上手で、誰もが画家になれば――と薦めたほどだったという。もちろん、画家で食えるわけもなければ能力もない父にしてみれば、現金収入を得るには、元いた奉公先の伝手に頼るしかなかったのだろう。一種、出稼ぎという形で、私たちを置いてK市に出たのだった。
 ところが、暫くするうち、家の横をJ町まで一直線で行ける幹線道路をつくるというので、拡幅工事が必要になった。角家だった我が家も半分ほどの規模になるという。それなら、立ち退かざるを得まいが、その後は、一体どこに住むのか――ということになった。
 いずれにせよ、同じ立ち退かねばならないのなら、亭主のいるK市にするか、このままT市のどこかに移り住むかしなければならない。――ということで、母が嘉一郎伯父さんを立会人にK市まで赴くことになったが、その前に伯父さんたち親類の者は猛烈に反対したという。
 なぜなら、父は見た目もそうだが、気が弱く、優柔不断で、決断力のない男だったからであり、どちらかといえば、絵空事を夢見ながら生活する「髪結いの亭主」タイプの人間で、男としての生活力やプライドは、全く持ち合わせない人間と見抜いていたから――というのだった。
 まさに踏んだり蹴ったりの言われようだが、そのような性格は私にも受け継がれていて、あたかも自分のことを言われている気がしたほどだった……。
 ここまで来て、ようやく私は事態が呑み込めるようになっていた――。
 つまりは、父が第一回目の訪問時に顔を見せなかったのも、このことがあったからなのだ。母にしても、そこまでの反対を押し切ってまで強行したK市行きが果たして成功したかといえば、そうではなく、縫製工場に勤めねばならないほどに困窮していたのだから……。

 二十四 孤立からの逃走

 口下手で、愛想もよくなく、おべんちゃらのひとつも言えない父に一体、どんな商いができたというのだろう。私は、嘉一郎伯父さんの話を聞きながら、心の中で反問した。それは、嘉一郎伯父さんの言った言葉への反感からではなく、むしろ同情から出た質問というべきものだった。
 というのも、嘉一郎伯父さんとしては、実の妹を大切に思うあまり、必死になって止めた――そのことが逆に仇になって、彼女から嫌われる原因を作ってしまったからだった。
 問題は、父が「髪結いの亭主」的であるのは認めるにしても、母がそれに値しない女であるということだった。この取り合わせは、母がそのとおりの人間であれば問題はなかった。
 残念なことに――というより不幸なことに、母の性格は髪結いのそれではなかったし、それほどに寛容で、甲斐々々しく相手の面倒を看るタイプの女でもなかった。差し出がましいことを言うようだが、嘉一郎伯父さんたちは、彼女の性格をこそ諫めるべきだったのだ。
 母は、どちらかといえば、気位が高く気丈ではあったが、そのいっぽうで、他人の親切心や善意に対しては、あまり有難がらないタイプだった。言ってみれば、もっとも可愛げのないタイプの女性といえたが、そんな偏屈さが私の母の性分なのだった。その意味では、私もそのようなDNAを受け継いでおり、世間的には、ずいぶんと遠回りな人生を生きた人間といえるかも知れなかった。
 そのことについては、後に触れる機会もあろうかと思うが、基本的には矜持ともいえぬ矜持でもってひとに抗し、却って自らを窮地に追いやる偏頗な性格が災いした人生ともいえたろう。
 私事に及ぶ話はさて措くとして、少なくとも母に関しての第一は、あんな男とは離縁し、この地に留まれ、家や仕事先は自分たちが見つけてやるから――という兄たちのせっかくの申し出を断り、その経済的援助をも拒んだことにあった……。
 結果、それが元で母は、三崎家の親戚縁者全員を敵に回すことになり、自ら孤立した。
 いわば、最悪の墓穴を掘った格好の母は、最後の砦だった父の庇護も受けられず。――というより、嘉一郎伯父さんの予言どおり、甲斐性なしの上に病を得て無職状態となってしまった父を当てにはできず、女の細腕で夫子三人を養うことになってしまったのだった。
 以来、生きて行くということの意味は彼女にとって、世間一般でいう幸福の追求とか家族の団欒といったものではなくなり、無間ならぬ「無縁」地獄での凌ぎとなって行った。ちょうど、その折の生活が、私の孤独な小学校生活と重なりあう部分であり、母としても不憫の感情を押し殺しながらも、歯を食いしばって働かなければならない時代の幕開けとなったのだった。
 嘉一郎伯父さんによれば、ただ一度だけ、母はT市に無心に来た――という。
 おそらく父が、病気で入院した時のことではあったのだろう。しかし、耐えがたきを耐え忍び難きを忍んでの願いを反故にされた母は、今度こそ「故郷との縁」を完全に断ち切ってしまった。
 もう二度とカイッツァンには頼まない――。怒りに満ち、荒々しく独り言ちた母の声が、いまだ私の耳朶に残っている。その言葉は、私にとっての「故郷との断絶」、そして、孤独な母にとっての「無縁地獄」が始まることを意味していた……。
 しかし、過去を絶っての未来はない。生は、私が発見したように「事実としての思い出」がなければならなかった。生きる根拠としての支柱がなければならなかった。その意味で、このとき母は根無し草となった。「生きられる生」を彼女は見つけようとはしなかった。
 頑迷で無知で無教養な母であったとしても、彼女もまた、ひとりの人間であり、自らのルーツの肯定なくしては生きられないはずだった。自らの拠って立つ思い出の在り処やその存在を頑なに否定し、自分を支える根拠のない人生を生きてゆくことはできない――はずだった。
 にも拘わらず、彼女は生きようとした。母の選んだ方法は、私のそれではなかった。時系列を遡及するのではなく、空間的な水平軸を共有することによって生きようとしたのだった。
 それこそは、彼女にとってのアンガージュマン、つまり「孤立からの逃走」だった。母は、母なりの方法で、空間的な生を生きようとした。過去に頼るのではなく、「いまここにある」を見据え、そこに自分の居場所を確定する方法――。それを母は、発見した。

