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あれから八年

今日は父の命日である。あれから八年が経った。
とてもよく晴れた日で、空が青く澄んで綺麗だったことを今でもよく覚えている。

今日は父のことについて綴っていこうと思う。

詳しい事情はあまり知らないが、父は複雑な家庭で育ったと母から聞いていた。

確か、9人くらい兄弟がいる中の末っ子だったと記憶している。
その中でもすぐ上のお姉さん、私から見ると伯母にあたる人をとても慕っていた。
多分、それ以外の家族とは仲が良くなかったんだと思う。

父の母、つまり私の祖母は、とても破茶滅茶な人だったらしい。
子供たちを置いて飲み歩き、そんな祖母を父と伯母が迎えに行っていたそうだ。

これらは全部父の口からではなく母から聞いていた。

私自身も父方の親族との交流は殆どなく、それくらい問題がある家庭だったのだと想像した。
伯母とは小さい頃から交流があったが、伯母も父が亡くなる少し前に他界した。

きっと暗い幼少期を過ごしたと思われる父は、北海道で生まれ育った。
中学を卒業すると同時に東京に来たそうだ。
そこからの経緯はあまり知らないけれど、なんやかんやあって新橋の蕎麦職人の元に弟子入りしたらしい。

私が知っている父は、酒と煙草と競馬が大好きで、頑固で融通が利かない、漫画によく出てくるような職人気質で気難しい人間だ。
一緒に遊んだ記憶なんか一切ない。

私が小学校に上がると同時に、父は親方から蕎麦屋を引き継いだ。経営者となった。母も一緒に蕎麦屋を切り盛りした。

だから父も母も、私の学校行事に参加することはなかった。
どちらも授業参観に来ないことは当たり前で、運動会はいつも友達とお弁当を食べていた。
それが私にとって当たり前のことだった。

家でも父と関わる機会が少なく、親子として過ごした時間はほんの数年くらいのものかもしれない。

それでも、父と二人で出かけたことは多少あった。

父は映画がとても好きな人だった。
頑固な職人のイメージがあると意外かもしれないが、年代や国やジャンルを問わず、たくさんの映画を観ていた。
実写版のるろうに剣心を観て面白かったと言っていた記憶もある。

私が小さい頃、父はよくレンタルビデオ屋さんに連れて行ってくれた。

まだ平成初期、色んな規制が緩かった時代。
父の原付の、父が座っている座席の前に私は立って乗せられていた。説明むずっ。
つまり今だったら絶対に停められている乗り方で連れられていたのだ。

こじんまりとしたレンタルビデオ屋さんに着くと、父は父で観たいものを、私は私で観たいものを借りた。
子供の私は当然アニメものだった。
当時の私が何を借りていたのか覚えていないけど、ウルトラマンがアニメ化したものやウォーリーを探せのアニメは借りて観ていた気はする。

私に残っている父と二人の記憶はこんなものだ。

私たち家族は一緒に過ごす時間が、どこの家庭よりも少なかった自信がある。
旅行に行くことも何もなかった。

それでも、数少ない家族全員で過ごした思い出はあって。

家の居間で父と母、姉と私の四人が揃って(って書いたけど姉がいたかは定かではないや)、電気を消して暗くして、BSか何かで一緒に映画を観たことが二回ある。

一つは窪塚洋介主演の「ランドリー」、もう一つは韓国映画の「猟奇的な彼女」である。
なぜ家族で映画を観る流れになったのかは覚えていない。

「ランドリー」は私が中学生の頃。
とても優しくて温かい映画で、思い出補正もあって今でも好きな映画だ。
「猟奇的な彼女」は確か高校生の頃。
初めて観た韓国映画だった。家族にバレないようにこっそり泣いたかもしれない。

父は亡くなるまでもずっと映画を観ていた。
実家の近くのレンタルビデオ屋さんに出かけて何時間も帰ってこなくて、すごく心配したこともある。

映画に没頭した父の、孤独とか辛さとか、五十何年かの人生の葛藤とか、私には計り知れない。

頼れる両親や兄弟がおらず、唯一慕っていた伯母さんも亡くなり、私たち家族にも頼ることができず。

私からしたら「無計画に私ら子供を作ったからだろ」と思ってしまうのだが、本当に私たち家族には信頼関係がなかった。
誰もがお互いに信じることができなくて、思いやれることもできなくて、ただ家族としての形だけが存在していて。

愛情もゼロではなかったと思うけれど、不器用なのは知っていたし。
ただただ無機質な関係で、人間とはそういうものだと思い込んだまま私も大人になった。

父も幼少期、家族からの愛情を感じられなかった。
私も同じく感じることはなかった。

だから、私も父と同じく、人からの愛というものが分かっていない。
いつも受け止めていない自分がいる。

私は父にもっと人を頼って甘えればいいのにと思っていた。
父を助けようとしてくれる人たちがいたからだ。

それは私も同じだと気づいてはいた。
誰かから色んな種類の好意を向けられても、よく分からないと思ってしまう。
何で私に好意を向けるのかが分からず、なんの見返りを求めているのかと偏見的な見方をしてしまう。

人間は無機的で、人を利用するもので、無償の愛なんてものは幻想で。

父と母の間に愛はもしかしたらあったのかもしれないが、とてもそうは思えなくて。
母は父を好いていたが、多分父はそうでもなくて。
姉という存在ができたから結婚して、その流れで私も産まれて。
父は責任感だけで子供を育てていると、私はこの耳で聞いて。

愛なんてどこにあったのだろうか。
血の繋がりに何の意味があるのだろう。
私含めてみんな自分勝手で、誰よりも家族が家族を傷つけて。

きっとね、母と出会ってなかったら父はまだ生きていたよ。
私たち家族が原因なことくらい分かっているよ。

私は産まれてこなくてよかった。
寧ろ産んでほしくなかった。
それならば、父が幸せだと生きていける人生を歩んでくれた方が数倍もマシだった。
父も母もとてつもない馬鹿だ。
うっかりできちゃった的な感覚で姉を作り、それを子供たちに悟られてしまい、まるで姉や私が産まれてきたからこんなに不幸なんだと言わんばかりに、父も母も自分を責め続け。

改めて、愛ってなんだろうと思う。
家族ってなんなんだろうか。
何の意味もなく産んで、育て、離散して。

八年前の父は、きっと最期は全てを手放せて楽になれたのだろう。
そう思うほどに穏やかな顔をしていたから。

私はね、あなたが楽になれたのならそれでいい。
家族という重い枷から逃れられたのならそれでいい。

生きる支えになれなかったことだけが悔いである。

こうやってまた一年が過ぎていく。
何年経っても、私はあの日に戻る。

なんやかんやあって、今私は一人で生活してるよ。
私も楽しくやっているよ。
これからもっとちゃんと生きていこうと思ってるよ。
あなたができなかったことを、私はしていくよ。




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