【民俗学漫談】多様化の下での個性の淘汰
前回は、AIについて漫談しました。
野生動物から家畜動物への淘汰
AIは、明朗快活ですね。優しいですよ、人間で言えば。
AIが優しくなるにつれて、優しい人間が減っているようではあります。
犬に関しては、従順さが好まれますから、人間が意図して従順な個体を残してきて、今のような飼い犬になったわけですが、人間も、作られた物語に参加する、上から見れば従順な個体が好まれ、残されるようになってきますが、従順さと、優しさや親切さとは、相容れないとは言いませんが、特に関係のない性質なのでして、ある程度、この世に長くいる皆さんは、薄々お気づきでしょうが、優しい人間が減っている気はします。
優しい人というものは、プライベートというか、公共の場でも、知り合いがいない場でも、気を使い、優しいものです。
そういう性質の個体は、淘汰されつつあるようです。
人類が文明を持ち、発展しながら永らえてきたのは、こういう優しい人たちのおかげであることに、気付いている人はほとんどいないでしょう。
優しい人たちが減れば減るほど、、秩序を保つには、ルールを強める必要が出てきます。
その先の世界は、どのようなものになるでしょうか。
ざっと30年前、40年当たり前ですか、テレビの普及により、言葉が統一され、方言が減ってきたと言われました。
この時代の話は、単に、標準語が広まったという話でした。
アクセントとか、言葉の意味とかですね。
ところが、昨今、人々の、話し方や、いわゆるリアクション、表情までもが統一されています。
言葉と言うよりも、言葉遣いと言いますか、言い回し、つまりは言語感覚が統一されてきています。
昨今の人間は、上から下まで従順な個体が生き残っていますから、メディアの、いわゆるタレントなる者の、言い回し、表情、言葉遣いをまねてお喋りをしていますね。
それも、老若男女問わずです。
落語家の口調をまねて、今風を気取る者は、江戸時代からいたようですから、今に始まったことではありませんが、最近の風潮は、それとは少し違うようです。
どうも、性質が単一のものになりつつあるように思われます。
半世紀くらい前ですかね、アジアアフリカの植民地が欧米諸国から独立した後、結局着ているものは、Tシャツに、Gパンだったと言う痛々しい話があったわけですが、着る物も一つのアイデンティティーであれば、言語、言語感覚こそ、アイデンティティーに他なりません。
メディアが広める言い回し、百年、何百年と使っていた国語を現代の一部の人間の気分でつまらぬカタカナ語に替えてしまう、
それに従う人々、若者ならいいんですよ、若者というものは、大人を嫌うのが自然ですから、
大人とは違う言葉を使いたがるものです。
言語とはアイデンティティーなわけですから、違う人間として主張したければ、言葉を変えるのが手っ取り早いわけです。
ところが、今は、大人と言いますか、40代、50代の人間までもが、タレント風のしゃべり方をしていますね。
あれもまた、独立した後に、植民者の服を着ていたのと同じ類でして、つまり、頭の中身がメディアに従属している姿なのであります。
太古より、大衆というものは、貴族や華やかな世界に近づきたがる習性がありまして、タレントは貴族扱いとしてそれをまねしているのでしょうか。
仕事上の話し方、お辞儀の仕方、見送り方、メール文、いつの間にか、気味の悪い言葉遣い、仕草が増えましたね。
あんなことをする事よりは、仕事の効率を上げて、締切より早く片付けた方が、喜ぶのではないでしょうか。
まあ、楽なんでしょうね。
楽じゃないことをわざわざしませんからね。
先ほどの従順な個体が増えて、優しい人が減っている話にしても、人間味がなくなっているというわけではないのでしょうが、何と言いますか、感覚が違う人間なんですよ。
世代間の話じゃないですよ。
あらゆる世代が、違う種に思えるんですよ。
グローバルというのですか、皆、外国人みたいですよ。foreignerですよ。
多様化と言うことで、価値観の違いを認める社会なわけですが、気づいたら、多くの人々が、違う価値観になっていたようでして、つまりは時代についていけません。
仕事は、もう正直なところ、AIとしていた方がましと言う人間がほとんどですね。
人間味がない上に、自分の生活の事しか頭にないわけですから。
一緒に仕事をしたいと思えることが少なくなりました。
隠れたパワーハラスメント
いわゆるパワハラですか、あれも、人前で怒らなければいいみたいに勘違いしている者もいますからね。
権力がある人間は、存在がパワハラになりかねません。