 二十五 誤謬の過程で生じるもの

 ひとが生きるためには、「事実への了解」が必要だと思っていた……。
 若い私が「生きられる生」の在り処を巡って辿り着いた「事実としての思い出」を肯定する営みは、紛れもなく明日を生きる糧となり、それを軸として生きる縁(よすが)ともなったのは事実だった。そして、それなくして、本来の自己を生きることはできない――と、そう信じていた。
 それは、若い者にありがちな、思い込みによる真理の発見だった――とするひとがいるかもしれない。だが、それは「誤謬の過程で生じるもの」とまでは言い切れないものの、暫定的な真理にはなり得る――という明るい希望に満ちた、ひとつの発見であった。暫定的で短絡的であるとはいえ、途上におけるその真理は真理であるがゆえ、永遠のものとなる可能性を秘めた希望の光なのだ。
 現に、その当時、母は過去のしがらみを拒絶し,物理的にそこからは遠ざかったものの、他者との過去を同一空間において共有するという幻想、すなわち「思い込みの誤謬」を抱くことで、私のいう「生きられる生」を生きることができていた。
 この時代は、皆そうだったのだろう。大抵の大人たちは、このような形で群れていた。
 当時――というより、戦後しばらく、ひとびとは孤独だった。その孤独に耐えられない者は、この空間に身を寄せ、過去の記憶を共有し、互いに共鳴し合うことで、自分がひとりではないという誤謬を信じた。そう。途上の真、暫定的な真理に基づいて既存の仏教から離脱、もしくは脱落した宗教の一派に属することで、ひとびとは心の安寧を得ていたのだ。
 いつどこで誰に感化され、どのような方法で、そのようになったのかは知らない。
 いつの間にか、孤独な母は、そのようなひとたちの空間に組み込まれていた。月に一度、先祖の誰かの命日をお参りの日と称し、決まりきった読経の後、集まったひとたちが、それぞれの苦労話や宗教絡みの話に涙する「回り持ちの会」に傾倒するようになって行ったのだった。
 その方法は、しかし、父の気に入るものとはならなかった。むしろ二人の間の妨げとなった。
 ――というのも、どちらかといえば孤独を好み、静かにしていたいタイプの父は、大勢のひとと顔を合わせるのが苦手だった。信仰心――というより、神仏に縋る習慣そのものを持ち合わせない父には、女ばかりの集まりは苦手という次元を超えていた。
 父が丁稚時代に世話になり、それ以来、住んでいた物置のような離れの暗い四畳半――。
 そこに押しかけてきて交わされる女たちの会話は、無信心な父にとって、煩わしいばかりの雑音でしかなかったろう。ここでの生活は、私たちにとって、戦後そのものだった。その意味で、私たちの生活はひとより十年は遅れていた。家もなければ金もない。友達もいなければ兄弟もいない。それどころか、心配してくれる親すらもいない。そんな生活が、母の守るべき砦なのだった。
 しかし、砦たる本体は、女手ひとつで切り回すには、相当に厳しいものだった。
 ある日など、母がいつも行っている魚屋さんから、なかなか戻って来ないので、見に行ってみろと父に言われた。見に行ってみると、店の主人の前で、母が通い帳を手に泣き崩れているのを見た。ツケが溜まっていて、それを清算しないと、これ以上は貸せないといわれたのだろう。
 その姿は、いま想い出しても涙があふれてくるが、これほど屈辱的なものはなかった。
 幼い私ですらそうだったのだから、本来なら、家長がすべき弁解を妻にさせる夫の不甲斐なさを思い、母は泣き続けるしかなかったのだろう。どれほどの時間、そうしていたのかはわからない。私はずっと泣き続ける母の手をぎゅっと握りしめながら、傍らに立っているしかなかった……。
 さぁ、いつまでそうしていられても、こちらはどうしようもない、商売に差し支えるから、いい加減、帰ってくんないか――とそんな意味のことを言われ、店を後にしたのを覚えている。
 これがドラマや映画なら、幼い私が情けない父親を反面教師に奮励努力し、長じては一家を盛り返す立派な孝行息子に変貌するというストーリーが描けたのかもしない。だが、その後も遠回りな人生を歩み続けた私には、そのような才覚はなかった。

 二十六 魔法のノート

 貧乏暮らしのツケに関することで思い出す「面白・悲しい」逸話がそれぞれひとつずつある。
 ひとつは、きみの家の「お家事情」にまつわる面白いほうの話――。きみのお母さんが、その昔、苦笑を交えながら私に話してくれたエピソードのひとつだ。あるとき、八尾さんやきみのお母さんがいなくなってしまったら、どうやって生きて行くつもりか――という話になったという。
 きみたち兄弟が、なにかの拍子にお母さんたちの言葉に反抗し、いうことを聞かなくなった時のことだ――そうだ。その言葉を聞くや否や、きみたちは間髪入れず、それでもいいもん、帳面持ってお店屋さんに行けば、なんでもほしいものがもらえるからと答えた――というのだった……。
 通い帳は、きみたち兄弟にとって、まさに「魔法のノート」に匹敵したはずだ。この話を笑いながら教えてくれたきみのお母さんの「落とし処」は、その裏に金銭の授受が絡むという観念のない、呑気で無邪気な子どもだった――という点にあったろう。
 だが、我が家の場合は、そうではなかった。通い帳は、お金そのものであり、母が後で払いますから――と辛い頭を下げて作らせてもらった「借金の証書」だった。少なくとも、魚屋での、母のあのシーンを眼にしてさえいなければ、この私もそのような観念をもつことはなかっただろう。
 六十年以上経ったいまでも、あのときのシーンが鮮明に浮かび上がってくるのだが、私たち兄妹の間にもツケにまつわる悲しい出来事があった……。それが、ふたつめの悲しいほうの話だ。
 妹は、以前にも触れたが、私より四つ下の年齢だった。あれは、母方のお祖母ちゃんが亡くなった後の出来事だったから、K市に来てから二年ほど経ったときのこととなる。
 妹は、そのとき、五歳か六歳――。私が彼女を幼稚園に送り迎えをしていた頃のことだった。
 ふたりが遊んでいた公園で、彼女がおずおずと私にパンを差し出すので、どうしたのかと問うと、パン屋から持ってきた――というのだった。帳面にはそのことを書いてもらったのかと訊ねると、してもらっていない――という言葉の代わりなのだろう、首を横に小さく振って、下を向いた。
 その途端、私は怒りに駆られ、彼女を酷く叱責した。なぜそんなことをしたのか。どうしてそんなことをする。それがどういうことだか、わかっているのか。お母さんが毎日、どんだけ苦労して働いているか、わかっているのか――等々。
 彼女は大声を上げて泣き出し、何度、泣くな、もうわかったから、泣くな――と止めても泣き止まない。ばかりか、ますます大きく肩を揺らしてしゃくり上げ、耳を聾さんばかりに泣き叫ぶ……。
 まさに地獄――。彼女にとっては、兄の形相は地獄の鬼そのものに見えたに違いない。
 だが、彼女には、兄の真意は判っていた。それが自分に対する叱責ではなく、兄自身への叱咤だったということを……。当人である私には、当時の兄の気持ちがよくわかる。そういうことをする妹の気持ちが有難かったのだ。帳面に記帳してもらえば、お金が要る。そこで、お金を使わないで、いつもお腹を空かせている兄に大好物の餡パンを食べてもらいたいと思ったのだ。
 傍から見れば、兄妹らしき見窄らしい女の子と男の子が大声を出して泣きじゃくっている様子は、凄まじく異様なものだったろう。現に通りすがりのひとたちは、振り返り振り返りしながら、私たちを横目に見て遠ざかって行ったが、誰も何があったのか訊ねはしなかった……。
 ひとしきり泣いた後、私は妹を連れて店に行き、彼女が買ったというパンの名前を記入してもらうことにした。そのとき私たちは、パン屋のおじさんにはこっぴどく叱られると思って告白したのだったが、案に相違して、よく勇気を出して教えてくれたね、リュウくん、これはお駄賃だ、ふたりでお食べ――と大きなシュークリームをふたつも、小さな手に握らせてくれたのだった。
 その時のほろ苦く塩っぱい味は、忘れようとしても忘れられない。ふたりが泣きじゃくっていたあの公園に戻り、ふたり並んでブランコに腰を下ろし、パン屋のおじさんの優しい気遣いに感謝して美味しく頬張ったのはいうまでもない。

 二十七 陽の光が射しこむ部屋

 故郷との縁を断ち切り、子連れでやってきた妻――。それを迎え入れ、二人でやり直そうとした父だったが、ただでさえ病弱で、覇気のない父に三人を養う気力はなかった。母がすぐに働きに出、家計を支えたが、彼女とても大した給料は得られなかった。縫製工場での仕事も、いまでいうアルバイトの類いで金額の高も知れたものだったのだろう。この後にチョコレート工場に行っていたのを覚えているが、その後、その会社は破綻し、いまは別の会社になっている……。
 そうこうしているうちに、私は小学五年生になろうとしていた。その頃には、二人の間は完全に冷え切っていたはずだ。恐らく二人は、私たち兄妹が寝静まった頃を見計らい、話せば話すほど深まる複雑な家庭の事情について大人同士の「協議」をし合っていたに違いない。
 時が流れ、季節が巡り、終に私が中学に入学する半年ほど前、裁判所における協議離婚が正式に成立し、私たち兄妹は、母と一緒に別地区の借家の一隅に移り住むこととなった。
 またぞろ間借部屋ではあったが、以前のそれのように薄暗くはなく、歩けばギシギシと根太が軋む音がするものの、二階部屋でもあったので、陽の光が射しこむ部屋だった。それまで土竜のような生活をしていた私たちにとって、極楽のように明るい住まいとはなったのだった。
 しかし、だからといって、生活の質が良くなるわけでもなく、例の会員たちの定期的来訪は相変わらず続いていたし、私も父と同様、彼女たちのいう「信仰」にはなんの興味もなかったから、その会合の合間は退屈なこと、この上なかった。
 最初のうちこそ、皆と同じように手を合わせて正座し、お経をあげるふりだけはしていた。
 が、そのうち、それもしなくなった。小さい妹はとうに眠りに就いていたし、私も仰向けになり腕を両眼に被せ、寝たふりをすることに決めたのだった。でないと、電燈の光が眩しくて眠ることはできなかった。そうして無事、信者の真似ごとをするのだけはしなくて済むようになったのだが、耳の穴をまで塞ぐことはできなかった……。
 門前の小僧とはよくいったもので、お蔭さまで――というか、有難迷惑なことに――というか、そのお経は、こんな爺になったいまでも諳んずることができるほどだ。
 そしてまた時は過ぎ、私が中学生になってから半年ほども過ぎた頃、母が自転車を買ってあげるから、新聞配達をしてみないか――と打診してきたのだった。勿論、藁にも縋りたい一心の母が家計の一端を私に担わせるための策略であることは、頭の緩いこの私にも了解できていた。
 その種の洒落たアイデアを思い付くタイプの母親ではなかったから、おそらく会員の誰かからの入れ知恵だったろう。しかし、自転車に憧れていた私にとって、その提案は渡りに船だった。喜んで近くにあった地方紙の販売店に行き、配達員に採用されたのだった。
 後は、きみもご存知、たまたま同じクラスのあいうえお順で席が前と後だったきみと知り合い、意気投合したきみに同様な提案をし、二人で新聞配達をすることにしたのだった。

