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自殺ちゃん

 有名人じゃなくても、自殺のニュースをみると考えてしまう。死ぬ人の気持ちと、遺された人の気持ちを。
 鬱の果ての自殺は、頓服薬では避けられない。鬱は少しずつ沈殿する毒のようなもの、その人の器が壊れる前に多くの小さなことをしなければいけない。鬱で器が満たされた人の前で小さなことを一度二度して見せても、遅い。足りない。救いにはならない。
 金や立場があるから死なないということはない。自死は自分を救う行為だ。金や立場では救われぬ絶望がある。
 絶望はまわりが嫌で仕方なく、何より自分が一番嫌で嫌で仕方ない気持ち。人の輪郭をぬぎすてて意味を失いたくなる、死ぬのが一番手っ取り早い。
 本人にも誰にもどうしようもできなかった絶望、くつがえせなかった絶望を前に死ぬ人を止める気になれない。
 死にたい人を前には創作活動よりも、一緒にいてあげること、話を聞いてあげること、そういう現実的な行動が何百倍も効果ある。仮に目の前に死にたい人がいて、それだけの時間を尽くせる人か?そうでないことが実際は多いと思う。
 時間を尽くせぬなら、「死なないで」という一言も自分なら飲み込んでしまう。

 2007年9月に首を吊って死んだ母へのむかつきと、贖罪意識という真逆の想いをずっと引きずっている。ぼくの場合、悲しみの先に、本当の優しさを考えるきっかけがあった。
 そんなきっかけ、自殺で知りたくはなかった。でもぼくは母の器が軋んでゆく音を確かに聞いていたのに、小さな優しさを積むことができなかった。しなかった。それは罪だと今でも思っている。

 有名人の死は、土日に泣ける映画に出会ったぐらいの感覚で消費されていく。
 そんな安易な感傷ではないと感じる人がいれば、「なら何ができた?」「身近な人が同じ状況の時、何ができる?」これを考えてみてほしい。恐ろしく退屈なシミュレーションで答えはない。
 答えが思いつくやつがいれば、恐ろしく軽薄な精神の持ち主だと思うので、そのままぼくには干渉せず生きてってほしい。
 意地悪な書き方になって申し訳ないが、人の死に至る絶望を「わかる」「救う」のは、本当に困難だとぼくは感じていて、その考え方の根深さが他人とわかりあえない気がしている。
 ぼくが母から教えられたことはもう一つ、ぼくが生きることが母が生きた証明になるということ。誰への証明なのかはわからないが、やりきって生きて、その呪いをせめて叶えてあげたいと思ってる。

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