これは、レスラーのようなガタイの者を前にした場合を考えたらわかりやすいかと思います。
たとえ、にこにこ笑っていて、礼儀正しくしていたとしても、何かの拍子で、相手を物理的に圧することができる存在を前にして、本当に、対等に話すことができるのでしょうか。
公共の場でも、仕事でも、プライベートでも、結局は、人間の悩みは人間関係なんですよ。
結局は、最終的な関わりは、一対一の、力関係、パワー関係なんですよ。
いくら、法やルールや倫理で制御しようとしても、結局は、力対力なんですよ。公共交通機関、公共の場、仕事のやり取りの場、すべては、結局は、一対一のパワーバランスなんですよ。
気の強い、力の強い個体が、大人しい、腕力の弱い個体を圧するわけですよ。
意識しないだけで、人間も動物ですから。その情況を抜け出せていないんだと思いますよ。
痩せ細った人と、レスラーみたいな人と、全く同じに接する人がいるのでしょうか。
それが、権力であったり、お金の力であったり、または腕力や体の大きさと言うにすぎません。
それを持たぬ者は、隠れたパワーハラスメントに、公共の場であろうが、職場であろうが、日々苦しんでいるんですよ。
人間を運ぶ通勤電車
いわゆるビジネスの場における仕草や言葉遣いが変なものになったのは、面倒臭いんでしょうね、自分自身の個性で対処したくないんでしよう。
面倒だから、テンプレートで対処するんですよ。
そこに尊敬なんてないですよ。
カタカナ語もそうですよ。
あれは、存在の権利を認め、気を遣っているんじゃなくて、相手をするのが面倒だから、カタカナにして、なんだかわからなくしているだけです。
蓋をしているんですよ。
就活なんかでも、『多様な人材が欲しい』とか言っていますが、ほとんど嘘ですよね。
自分たちを脅かせない、不安にさせない、びっくりさせない人材を欲しがっているだけですよ。
123か国でしたか、123か国のサラリーマンに仕事のやる気の調査をしたら、日本は最下位だったらしいんですが、喋りたい人はいても、一緒に仕事をしたいという人がいないんじゃないでしょうか。
会いたい人がいるから、仕事場に行きたいということもあるでしょうし。
どころか、プライベートもAIの方がまし、むしろプライベートならなおさらと言うことにもなりそうです。
自分で自分を励ますのは、しんどいですから、人に励ましてもらいたいんですが、今の競争社会の職場では、皆、余裕なんてないんでしょうね。
多くの人々は、疲れているから、従うんでしょうね。
日本人の特性と、果たして、グローバリゼーション、競争社会は、向いていたのでしょうか。
昔は昔で、戦後の経済成長は、軍隊のノリと言いますか、軍隊よりましと言う思いで、しゃにむに労働に勤しんだのでしょうが、今は、皆、何のためにいやいや労働をしているんでしょうか。
会社従業員のことを指して、『社畜』などと、自嘲気味の冗談で行っていた時代はまだ、余裕があったんでしょうね。
今やそれ以外に、会社従業員を的確に表す言葉があるんでしょうか。
会社従業員にしても、評価はされているけど、認められている感覚がないというのはあるかもしれません。
評価というのは、組織に貢献し、また、従順でいてくれるかであって、自分なりに仕事をすることを許されているわけではありませんからね。
人が欲しいのは、評価ではなく、存在を認めてもらえることなんですがね。
だから、いくら稼いでも出世しても、外の世界で、寂しさを埋める様な場や人を求めるんでしょうね。
通勤電車からして、あれは、乗車じゃないですよ。運搬ですよ。人間を運搬しているんですよ。
我先に、空いているスペースに入り込み、壁を背にしてへばりついて、肩が付くほどに並んで、天地無用ならぬ人間無用の有様ですよ。
今の東京なんて、郊外から始まって、朝は2時間位その有様が続くんですよ。
15世紀末以降、南北アメリカの植民地開発のために、アフリカから、人間を運んだ船がありましたが、現代版と言うのは、言い過ぎでしょうか。
羊は犬に先導されて移動しますが、それを人間は、時間に追い立てられて、移動しているにすぎません。
人間というものは、牛でも豚でも、家畜を始め、動物を騙すわけですから、
その能力を同類に使わないわけはないのです。
その、騙し騙される物語がいつまで続くかでしょうね。
派遣社員というものがありますが、あまり社会にとってと言いますか、むしろ国家にとって良いとは思えないものが、ますます盛んになっていますね。
テレビでさえ広告を盛んに打っていますから、儲かっているのでしょう。