 二十八 精一杯の志し

 私は、急に訪ねてきた従弟に嫌な顔ひとつ見せず、親切に遇してくれた嘉一郎伯父さんに感謝の意を伝え、一宿一飯までさせてくれた礼を言った。
 男手の簡素なものではあったが、私より早く起きて朝食まで作り、食べさせてくれた嘉一郎伯父さんの心遣いに対して私は、まともな言葉が思い浮かばず、ただただ「ありがとうございました」と過去形の言葉を繰り返し、その手を固く握りしめるくらいしかできなかった。それでも、嘉一郎伯父さんは門口まで出てきてにこにこと手を振り、私のことを見送ってくれたのだった。
 母より何倍も老けた嘉一郎伯父さんと会えるのは、これで最後かもしれないと思った。実に親子とまでも言わないが、それと近いほどに二人の年齢は離れていたのだ。
 妻に先立たれ、子どもたちからも巣立たれ、ひとりぽっちで過ごしていた叔父さんには、私のような者でも訪ねてきて昔話をしてやれたのがよほど嬉しかったのだろう。別れの最後に、お母さんによろしくな――と言ったその顔が、心なしかこれまでの母との確執を赦し、郷里の兄として彼女の平安を願っている優しさに満ちているように思えた。
 おそらく嘉一郎伯父さんのほうでも、私と同じように感じていたのかもしれない。
 おらにはもう無理じゃが、あんたは若い、二十一世紀を見ることができる、そんな新世紀を目撃できるあんたが羨ましいさ――と嘉一郎伯父さんは言った。そして続けて、おらには、明日のことはようわからん、わからんが、いま自分ができるだけのことはしよう思っとる、この命ある限り、いまできることだけを考えて、そのことに没頭して後悔しないようにする、それが今日、あんたと会って、おらがする唯一、精一杯の志しなんじゃ――と。
 昨夜、就寝前に交わした叔父の言葉が、私の耳に蘇って来ていた。自転車を漕ぎながら心底、きてよかった――と思った。私に生を与えてくれた母にも、ちょっぴり感謝できたように思えた。
 生きてあり、命が繋がることがこんなにも優しい気持ちにさせてくれるということが、私には嬉しかった。嘉一郎伯父さんの「精一杯の志し」とは「後悔しない」ことだった。そのためには、いまできることをする――ということ。やはり、この旅行は「してよかった」旅行なのだ。
 私は思った。いまできることをしないで、後で後悔するようなことはしないでおこう――と。
 そう。その「いまできること」とは、あの先生に会うことだった。あの先生に会える絶好の機会に恵まれたのに、それをせずに帰るのは第二・第三の腫瘍を作ること以外の何ものでもなかった。
 残る一生を後悔して過ごさないために、私は勇を鼓して先生を探しに行くことにした。
 もしかして他府県の誰かと結婚して、もうここにはいないかもしれない。あるいは、なにかの病いに罹ってこの世に存在しないかもしれない。走りながら、色んな可能性を考えた。しかし、どんな結果になろうとも、後悔だけはすまい……。
 とりあえず、もう一度、あの学校に行ってみよう――。そうすれば、なんらかのヒントに出会えるかもしれない。
 私は、F町の小学校に向かい、心を急がせた。昨日と同様、今朝も空は綺麗に晴れていた。
 どこまでも平らに続く田植えの終わった青々とした田園風景……。
 ところどころに屋敷林のある吾妻家が一定間隔で点在し、見晴るかすほどに水平な農道を滑るように走っていると、あの懐かしい小学校がまた、私においでおいでをするように微笑みかけているのが見えた。

 二十九 大石ふみえ先生

 学校に着くと、そこに用務員らしき作業服を着た初老の男性が運動場の隅に腰を下ろし付近の雑草を一生懸命、引き抜いているのが見えた。私は自転車を傍らに置いて、彼の後ろから声をかけた。
 こんにちは。
 ああ、こんにちは。
 私、実は小さい頃、この小学校に通っていた者で、いまはH県のK市に住んでいるんですが……。
 おお、そうでしたか。それはそれは。
 ちらと、私の自転車に眼をやって――。
 そんな遠いところから、わざわざ自転車で……。
 はい。この小学校が懐かしくて、ずっと来たいと思っていたんですが、ようやく念願叶って来ることができました。
 K市からなら、ずうっと上り坂ばかりだから、きつかったでしょ。
 はい。二日近くかかりました。
 大変だったでしょう。
 はい、大変でした。早く来たくて、ほとんど寝ずに走ってきました。さすがに疲れました。
 そうでしょう、そうでしょう。
 ところで、ここにいらした先生のことをお訊ねしたいんですが、こちらにはお長いんですか。
 ええ、まあ。かれこれ八年ほどになります。いまから、ちょうど九年前に近くの繊維会社を定年退職しましてね。あんまり暇にしているのも却って健康に悪いからって、娘が口を利いてくれましてね。ここで使ってもらうことにしたんですよ。
 へぇ、そうなんですか。よかったですね。でも、それだと、十年以上前のことはご存知ないことになりますよね。
 まあ、ここでの経験はそうなりますが、私は生まれも育ちも、この土地ひと筋ですのでね。十年ひと昔とはいうものの、狭い田舎でもありますから、それ以上昔のことでも、大抵のことは知っております。実は娘も、ここの教員をやっておった関係でね。先生のことに関しても、ある程度のことは、お答えできることがあると思いますよ。
 そうなんですか。それはよかった――。では、お訊ねしますが、女の先生で、下の名前がふみかさんといったと思います。お聞きになったことはおありでしょうか。いまから、およそ十一年以上前のことになりますが……。
 ふみか――さんですね。で、その先生のなにをお知りになりたいと――。
 その先生の消息を知っておきたいんです、この旅行中に。この機会を逃すと、もう取り返しがつかないないような気がして……。
 よほど恋しいのですね。あなたの様子を見ていると、なんとなくわかりますよ。
 苗字のほうは、まったく憶い出せなくて。下の名前にしても、本当はよくわからないんです。なんとなく「ふみか先生」と呼んでいたような気だけはするのですが……。
 うーむ。「ふ」ですか。ふ、ふ、ふ――ね。ああ、そういえば、娘の後輩に下の名前が「ふ」で始まる若い女先生がおりました。
 本当ですか。それはいつ頃の……。
 そうですね。おっしゃる頃のことですと、当人であるどうかは別として、二度ほど我が家に来られた記憶があります。私がまだ繊維会社に現役でおるときでしたから、十三年ほど前のことになりますかな。一回目の訪問のときは、先生になられたばかりで、それはもう初々しくて、瞳のくりくりっとした、とても気さくなお嬢さんでしたよ。
 彼は当時を憶い出すように遠い眼になったが、すぐにもとの顔に戻って続けた……。
 あんときは、家内が作った田舎料理を美味しい美味しい、こんなに美味しい料理をいただいたのは生まれて初めて――なんていいながら、娘と一緒に舌鼓を打ってくれましてねぇ……。
 そうですか。活発な女性だったんですね。
 そうそう、やっと憶い出しました……。歳をとると、忘れっぽくていけません。ひとつことを憶い出すのに結構、時間がかかるんですよ。ごめんなさい。そう、あれは大石さんとこの三番目の娘さんで、東京の大学を出て、ここの教員になられた「大石ふみえ」さんですよ。あなたのおっしゃるその先生も「ふみえ」さんといわれるんじゃなかったですか。
 そういわれれば、そんな発音だったような気もしてきますが……。なにせ、子どもの頃のうろ覚えの記憶なので――。なんとも頼りない話で、すみません。
 いやいや。度忘れしていましたが、いま、はっきりと憶い出しましたよ。下の名は、歴史の「史」に絵画の「絵」と書くんです。その先生がO町の病院に盲腸の手術で入院されていて、車の運転ができない娘を会社の車に乗せてやって、お見舞いに行ったことがあります。そのとき、病室の名札がそうなっていたので憶えてますよ。それで、退院されてから、お祝いになにかご馳走を――ということで、娘がまたその先生を家に招待したんです、でも、その後……。
 彼は言いさしたまま、何かを急に飲み込むように口をつぐんでしまっていた……。
 だが、そんなことより、私はいましがた確信したことに心を支配され、有頂天になっていた。間違いない――。その「大石史絵」さんこそ、あの先生に違いない。そして私が、久しぶりに学校に姿を見せたあの先生に駆け寄り、抱きついたそのとき、私をたしなめた別の女先生が、このひとの娘さんだったのだ。そうに違いない……。
 ああ、あの先生についに会えるのだ――私は胸の動機が高まるのを感じた。

