「助けてもらう」と「してあげる」――西加奈子『夜が明ける』を読んで

 最近になって、小説の「読み方」というか、「向き合い方」にも色々あることを知った。文学研究者や批評家は、自分の研究分野に引きつけて論じたり、独自の解釈を見せたりと、小説と仕事が強く結びついている。一方、僕も含めておそらく多くの読者は、むしろ仕事とは対極に位置するプライベートの時間として、小説を享受しているのではないかと思う。

 読書中も仕事が脳裏から離れないというのは、いくら文学が好きとはいえ大変だなぁと勝手ながら思ってしまうのだが、今回読んだ西加奈子著の長編小説『夜が明ける』は、何度も立ち止まりながら、「ケア」のことを考えずにはいられなかった。

 小説では、強く生きようとする二人の男が社会に出てから次第に弱っていく様が描かれ、「若者の貧困」や「生活保護」といった社会的なテーマが絡んでくる。終始重苦しい雰囲気のなかで、「負けないために恨むことをやめた」同級生・遠峯と、「勝ち負けではなく抗い続けようとする」後輩・森、この二人の女性の揺るぎない志向の輝きが際立っていた。

 森は先輩である「俺」を前に、人に助けてもらって生きることは、弱い人間がすることじゃなくて、当たり前のことであると述べてから、自身が使った言葉についてふと振り返る。

 そうか、だから『助けてもらう』って言葉も改めないといけないですよねぇ。「もらう」んじゃなくて。困ってる人を助けるのは当たり前のことだから。うん、そうだ。なんか、いい言葉ないですかね?
西加奈子『夜が明ける』、新潮社、2021年、p377

 「助けてもらう」とは、単に「助ける」の受動態である「助けられる」と同等の意味合いのはずが、「もらう」が付くだけで、どこか非対称的な関係性を思わせる。
 そして「助けてもらう」が「助けられる」側の視点に立った言葉だとしたら、「助ける」側の視点に立てば、それはきっと「助けてあげる」と言い表すのだろう。

 この「~してあげる」という表現は、介護の仕事においても大いに見受けられる。「ご飯を食べさせてあげる」、「お風呂に入れてあげる」、「お茶を入れてあげる」、「散歩に連れて行ってあげる」。
 これほど露骨に言う介護職員はそうそういないとしても、潜在意識としてそのように思っている人は多いと思う。まるで「~してあげる」自分たちは強くて偉い人間で、「~してもらう」被介護者は弱くて情けない人間であるかのように。

 そもそも「介助」という言葉は、介護者の行為しか表していない。例えば「服薬介助」とは、服薬する当事者は被介護者であるにも関わらず、それを介助する介護者が前面に出る。しかし、本来あるべき「服薬介助」の意味合いとしては、一人で薬を飲むのが難しいから、そのできない部分を介護者が補うことで、その人が服薬を無事に遂げること、であるはずだ。大事なのは、介護職が服薬介助をすることではなくて、被介護者が服薬をするということである。

 この非対称性(もしかすると権力関係)を意識的にも無意識的にも克服するためには、やはり「介助」や「介護」という日本語の表現では物足りず、「care/ケア」をどう捉えるかということに行き着く。
 やがてそれは人間観、老人観というものにも及ばざるを得ない。一人で歩くのが難しくなったり、一人でトイレに行くのが難しくなったりすることは、長生きする限り誰もが経験するであろう分かり切った事実であるにも関わらず、私たちはそれを自分事としてちゃんと引き受けることができない。「ケアする」自分は想像できても、「ケアされる」自分は想像できないのだ。

 そこで考えられるのが、「ケア」を行為の主体/客体として捉えていることが事態をより困難にしているということだ。これに関しては、現在読んでいる本の「中動態」という概念と併せて改めて論じたいし、横道誠著『唯が行く!—当事者研究とオープンダイアローグ奮闘記』を読んですでに少し書いた。(『唯が行く! ー当事者研究とオープンダイアローグ奮闘記』のレビュー 横道誠 (Ryoheiさん) - ブクログ (booklog.jp)
 「ケア」とは何かを考えることは、介護職の職務のみならず、他者とともに生きる私たちの課題と言えるのかもしれない。そういう意味では、冒頭の小説の読み方の話に戻るが、文学を通じて「他者性」を得ることも、第一義的とまでは言わないが、結果的に良い教材――考える機会、そして想像する機会、となっているのだろう。


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