30パーセントちっょとですか、紹介料とか、その他の事務手数料で、派遣会社が持って行っているみいですね。
派遣が盛んになるというのは、ある種、今迄の労働のやり方が限界にきているんでしょうね。
競争社会についていけない人々、会社に従属するのが怖くなっている人々が増えているのかもしれません。
従属と言うのは、人間の内面を必ず抑圧しますから。
感情労働の広がり
肉体労働、頭脳労働の他に、最近は、感情労働という区分けもしているみたいですね。
感情労働と言うのは、最近作られたものですが、自分たちの本当の感情と引き換えに、客をもてなし、安心感を与える労働とのことらしいです。
これ、大学職員とか、広報もそうですよね。
元々、航空機の客室乗務員、とか、看護師とかを対象にした研究分野だったみたいですが、最近は、それをそのまま応用して、接客業も感情労働として扱って、そのメンタルを保つようなことをするようになりました。
要は、自分の内側の何かを削りながら、客をもてなしている職業全般が、感情労働と言うことです。
で、感情労働に従事して、続けていくうちに、当然、自分の本心とは違った表情、言葉遣い、仕草をし続けることになりますから、つまりは、自分に嘘をつき続けることになります。
そのために、精神的に参ってしまうのですが、その対策として、演技が必要になってきます。
感情労働と言うのは、一つは、遣り甲斐のあり職種と裏腹なところがありますから、楽しければ、これほど楽しい仕事はないかもしれません。
しかし、客の中には、異常者もいますから。
異常と言っても、精神病患者の方とかではなく、一般人で、普通の暮らしをして、普通に労働をしている者でも、時に、異常者に豹変する、そういう場合のことです。
そうした場合、サイコパスでもない限りは、楽しいわけはありませんから、心を抑圧し、ストレスにさらされながら、労働に従事することになります。
その場合、本来の自分とは別の自分を、いわば仮面をつけて、演技することになります。
感情労働の従事者は、それができるかできないかですね。
繊細な人、真に受けてしまうような人は向いていないでしょう。
学生の飲食店のアルバイトでも、感情労働の一つですから、それを楽しめるかどうか。
アルバイト気分でもいいんですよ。
楽しめたら向いているでしょう。
でも、学生のアルバイトであっても、楽しくできないのなら、それは、客に対して、演技ができないというわけですから、向いていないということになります。
感情労働の研究者の論文なんかを読んで、思ったのですが、最近は、頭脳労働も感情労働ですよね。
大学職員なんてのは、教員や学生と言う普通の会社にはいない人種を相手にするわけです。
特に教務課なんてのは、むしろ、面倒くさい教員や学生を相手にする方が多いんですよ。
続けるほどに嘘をつき続け、つまりは分裂し、我関せずの姿に変わるわけです。
大学職員は、特殊かもしれませんが、今時の頭脳労働、それが事務であろうと、他の職種であろうと、感情労働ともいえる様な労働に従事しているわけです。
上司はもちろん気を遣いますね。ただのお喋りでも気を遣うんですよ。
上司とか、先輩とか、いない日は、とても楽なものです。
もちろん、同僚にも、最近は、目下のものにも気を遣わなければいけません。
大変です。仕事よりよほど疲れます。
生活圏の一様化
最近、優しい人が公の場て減ったという話も、見た目健常者の、その実、自己分裂しているような人間ばかりになったら、恐怖反応が先に来ますよね。
逃走か、闘争かのストレス反応に常にさらされるわけです。
平たく言うと、意地が悪くならないと、今時、労働なんてしていられないんですよ。
そもそも、自分より強い者、権力のあるものに対して、反発するならまだしも、弱い者、弱そうなものに対して、物理的、精神的に攻撃的になる者は、この21世紀になっても、なかなか淘汰されませんね。
中国や欧米とかですと、昔から、外敵を防ぐために、家を塀で囲み、外に開かれた庭を造らずに、中庭が発達したそうですが、日本も、身内や知り合いに対する態度と、見知らぬ他人に対する態度の格差、ここでも格差ですが、この格差も広がってきたように見えます。
『東京は金持ちと若者にとってはいい町』らしいですが、それに関しては、今に始まった話ではなく、都市というものはそういうものですし。
江戸の頃から、消費する都市でしたから、江戸自体から、それ自体は変わっていません。
ただ、その消費の仕方と言いますか、流し方と、食らい方が、あまりに貪欲で、同時にあまりに能率主義になり、それが、町並みにも表れ、ひいては、そこで働く人々の性質を変化させてしまった気がします。