 三十 エネルギーを供給する旗印

 すみません。申し遅れました。私、三崎といいます。失礼ですが……。
 あ、こちらこそ。失礼しました。
 彼は胸ポケットを探るような動作をしかけてすぐとりやめ、申し訳なさそうに続けた。
 すいません。二宮と申します。つい癖で――。いまはこんな風なので、名刺はないんですよ。
 あ、いえ。私もそういうものは持ってないです。ところで、二宮さん。学校はいま、夏休み中ですよね。ですから、ひょっとして先生もお家にいらっしゃると思うんですが……。
 三崎さん――とおっしゃいましたね。残念ながら、あの先生はもう教師をしておられません。
 彼の表情は先ほどまでとは違い、どことなく神経質な緊張感を漂わせていたのだが、能天気でひとつことを考えると、それにのめりこむ私は、彼の心境に寄り添えなくなっていたのだった。
 え、それは、ご結婚かなにかで辞められたとか、そういうことでしょうか。それとも、事故かなにかで、もう亡くなられているとか……。
 大石家は、ここを少し行った先の村にあるので、お教えするのは吝かではないのですが……。
 どういうことでしょう――。
 さきほども言いましたが、ここは狭い田舎でして。箸が転げたことでもすぐに伝わります。ですから、どの家庭のことも私は大抵、知っています。しかし、申し訳ないけれど、あの先生のことはこれ以上、私の口からお話しすることはできないです。したくても、あなたの前ではできないです。
 どうして――です。私がなにか……。
 知っていることはなんでも教えると言っていたのに、妙な言い分で失礼かとは思いますが、堪忍してください。実際のところは、大石さんに直接、お聞きになられたほうがいいかもしれません。
 さすがに能天気な私も、ようやく不穏になった彼の雰囲気を感じて応じた――。
 そうですか。初対面の方なのに立ち入ったことをお聞きし、こちらこそ失礼しました。ありがとうございます。それでは、大石さんのお宅の所在だけでも――ということで……。
 それは、喜んでお教えしましょう。しかし、老婆心でいうんですが、あなたの会いたがっておられる女先生が史絵先生だとしたら、お会いにならないほうがいいと思いますよ。
 なぜです。
 きっと、がっかりされると思うからです。
 なぜ、がっかりするのですか。
 行けばわかっていただけると思いますが、もしそうだとわかっても、自分で自分を苦しめるようなことだけはなさらないでください。今後のあなたの生きざまに係わってきますから……。
 申し訳ありません。おっしゃることの意味が、さっぱり呑み込めないのですが……。
 私は決して、変な宗教をあなたに押しつけようとしているわけではありません。その点は、ご安心ください。ですが、戦時中、あなたのような青年を幾人も見てきた私にはわかるんですよ。
 私の、なにがわかる――のでしょうか。
 あなたからは、特別なオーラが出ています。その特別なオーラは、あなたが今後、誰かと一緒に生きていくためのエネルギーを供給する旗印です。ですから、その旗印を失わないためにも、このままK市にお帰りになったほうがいいと思います。
 親切ごかしなその言葉とは裏腹に、私はある意味、この男性が薄気味悪く感じられてしまい、もうこれ以上、このひとの話は聞く必要はないのではないか――と思ったのだった。
 それから暫くの間、私は彼の語る言葉に心ここに在らずの心境で耳を傾け続け……。そしてのち、彼に大石家の所在を教えてくれた礼を述べ、暇を告げると、彼から教わった方角に向かって自転車を進ませた。後は道なりに行けば、S村の村落に辿り着くということだった。

 三十一 指先が奏でる音楽

 森と見紛うほど杉木立の立ち並ぶ屋敷林を背景に、堂々とした吾妻家が東の空に向かって建つ大石家の門前に辿り着くと、奥のほうからピアノの奏でられる音が聴こえてきた。
 私にも聞き覚えのある曲だった――。そのメロディは優しく甘く、郷愁を誘うような温かい指で奏でられている気がした。たぶん、史絵先生が弾いているのだろう。きっと、そのはずだ。
 私は思った。やっと会える。あの先生に会える――。
 曲は優しく甘く軽やかに、ときに悲しく、遠い思い出に浸るように奏でられ、私の心を諄々と潤して行き、その題名が「埴生の宿」であることを教えてくれた。このとき、私は十九歳。青年一歩手前の、無知な少年だった。曲名を知ってはいても、その言葉の意味までは知らなかった。
 いまなら、わかる。あのときの先生の気持ちが、そしてその指の感触が……。先生は、その指の腹の感覚ひとつひとつで、あの小学校の様子に触れていたのだ。初老の二宮さんが、その皺だらけの手で引き抜いていた雑草のある、小さくて可愛い運動場……。あの草生した光景を、そして、その上を走りまわる子どもたちの光景を、その柔らかな指先でなぞっていたのだ。
 しかし、まだ、頭でっかちの大人になっていなかった私は、無知なままに、その曲のもつ力と先生の指先が奏でる音楽に魅せられ、恍惚となっていた……。理屈ではなく、純粋に、そのメロディのもつ美しさと優しさに心を奪われてしまっていたのだ。
 どちらさまでしょうか――。
 背後から、女性の、それも年老いた女性の声が耳に届いた。我に返った私が振り向くと、そこには、美しい笑みをたたえた老婦人が立っていた。
 なにか当方にご用事でも……。私、この家の者ですが――。
 あ、すみません。悪気はないんです。立ち聞きしようと思ったわけではないんです。ただ、あまりにも美しくお弾きになっているので、つい、聞き惚れてしまいまして……。
 そうでしたか――。ありがとうございます。あれは、うちの娘が弾いているんですよ。昔、隣町の小学校で教員をやってたことがありましてね。
 はい……。
 それで、ああして、昔を懐かしんでるんですよ。
 なるほど。学校の先生をしてらっしゃったんですね。道理で、お上手なはずです。
 でも……。本人としては、悲しいと思いますよ。
 え。なぜ、ですか――。
 あら、まぁ。すみません。私ったら……。
 老婦人は、急に我に返ったように狼狽し、打ち消すように手を振って言葉を続けた。
 見ず知らずのお方相手だというのに、こんなことまで口走っちゃって――。お気になさらないでくださいね。単なる老人の繰り言ですから……。
 お嬢さんが、どうかされたんですか――。
 私は、素知らぬ風を装うのが辛くなって訊ねた。
 そういえば、さきほどもお訊ねしたんですが――。
 婦人は、はっと思い直したように口を押さえた後、おずおずと質問を繰り出した。
 いまさら、こんなことを訊ねるのは失礼なんですが、一体、どちらさまなんでしょう。見ればずいぶん、お若いようですが、その昔、娘の生徒さんでいらしたとか……。
 ええ。そうなんです。実は私、三崎といいまして、先生の教え子だったことがあるんです。
 まぁ、そうなんですか。そうとも知らずに、ご無礼なことを……。
 いえいえ、とんでもありません。
 三崎さんといえば、あの小学校の近くにある四つ辻の角の――。
 そうです。当時、うちは、その四つ辻で「みさき履物」という履物屋をやっていました。でも、J町に続く幹線道路を拡幅することが決まって、一家で立ち退くことになってしまったんです。私としては、この町と別れるのは嫌だったんですが、家の都合が許さなくて……。
 ええ、ええ、そうでしたね。覚えていますよ。あの工事のお陰で、この辺りは、ものすごく交通の便がよくなりましたもの……。でも、そのいっぽうで、あなたのように悲しい別れの原因にもなったんですよね。で、いまは、どちらにお住まいですの。
 いまは、K市に住んでいます。でも、ここが恋しくて恋しくて、毎日、ここのことばかり考えて過ごしていました。言葉が判らず、友達もいなくて、どうしても、K市の生活や周囲を山に囲まれた風景に馴染めなかったんです。
 K市といえば、三方を山に囲まれたコンパクトで歴史のある町ですわね。でも、ここと較べればハイカラな都市だから、生活習慣の面でもずいぶんとご苦労なさったことでしょう。ましてそれが幼いときでしたら、なおさらですよね。お察しします。うちの娘の場合は、大学が東京でしたから、言葉や交通の面でずいぶんと苦労した――と言ってました。

