かたちの悲しみ

かたちとは、生きているものの形態のこと。それに悲しみを感じる。とりわけ小さきものに。

たとえば人の側にいるネコやイヌたちのこと。人の側にいる彼や彼女たちを見る。ふと佇んで私たちを見返す仕草をするときに、その眼差し、ポーズ、手や足の位置は彼らや彼女たちが自然にそうしているのであり、その瞬間、それ以外のかたちは取りようのないものだろう。

そうである以外にない、他のかたちをとりえないということ。その瞬間のかたちは必然であり、その拘束からは自由ではありえないことが私たちから悲しみの感情を引き出す。

なぜなら、絶対的にかたちから自由でないことは、たとえばそのままでは天敵に抗えず、彼らに補足されないためにひたすら隠れ、逃走するしかないことを意味するからだ。人と暮らすネコやイヌたちも人による虐待に対抗できない。

すでに狂気に陥っていたニーチェがある時、荷車を引く馬の側に寄り沿い、ひたすら泣いたという逸話が残ってる。あれだけ生の力と強者を肯定し、弱者とそのルサンチマンを嫌っていたニーチェはなぜ馬の存在に揺さぶられたのか。

生きるもののかたちは食物連鎖における長い進化の結果、所産であり、人も含めてこのことから自由ではない。だがすべての生きるものがその内部にひたすら生きることに向かう不定形で流動する欲動を抱えているとすれば、かたちが私たちに悲しみを引き起こすのは、その欲動がそのままでは発動できず、必ず特定のかたちを取らざるをえないこと、そしてそのかたちが最初から生とともに死をはらんでいることから来ているのだろう。


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