見出し画像

あらがうことすら流れなのだと

不謹慎ながら私のおばあちゃんは、人が死ぬニュースのたびに昔から、
「可哀想に、でもこれも運命。生まれた頃から神様は知っていたんだわ」
とか言う。
死んだこと無いくせに〜!!とか、そんなことあってたまるか!!!と私は聞くたびにイライラする。おばあちゃんはなにかの宗教を信仰してるわけでもないのに、なぜかよく知ったような顔で言う。それが気に食わないけれども、これで否定できる!!!!!!というような自信もない。

運命がある!と自信をもって言える出来事もないけれど、自分が切り拓いた人生だ!!!!!!と大声で言えるようなこともない。

「死ぬ日は決まっている」というおばあちゃんの言葉は、私にはずっと染み付いている。「死」についてよく考える。
子供の頃は特に「死にたくない!!!!!!」とずっと怯えていた。
でも子供なので、死に至る経緯のパターンがめちゃ少なかった。そこでわたしがまず恐れていたのは、「拳銃で後ろから撃たれる」だった。
私はランドセルが分厚いのは拳銃で打たれても大丈夫だからだと本気で思ってた時期もあるし、わざと荷物を多めに入れてた時期もあった。
ランドセル以外の場所が守れないことに、怒りを覚えていた時期もあった。
ランドセル以外の場所を守るために、不定期的に前に歩いてる時に、突然横に移動したりして、拳銃を予知して、避けているときもあった。(いよいよやばい)雨を避けられない自分に気づいて、自信を失う日もあった。

でもだんだん、いつ避けるかまでも決まっているのでは?と思うようになった。
どこまでやっても、次の手をもっと高次元ななにかに知られているのかもと思った。バレないようにするにはどうしたらいいかも考えて、まさにお天道様に監視されてるような気持ちになった。

中学受験に落ちて、高校受験も第一志望は取り下げて行かなかった。でも今の一番の親友は、同じ中学を受験していて、高校受験の第一志望も同じで、お互い取り下げた結果行った母校で出会った。二人ともどこかでどちらかが成功してたら出会わなかったし、もっと早く出会っていたかもしれないし、違う場所で出会ってたかもしれない。
出来事自体に、良し悪しは無いな〜と心から思う。

たくさんの分岐点の結果が今の自分で、この「今」に辿り着く人間は自分以外誰一人いない。どんなにお金を積んでも、恵まれた環境にいても、血の滲むような努力をしても、時間だけは操れない。止まらないし、戻れないし、今は進めない。
もし違う選択をしていたらどうなっているかを知ることはできない。
そんなことを考えると、すごく大きなものに従って自分は流れているだけなんじゃないかと思う。
「水は高いところから低いところに流れる」のと同じで、川のように私も流れているだけなんじゃないかなと最近思う。
だからといって、何もせずただ力を抜いていればいいわけでもなくて、自分の気持ちや感性に集中して、人生を深めるのが娯楽なのかなとか思う。自分という人生の物語を楽しもうみたいな!正直なにが言いたいんだか、忘れた!!これも運命。

こういう思想の宗教もあるらしく、宗教についても色々考えた。やっぱ私は宗教をひらく才能がわりとあるかもと思う。ひらきませんが

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?