 三十二 あり得べき悲劇の物語

 ところで、先生はお元気なんでしょうか。さきほど鳴っていたピアノの音は、もう……。
 ええ。ときどき、ああして中断するんです。機嫌のいいときは、ずっとシヨパンなんかを弾き続けるんですが、ちょっと心が沈むと、さっきのように「埴生の宿」のような悲しい曲ばかりを弾き始めるんです。そうやって弾いているうちに、その曲想がある思い出に繋がると、そこで中断してしまうようなんです。おそらく、その当時を思い返しているんでしょうね。
 もう、この言葉を聞く前から、私の心は騒めきを収めきれなくなっていた――。なにかある。この騒めきは「不吉」なものに違いない。私は、恐る恐る訊いてみた。
 先生に、なにかあったんでしょうか。お差し支えなければ、お聞かせ願えませんか。
 それが、その、本当にお恥ずかしいかぎりで……。ここではなんですので、もしよろしかったら、お上りになりませんか。お茶でもお淹れして、話はそれからということに致しましょう。
 いいんでしょうか。こんな急にやってきて勝手なお願いで――。
 いいですとも。折角きて下すったんですから、これもなにかの縁ですわ。
 ありがとうございます……。
 中央に囲炉裏端のある広間に私を案内し、そこに腰を下ろしてからの先生のお母さんの問わず語りは、私を大いに驚かせ、苦しめ、悲しませるものだった。話が進むたびに私は、深い溜息を吐き、そのときの悔しさが、いまだに彼女の胸を責め苛んでいるように思えるのだった。
 お母さんによると、先生は、ある男性に恋をして裏切られ、服毒自殺を図った……。
 だが、死にきれず、一命を取り止めはしたものの、視力を半分ほど奪われ、今日のようにピアノを弾いては日を過ごすようになったというのだ。そして、そのショックでか、いまでは精神も患い、ひとの顔もあまり認識できなくなっているというのだった。
 これを聞いて、世間ではよくある話さ――と一笑に付すひとがいるかもしれない。
 だが、そんなご感想は糞っ食らえだ――。これはテレビ用に作られた「お涙頂戴」番組などではない。現実に起こった話なのだ。私にとっては、他ならぬ思い人の先生が現実に味わわされた屈辱の出来事であり、私のなかで最も近しい存在の、あり得べき悲劇の物語なのだ。そのような悲劇の一端を聞かされて、黙ってそのまま聞き流せるほど、私は冷徹な人間にはなれなかった。
 どんな事情があるにせよ、私には、その男性が許せなかった……。
 聞けば、その男性は、史絵先生が通っていた東京の大学の大先輩に当たり、この家にも一度だけ顔を出したことがある。背も高く痩身で、理知的な風貌の持ち主だった。育ちのよさが立ち居振る舞いのひとつひとつに表れ、人当たりがよく、とても好感がもてる紳士だった。
 先生のお母さんやお父さんも一目見て気に入り、二人の婚約に賛成した。
 その頃はまだセミプロのヴァイオリニストだったので、結婚はどこかのオーケストラに正式に所属し、給料をもらえるようになってから盛大に行う――ということで、婚約発表だけにしたのだが、現実には、なかなかそうはならなかった。
 それから二年がたち、三年が過ぎた……。いまでいう「遠距離恋愛」だった。
 それでも、先生は待った。しかし、状況はあまり変わらなかった。ちょうどそんな折、度重なる逢瀬のキャンセルと、そこからくるストレスが高じてか、先生が盲腸炎になった。
 私が学校生活に馴染み始め、学校というところが、先生という存在があったお蔭で楽しく思えるようになっていたときのことだ。思えばあのとき、先生は待っていたのだ。婚約者が正式に結婚を申し込んでくれることを――。白馬の騎士ならぬ大オーケストラのコンサート・マスターとなって、自分を迎えにきてくれることを――。
 そしてたぶん、私を抱きしめてくれたときも、寂しかったのだ。自分を見つけ、小さな足取りで駆け寄ってきてくれる私が、愛おしくて悲しかったのだ。私を抱きしめるその向こうには「彼」がおり、眼の前には、母親に抱かれることなく一人遊びをする「坊や」がいたのだ。

 三十三 二人に宛てた遺書

 二人の逢瀬は、K市でのことが多かったという。K市は、東京との中間点ではないものの、お互いの利便を考えれば、理想的な空間だったのだろう。T市からK市への距離は、東京とのそれよりも短くはあったが、汽車での時間的往還を考慮に入れれば、ほぼ同じほどだったのだ。
 二人は当初、二ケ月に一度、逢瀬を重ねた。そして、逢えない間は、手紙のやり取りで無聊を補った。最低、ひと月に一度は手紙を書いた。T市での季節の移り変わりやその度に感じた想い、いまの心境、二人で訪れたK市の寺院や観光地での憶い出など、種々の事柄について淡々と綴った……。
 しかし、いくら時間的にほぼ同じだといっても、経済的なそれは同等ではなかった。彼のほうにより大きな負担がのしかかってきたのだ。ただでさえ、収入の少ない彼には、東京からの交通費や滞在費は馬鹿にならなかったはずだ。その所為があってかどうか、半年がたち、一年が過ぎ、次第次第に間遠になって行った。返事の手紙にしても、三度に一度ほどのものになって行った。
 そして、ついに、彼はやって来なくなった……。
 最後の手紙には、西ドイツのボンに行くこと、ドイツの音楽大学は授業料が無料であること、そこでの生活費は、恩師の音大教授に貸与してもらうこと、そして、その教授のお嬢さんを好きになってしまったこと、勝手な自分を赦してほしいこと――などなどが、切々と綴られていたのだった。
 ドイツは、二度も世界大戦を引き起こした。ボンは、そんなドイツがまた変な気を起こさないかと警戒した連合軍が戦略的に制定した首都だ。ミュンヘンやフランクフルトといった大都市とは較べものにならないほど小さな市だったが、ライン川より西にあって独仏国境に最も近い町なので、英米仏の軍隊がすぐにも占領できるようにした、いわば暫定的「首都」なのだった。
 だが、なによりも、ドイツ音楽に傾倒し、性格的にもストイックで思いつめたら一途に進むタイプの彼にとって、ドイツは音楽家として理想の環境を有する国だったのに違いない。
 ――とは、お母さんの弁の引き写しだが、私には聞かされて間なしの悲話だったので、逆にもっと一途であったろう先生の口惜しさのほうが先に立った。おそらく、ドイツへの憧れから、教授の娘さんを選んだのだろうが、私にはやはり許せない気がした。
 性格的に磊落で、あまり物事に拘泥しないタイプであろうお母さんにとっては、すでに寛解した腫瘍の一種だったかもしれないが、私にとってはまた新たな腫瘍を宿した思いだった。
 で、その男性は、その後、どうなったのですか。
 亡くなりました。
 え、亡くなったんですか。それは、またどうして……。
 自殺です。
 自殺……。
 そう。自殺です。
 なぜ。
 お辛かったんだと思います。
 辛い――とは……。
 何事も一途に思われるあの方には、二人を同時に愛することは辛かったんだと思います。
 というと、先生を捨てたのではなかったと……。
 そうですね。捨てたのは捨てたのでしょうけど、捨てきれなかったのでしょう。
 私は二の句が継げず、なんの言葉も思い浮かばなかった……。
 三月十日の早朝、ライン川に身を投げての入水自殺でした。橋の上には揃えられた男物の靴があり、その下に風で飛ばされないようにしたのでしょう、二人に宛てた遺書が二通、挟むように置いてあったといいます。