平板なんですよ。
町並みも、人間も。
のっぺりしているんですよ。
だけども、人間の情念はなくなりはせずに、却って深まりますから。
ルールが増えるほどに、情念は増すものです。
平板な街並みを、情念を抱えた人間が躊躇いもなくしてうごめいている、それが今の東京の姿ではないでしょうか。
相変わらず、東京に住む人間は地方を見下していますがね、
それが東京生まれであろうと、地方出身者であろうと。
でも、今、東京の人間と地方の人間の性質の違いなんでないですよ。
都会の洗練なんて、今の東京にほとんどないでしよう。
今時、夢や可能性と言っても、商売人が用意した枠の中でのものばかりですから。
コミュニティや組織内も用意されて管理された中での進路や儀礼ばかりですからね。
学校内の可能性、努力と同じ、そのままずっと行くのが、うまく生きるということですものね。
野良猫に比べたら、まだ、動物園のヤマネコの方が楽そうですね。
敵がいないのは本当に楽なんでしょうね。
野良猫より、動物園の猫の方が長生きしますからね。
野生に晒されて、敵に怯えるくらいなら、飼われた方がストレスが少ないんですよ。
治安うんぬんよりも、むしろ、多くの見知らぬ他人が、同朋ではなく、ノイズとして認識するようになったんじゃないですか。
21世紀というか、この10年くらいで。
スマートフォンの普及に伴い。
人間も動物ですからね。敵もしがらみも少ない方がいいわけです。
情念なんてものは、人間特有のものではありますが、ホモ・サピエンス特有のものではないというお話をします。
ブラジルのアマゾン川のほとりには、ピダハン族と呼ばれる、人類学の研究対象となるような狩猟採集民族が暮らしています。
この部族の言語には、数や左右、色彩、性別、更には、過去や未来の概念もない、過去がないから、後悔もしない、未来がないから、不安もないらしいんですよ。
現代人が、実践本を読んだり、メンタルトレーニングをして目指している境地をあっさりと実現しています。
釈迦にもキリストにも頼らずに実現しているわけです。
どういうことでしょうか。
過去がないから、神話もない。当然、宗教もないわけです。
これこそ、自由と呼ばずになんと言いましょうか。
でも、過去を思わず、未来を考えない、とか、そんなことができるんでしょうか。
教育されなければできるんでしようね。
長期記憶の能力を持ちながら、使わない。
てことは、過去とか未来とかいうものは、所詮は想像の産物ということなんでしょうね。
記憶にしても、正確に覚えているわけではないですし、未来も全く予想通りになんてならないわけですから、所詮は架空の話な訳です。
漫画を知らない人に漫画を与えても読めないように、過去とか未来も教えなければ、知らないままでいられるんでしょう。
知ったら、それに追われる、禁断の果実のようですね。
知恵の実を食わずに済む方法もあると言うわけですか。
5歳前後に、過去も未来も知ることがなければ、楽園のままいられるのかもしれません。
ピダハン族の脳は、今地球上にいる人類と変わりはありません。
つまり、複雑な思考をしようと思えばできるのに、それをしてこなかった。
結果、後悔からも不安からも自由なんですよ。
しかも、従属も抑圧もなしに。
ピダハン族は自分たちと、他の人類の違いを認識もしているらしく、
自分たちを『真っ直ぐな民』、他の人間を『ひねくれ頭』と呼ぶそうです。
人類は、良くなろう、良くしよう、と悩みすぎた挙句に、ひねくれてしまったのかもしれません。
都内でドブネズミが増えているようですね。
理由は簡単ですよ。
野良猫の数を減らしたからですよ。
人間の都合で、つい最近まで人間の財産、主食である穀物、書物、布、蚕、家や船の柱、それらを守ってくれていた存在を、邪魔になったら、『管理』という名の下に減らす。
挙句に鼠が増える。
中世のペストの発生の際に、頭の悪い人間が、猫のせいにして、数を減らしたがために、ペストが猖獗を極めた事を忘れたんでしょうか。
忙しいから、忘却してしまったんでしょうね。
超越者がいないんですよ。
今の人間の頭には。
神も利用するだけ。
それは超越者ではありません。
駒ですよ。
超越者を感じられなくなったのは、自然がなくなったからですよ。
犬は狂犬病があったから仕方ないとしても、猫が何をするんでしょうかね。
猫だって、生きているんだから、食い物があれば食いますし、道だって渡りますし、鳴きますよ。
野良猫程度の自然さえ許容できなくなった人間の心に宿るものは何か。
肥大化した承認欲求、自己顕示欲と、それを買うお金でしょうか。