 三十四 報酬としての自死

 会って行かれますか。
 暇を告げた私に、お母さんは広間の奥のほうに手を差し伸べて訊ねた。
 いいえ。申し訳ありません……。
 そう答えるだけで、精一杯だった。一体、こんな私にどうして、会わせてもらう資格があるというのだろう。会うことは、あの人を傷つけるだけだ。そのように惨めな姿をいくら教え子だからといって見せたくはないはずだ。ましてや大昔の教え子。見ようにも、その顔さえわからないのだ。そんな惨めなことがあるものか――。
 私は泣き叫びたいのを押し殺し、無言のまま深く頭を下げた――のまでは覚えている。
 それから、どこをどう走ったのかは憶えていなかった。おそらく農道を大声を上げて走り、涙の散るままに怒り狂っていたのだと思う。
 私は、このT市にいるときから「群れる」のが好きではなかった。というより、大勢のひとの前に出るのが苦手だった。その意味では、父親の小心で気の弱い遺伝子を受け継いでいる。――といえたかもしれない。複数の人間を相手にするということがどうしてもできず、いつも独りで過ごしていた。
 おそらく、先生もそのひとりだったのだろう――。
 お母さんによると、いつもひとりで人形遊びをしている温和しい子だった。父親のほうもまた温和しく、宴会があってもあまり楽しまず、独り隅のほうで手酌をしているタイプの男性だったという。その意味で、先生もまた父親似だったといえるのかも知れない……。
 先生にとって、生徒や児童は、相対峙する対象であって、他の児童や生徒と同一視するものではなかった。ひとりひとりが、それぞれの個性をもった独自の存在で、心を尽くして手を差し伸べなければならない大切なひとだった。だから、おそらく彼女が愛した男性も、そうした思い人のひとりだったに違いない……。
 だからこそ、二人を同時に愛してしまった男性は、そんな彼女の心情を知っていたがゆえに自らの命を絶たざるを得なかった……。自らの命を絶つことによって、結果的に二人の女性を不幸にしてしまった男性に対して、先生の心は揺れに揺れたはずだ。
 二人の連絡が徐々に間遠になって行ったとき、少しでも早くに気がついて、彼を許していればこんなことにはならなかった。すべては、自分が悪いのだ。自分が、少しでも早く身を引いてあげさえすれば、教授のお嬢さんも彼を喪うことはなかった――と。
 二人の女性の間で、身を裂かれる思いだったろう男性の一途な思いとは畢竟、双方に同じ想いを寄せつつ、自らを永遠に葬ることであったろう。それでこそ、何れかを拾い、いずれかを捨てるという過酷で残酷な二者択一を自分に与えないで済む唯一の方法となり得たのだ。結果、彼は「自死」を選んだ。一種、自堕落の報酬として、自らに罰を与えたのだ。
 私は、この男性もまた、先生と同様、優しかったのだと思った。優しかったがゆえ、いずれをも選び取ることができなかった。遺書には、自らを卑下しての「自堕落な自分を赦せ」という意味の文言があったらしいが、この自死はその報いというより、まさに報酬であった。
 そのような選択肢が与えられたということ自体、すでに彼が恵まれた境遇にあったということの証であり、一種、祝福されるべき死の在りようであった。もし彼が、いずれかを選んでいたとしたら、そこにある当為の報いは自身への容赦ない叱責であり、ことあるごとに頭をもたげる裏切りへの後悔だけだったろう。
 先生のお母さんがいうように、彼が真に「思いつめたら一途に進むタイプ」の人間だったとすれば、なおさらにその日々は地獄だったに違いない。彼は、死して真の報酬を得た。これで、誰にも非難されることなく、愛された記憶を持ったまま、あの世での生を生きることができるようになったのだから……。

 三十五 無駄というものの持つ価値

 優しさは、否、優柔不断は自堕落である分だけ、命取りになるのだ――。
 私は、ようやく心が安静を取り戻し、いつもどおりの自分が蘇るのを感じた。誰にとて、間違いはある。そして、いつ起こっても不思議ではない。いわば、逆の意味で、あり得べき真実なのだ。そう思えば、ひとを裁く資格すらない私にも、その男性が許せるように思えた。
 誰にでもあり得る事態であるがゆえ、それが実現すれば真実となり得る。
 あり得ない事態なのであれば、それは「奇跡」だ。奇跡などというものは、滅多に起こらない。滅多に起こらないことのみが「奇跡」と呼ぶに値する。だからこそ、先生とその男性の奇跡は起こらなかった。教授のお嬢さんとの奇跡も起こらなかった。ましてや、女性二人が手を取り合って、ひとりの男性を愛するという奇跡も起こらなかった……。
 繰り返し繰り返し、同じことを行うのが人間であることの証左となるのなら、人間の生はテッサリア王アイオロスの子シシフォスのように「果てしない徒労」をなすことで、何度も何度も同じことを繰り返しては涙する、一等自堕落な存在なのかもしれない……。
 いつの世も、ひとはひとを愛し、ひとを愛するがゆえに奈落へ墜ちていく。
 愛し得ると思ったその瞬間から、それを喪う奈落に向かってひとは墜ちていく。永遠にひとはひとを愛しては、それを失うことを繰り返す。生者との別れ、死者との別れ、いずれの場合であっても、ひとはそこから一歩も後退することはできないのだ。
 後戻りはできない。ひとは愛し、前に進むことでしかできない。
 愛することで、重い荷を背負って山を登ろうとするのだ。それが徒労になるとわかっていても、無駄となると知っていても、それをすることに意義を見出すのだ。バラの花は枯れる。誰もそのことを疑いはしない。しかし、ひとはそれをひとに贈る。枯れるとわかっていて、ひとはそれを喜んで受けとる。これほどの徒労があるだろうか。これほど無駄な行為があるだろうか。
 ひとにものを贈るという行為、ひとからものをもらうという行為、そうした一連の行為をすることそのものが人間にとっての至福なのだ。行為はものではない。事実だ。この事実こそが徒労であり、繰り返しの無駄というものの持つ価値なのだ。
 そう悟ったとき、私には先生の心がわかった。先生は、男性から死をプレゼントされ、その死をプレゼントされたがゆえに嬉しいと同時に悲しかったのだ。
 愛は、成就して初めて意味がある――というひとがいるかもしれない。しかし、成就せずに全うできる愛は存在するのだ。先生と男性との間に実った恋は、愛に発展したが、成就しなかった。成就こそしなかったが、二人がそれぞれの愛を全うしたという事実だけは残った。
 先生は、男性の死の意味を知り、狂うことによって――。そして、男性は死を選び、二人に変わらぬ愛を告げる行為をなすことによって――。
 私は、自転車を降り、いまきた道の彼方にある先生の家に向かってお辞儀をした。
 さようなら、先生――。ありがとうございました。あなたを知って、私は愛のなんたるかを、ほんの少しだけ知ることができました。この愛の形を少しでも役立てて、これからの人生を歩んで行きたいと思います。さようなら、先生。本当にありがとうございました……。
 たった五日間の、短い旅ではあったが、私にとって、この旅は無駄ではなかった。徒労の旅ではなかった。十九歳にして、初めてで最後の一人旅だった。それが静かに終わろうとしていた。
 明日は、七月七日。私の二十回目の誕生日だった。織姫と彦星のように相見えることはできなかったが、私は満足だった。私は、力強くペダルを踏んだ。
 さぁ、帰ろう――。きみといつの日か、登りたいと願っていた、あの小高い山の頂きから一望できるK市に帰ろう。私の第二の故里となった「K市」に帰るんだ――。

 三十六 未知数X

 あの日、二十歳になったあの日、私は新たな人生が拓ける気がしていた。
 しかし、日常の日々は、それ以前と同様、なんの変哲もなく過ぎていた。本の配達のない日は、得意先に新刊や百科事典、図鑑、美術全集などの勧誘に回った。なかには、レコード付きの音楽全集もあった。その場合は、プレイヤーも一緒に持って行って聴いてもらうのだ。
 雨の日は、書庫の整理をしたり、棚卸しを兼ねて在庫のチェックをしたりした。売れているのに在庫がなかったり、常備で欠品しているもの、注文のあった急ぎの本など、スリップの束を片手に取次へ直接、仕入れに走った。取次から送られてくるのを待っていては、間に合わないからだ。
 取次の書棚を経巡り、スリップにあるものを物色する。ついでに、他の本の背表紙にも気を配りながら歩く……。なかには、初めて見る本でも、パラパラっと最初の部分と最後の部分を斜め読みするだけで、これは売れると思えるものに出食わすことがある。
 そういう本は、必ず持ち帰ることにしていた。そして思惑どおりに売れてくれれば、思わず拳を握り締め、やった――と心のなかで快哉を叫んだものだ。
 確かにあの日からは、なんの変哲もなく、これといった事件も起こってはいなかった。
 だが、心境に関してはどうかと問われると、大いなる変化があった。それまでは、すでに触れたように過去に固執し、それに引きずられての沈鬱な日々を送っていたのだが、K市に戻ってからは、まるで薄皮が剥がれたようにすっきりとした気分になっていた。
 三月も経つと、私のなかに巣食っていた腫瘍はすでになく、いつまでも中途半端にぶら下がっていた臍の緒のようなものは、視界からすっかり消えていた。あたかも白内障の手術をした後の眼のように霞がかった想いはなくなり、綺麗さっぱり、過去からの離脱が果たせていたのだった。
 そんなある日の夕方、社長が寮として私に提供してくれていた部屋にやってきて言った――。
 きみは二十歳になった。それ自体はおめでたいことだが、もうそろそろ独り立ちの準備をしなくてはならない。まずは住居を定めることだが、そのためには軍資金が必要だ。家に仕送りをしているようだが、お母さんも働いておられることだから、もうその必要はないだろう。これからは、もらった給料は自分のために貯金するようにしなさい。
 いまから思えば、私は社長にとって、まだほんの子どものようなものだったに違いない。
 親子以上に年齢の離れた私に、一人前の生活をさせようと思ったのだろう。
 ひとつの夢として、社長は私に、その暁には店を譲る――という約束をした。それも、わざわざ私の母と妹の住む、あの六畳一間の部屋の前にきて、そう宣言してくれたのだ。
 いまでも憶い出すが、あのときの有難さは、どんな言葉にも代え難かった。よくぞ我々のような底辺の者に、そのような温かい、涙の出るような言葉をかけてくださった。――と、いまなら身震いするほどに感謝して、喜んでその言葉を受け入れたことだろう。
 だが、愚かにも傲慢なだけが取り柄の私の無知な母は、それを有難がらなかった。私もまた無知なゆえ、というより、身のほど知らずだったがゆえ、それを嬉しく思わなかった。そんなものはなくとも生きて行ける――と不遜な思いを抱いて拒否したのだった。
 この身のほど知らずの傲慢さ、根拠のまったくない自信が、その後の私の人生を狂わせて行く原動力ともなるのだが、この時点では気づいてはいなかった。世間知らずで傲慢で、それでいて小心な男だった。
 なぜ、素直にひとの親切が受け容れられないのか――と問われたとしても、意固地なまま、それを固辞したことだろう。それほどに愚かな一家だったのだ。
 この状況になる前、すなわちこの話が出る前の頃に話を戻すと、私は社長からいわれた貯金をしなさい――との言葉に、このときだけは調子よく「素直に」従い、家への仕送りを止めたのだった。
 そうして一回目の給料日が過ぎて、十日ほど経ったとき、妹がやってきた――。
 私から給料をもらってこい――と母に言いつけられたのだった。そのことが切っ掛けで、店舗譲渡の話がでたのだが、母は目先の生活費が欲しかった。理想の話よりも、遠い先の約束事よりも、目の前にある食い扶持のほうが大事だった。
 そんなわけで、今までの半分を貯金に回すことにし、残り半分を仕送り分としたのだったが、結果的にそれが功を奏し、のちに入学する大学の資金にもなったのだった。
 社長が、私に大学に行くことを勧めたその理由のひとつに、私が将来に対してあまりにも無頓着かつ無関心だったことがあるだろう――。
 無教養にして無知蒙昧な母のもとに生まれ、親戚の子どもも友達もいなかった私に、人生の何たるかを教えてくれるひとはいなかった。もしいるとすれば、書店のオーナーそのひと以外にはいなかったのだ。
 店舗譲渡拒否事件から二年ほどが過ぎたある日、社長が行きつけの鮨屋に私を連れて行き、好きなものを食べさせながら、つぎのようなことを話してくれた。
 私は、これまで色んな従業員を見てきた。ひとには、色んなタイプがある。頭のいい子は、すぐに仕事を覚える。その代わり、覚えたらすぐに辞めていく。いっぽう、頭は悪くて物覚えもよくないが、勤勉な子は、長い間かかって仕事を自分のものにしていく……。
 きみがそのどちらであるかはわからない。私から見れば、きみは未知数Xだ。この先、どのような人生を歩むかわからない。わからないが、きみには、なにかあると感じさせるものがある。それを探るひとつの切っ掛けとして、私は、きみは大学に行ったほうがいいと思う。
 もしそれで、自分の行く道がわかればよし。わからなければ、戻りたいと言ってくれればいい。それまでは、あの店は、いつもきみのために空けておこう……。
 血気盛んでこそないが、若さと莫迦さだけが取り柄だったこの頃、私は自惚れだけが先に立ち、自分がこんなにも無能だとは知らなかった。それから暫くして私は、ご存知、四当五落の無謀な大学受験戦線での闘いに挑むことになるのだ。

 三十七 自惚れの万国旗

 自分が無能であることを知るには、自惚れが強い分だけ余計に時間を要した。
 私の場合は、その出発点が遅かったために、ひとよりずっと遅くなった。本来なら、それがゆえ、ハンデとしてのそれをバネにして飛躍せねばならなかったのだが、それをしなかった。
 ――というより、できなかった。なぜなら、そういう思いすら抱かなかったからだ。無知を隠れ蓑にする気はないが、気の置けない友人知人の類いを持たなかった私は、情報の入手先がなかった。これもひとに言わせれば、自業自得であるが、なるようにしかならなかった感がある。
 手前味噌をいえば、顰蹙を買うのは眼に見えている――。
 だが、私は自分のことを自分ごととして捉えず終始、他人のように思っていた。他人のように思うことで、自分を胡麻化していた。世間でよくいう「なんとかなる」と思っていたのではなく、文字どおり「なるようにしかならない」と、最初から諦めていたのだった。
 だから、その後の人生も惰性に近かったし、過去からはなんとか離脱できたものの、自分でもなんとなく面白くない人生だな……とは感じていた。そんな折の社長の言葉だったから、ひとつやってみてもいいかな。――と、浅はかな考えに辿り着いたのだった。
 しかし、現実はそう甘くはなかった。井の中の蛙が外へ連れ出されたとき、その外界の広さに慄くように、私もまた独り放り出された現実空間に戦慄を覚えた……。まずは自活して行くこと。親の庇護なしに生きて行くこと。私の場合は、社長の庇護なしに生きて行くことは、まさに恐怖以外の何物でもなかった。一歩踏み出すごとに、恐怖で、向う脛の反対側にある筋肉が震えた。
 その恐怖を隠すため、私は有能を装った。自分を賢いと見せかけるため、いまでいう「上から目線」でひとと接する方法を身に着けた。本来は負け惜しみから出た空威張りに過ぎなかったが、それを見抜く人間との接触は極力、避けるようにした。醜く汚い、おぞましい人間が誕生したのだった。
 誰に裏切られたのでもない。誰に謗られたのでもない。それどころか、この社長のように心から親切にしてもらったし、人生航路上の重要な提言もしてもらったほど厚遇された人間だった。
 ――にも拘わらず、私はその期待を裏切ったばかりか、ひとの親切心を当てにして生きる自堕落な人間になってしまった。このように折角、いい意味での運命が自分の扉を叩いてくれたというのに、自らそれを享受する機会はおろか、権利までも放擲してしまったのだ。
 世間知らずがゆえに生意気な、有能感に満ちた若者にありがちな間違い――。それを、この私も犯してしまったのだ。ごたぶんに漏れず、無能な人間が陥りそうなことだった。
 二十四歳にして入学した学校での生活も、他の学生より年長なだけに、それなりな言葉遣いも許されたからだろう。私はますますいい気な人間になって行った。いきおい孤独感は増し、T市で味わったあの清新な気持ちは消え失せ、独り善がりな自惚れだけが育って行ったのだった。
 複数の人間と同時に相対することができぬ小心な性格から、苦し紛れに採ったニヒルな自己像は、自分でも気づかぬほどさまになり、恰好がついて行ったのもこの時期だった……。
 だが、断っておくが、それは私が内心に感じている「自分自身に対する嫌悪感」からきた印象に過ぎず、外からはそうは見えなかったのだろう。その証拠に、なにくれとなく、私の周囲にひとは寄って来たし、英語が多少できる所為もあって、後輩ならぬ同輩の学生たち四~五人を相手に模範訳を披露することも多かった。それがいつの間にか好評を博し、同じゼミ仲間で恒例行事化したほどだった。
 とくに卒業間際になると、私は一種の「お山の大将」となり、自分より頭の緩い後輩、いや、同級生を相手に一泊旅行を企画したり、ちょっとしたイベントを手掛けたりするようになっていた。
 いわば、生まれて初めて、私は大勢の前で自分の思うことを主張する楽しさを覚えたのだった。それからというもの、私は、切っ掛けがあれば積極的に、どんなものにも顔を突っ込んで行った。これまた、お山の大将にありがちな「自惚れの万国旗」を鏤めての凱旋だった。
 もともと好きだったこともあって、日本史研究会に入ったときもそうだったし、ESSに入ったときもそうだった。だが、いわゆる学生運動の類いには興味はなかった。学生運動は、ひと頃より下火になっていたとはいえ、それなりに喧しかった。ひとしなみにマルクスの『共産党宣言』や本屋時代に買い集めたマルエン全集のなかの一部を読み返してみたりして、多少の感動を覚えはしたが、実際にミンセイになろうとは思わなかった。
 他の学生たちは、その組織を「民コロ」などと呼んで莫迦にしていた。その影響もあって、私もそういう運動とは性が合わなかった。それで、左翼思想の持ち主が多かった唯物史観一辺倒の日本史研究会も辞め、ESSだけにした。私にとって一種のアウフヘーベンだった。

 三十八 世界の終わりと愛の讃歌

 高校の社会科の先生は、いっぷう変わっていて、あまり好きではなかった。使う教科書にしても家永三郎という学者の書いた『新日本史』をテキストとした。しかも、古代史は定説がなく、きみたち現代人の生活にはなんの役にも立たないからと、近代以降を授業に取り上げたのだった。
 当時、この本の著者は教科書裁判というのを起こしていて、その先生もシンパだったのかもしれないが、しきりに左翼的な発言をしていたし、日本軍を悪しざまに評するのが気に入らなかった。かといって、旧日本軍が全面的に正しかったとも思わないが、なによりも大人になってからわかったのは、その著者が戦中は百パーセント、軍部に対して翼賛的だったということだった。
 その所為もあったのだろう。大学に入ってからはますます、その手の発言や議論には耳を貸さなくなっていた。ちょうどその頃、左翼運動も末期症状を呈していたときで、浅間山荘での銃撃戦はテレビ中継されていて、その後十日間ほど、日本中がそれでもちきりだった。
 その後の凄惨なリンチ殺人の様子は、衆目の一致するとおり――。あちこちから掘り出された女性や男性の全裸死体についたおどろおどろしい傷跡の数々、人間のものとは思えぬほど潰されてしまった顔面の様子は、いま憶い出しても身の毛がよだつほどだ。
 世相はもの悲しく、どこか寂しい時代だった。第二外国語を何にしようかと迷った挙句、フランス語にしたお陰で、いまでもすぐに口遊めるデュエット曲「誰もいない海」の歌手名がユー・アンド・ミーを意味するフランス語だと知った、懐かしくもほろ苦い時代でもあった。
 だが、私には、この時代の世相とは無関係に切り離せない歌声がある。それはブレンダ・リーの「愛の讃歌」であり、「ディ・エンド・オヴ・ザ・ワールド」だった。とくに前者はエディット・ピアフのそれではなく、ブレンダ・リーのそれでなければならなかった。
 というのも、この曲はきみが貸してくれたレコードのA面とB面にあったもので、例の受験勉強中、私を励ましてくれた楽曲だったからだ。両面とも擦り切れるほど聴いたが、ステレオ装置はお手製のものだった。別売りのスピーカーとターンテーブルだけを買ってきて作ったのだ。
 加工のしやすいラワン材や合板でつくった土台やスピーカーボックスに黒のラッカーを塗って重厚な感じにし、仕上げはニスを縫ってピカピカにした。艶消しのものではなかったが、当時のものにしては、それなりにハイカラなものになっていたのではないか――と自負している。
「愛の讃歌」や「ディ・エンド・オヴ・ザ・ワールド」に限らず、彼女の伸びやかな歌声は、じつに素直で屈託がない。その甘やかな唇から発される「レーディット・ハプン、アイ・ウォンケァ」(何が起こったってかまやしないわ――)や「アイ・ゥェイカッ・インダ・モーニン・エン・ナイ・ワンダ」(今朝、眼覚めてみて不思議に思ったのよ――)というときの、その鼻にかかる英語独特のN音が若い私の胸の内側をきゅんとさせたし、いま聴き返してみても、その効果はなんら変わっていないのだ。
 ブレンダ・リーの「愛の讃歌」に出てくる、あの英語の歌詞の意味するところ――。
 それは、ある意味、きみが私に対して周囲の声を気にすることなく、勉強に打ち込めとエールを送ってくれたことの証左だといっていい。それをそっくりそのまま、自分への応援歌として受けとめ、心が折れそうになる度に口遊んだのだった。それくらい、私はあの歌に励まされ、頼る者とていない孤独な受験勉強をオンボロの安アパートの一室で闘い抜いたのだった。
 まさにあの曲は、私にとって、ちょっと遅めの青春応援歌でもあったのだ。
 たとえ海が干上がり、太陽が空の彼方から転がり墜ちて来ようとも、あるいは世界が終わりを告げたとしても、私は何度でも挑戦する。あのシシフォスのように――。そしてトア・エ・モアの歌のように、知らん顔してひとが行き過ぎても、きみが応援してくれたことを決して忘れはしない――と。




第二章 邂逅編に続く。https://note.com/noels_note/n/n886ea6e12c2b

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