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結局、彼は何も語らなかったけれど

 その日はそれまで続いていた寒さが少し緩み、いつもなら寒風に耐えながら自転車で通り過ぎる通勤途中の公園内では、風景を楽しめるくらいの余裕があった。年が明け、成人の日を過ぎてからは、街の様子も、私自身の気持ちも徐々にお正月気分が抜けて、いよいよ日常が戻ってくるように思えた。私は午前中に年度末までにやらなければならない業務の計画を立て、お昼休みを挟んだ午後からは、監査対応のための書類整理に着手し、パソコンで整理した書類の中身を上司に相談しようとして席を立った時、携帯に妻からの着信があった。何か、子どもたちに問題でも発生したのだろうか?妻からの急な連絡は、いつも私をほんの少し動揺させる。

「あのね、、、お義父さんが倒れて、いま、救急車で運ばれたの」

 妻の声がとても落ち着いていたこともあり、私は子どもたちの問題ではなかったことに少し安堵した。というのも、私の父は、これまでも持病で何度か救急車のお世話になっていたから、今回も持病が再発した程度にしか思っていなかったのだ。すぐに帰った方が良いのかどうか、妻に確認すると、妻は「お義母さんに聞いてみる」と言って少し間があってから、

「かなり重篤な状態だから、早く帰ってきてって、、、」

 それを聞いたとき、氷のような冷たい緊張感が私の身体を駆け抜けた。電話を切って、上司に状況を説明し、会社から急いでアパートに戻る。今回は、本当に危ないかもしれない。そんなことを考えると、何を持ち帰るべきか、これから自分は何をすべきなのか、いろいろな想いが頭の中でグルグル回って考えがまとまらない。なんとか荷物だけはまとめ、アパートの部屋を出ようとしたとき、母からメッセージが届いた。

「おとうさん、さっき、亡くなったから」

 そうか、間に合わなかったか。衝撃よりも先に、帰りを急ぐ必要がないんだという事実に、全身の力が抜けた。亡くなってしまった人は、もう戻ってこないから。そう、自分に言い聞かせた。

 
 私の住む田舎では、ひと昔前であれば自宅で通夜から葬儀までを行うのが普通だったが、今はほとんどの家が葬儀場を使っている。今回、父の葬儀も葬儀場を使うことになった。私は自宅へ戻らず、直接、葬儀場へ向かい、母と合流して、そして父を迎えた。母から父の倒れた状況を聞き、原因が持病ではなく、突然の心筋梗塞だったと知った。それまで心臓に疾患等は全くなかったから、運ばれた病院の主治医の先生も大変驚かれたそうだ。改めて横たわる父の顔を見ても、苦しんだ様子は全く見られないような穏やかな表情だ。ただ、寝ているようにしか見えない。でも、父の寝顔を見たことってあったかな。ふと、そんなことを思った。

 その後は、葬儀屋やお寺との打ち合わせ、弔問の対応などで目まぐるしく時間が過ぎた。葬儀が終わるまで、断片的な記憶しかない。私自身も喪主を務めるのは初めてで、その場その場をやり過ごすのに精一杯だったのだろう。葬儀から2週間くらいは、各種の手続きに追われた。少しずつ日常に戻り、やっとこうして振り返りができるようになった。
 葬儀に際して、父の姉弟をはじめとした親戚や、父の知り合いが足を運んでくれた。私は父の交友関係をほとんど知らなかったし、父が自分のことを語ることもほとんどなかったから、弔問に来てくれた父の友人たちが父との思い出を話すのを聞いて、改めて、私の知らない父の一面を垣間見ることができた。

 私はこれまで父のことを、このような公の場で語ったことはなかった。それは、父との関係があまり上手くいってなかったからだ。その原因は様々だけれど、一番は結婚を反対されたこと。そのことで、数年間、父とは関係を断絶していた。でも、私にも子どもが生まれたことで、その関係性は変化し、数年前に関係を修復して、私は実家に戻った。自分が父親になったことで、ほんの少しだけだけど、父のことを理解し、許せるようになったからだと思っている。実家に戻ってからは、私の妻が父の一番の話し相手になっていたようだ。孫の存在が父の幸せであることも、多くの人たちから聞かされた。

 間接的にだけれど、父に関して書いた文章と言えば、昨年書いた短編小説だ。

https://note.com/nock03/m/m1584711613b2


 余命を悟り、自らの人生について語る父の話を、聞き手である娘が小説として書き上げるといった内容だ。書いてある内容は完全なフィクションである。でも、私は当然ながら、自分の父を登場人物のモデルの一人としてイメージしていた。そして、意識はしていなかったけれど、もしかしたら、私は父のことをもっと知りたかったのかもしれない。いや、今思えば、父のことを知りたいという想いこそが、この小説を書こうと思った大きな動機の一つだったのだろう。
 実際、弔問に訪れた父の友人たちの話はとても興味深かったし、父がどんな人生を歩んできたのかを知ることができれば、私は父の事をもっと深く理解し、もっといろいろな話ができたかもしれないと、今さらながら思うのだ。本当に、今さらなんだけど。

 
 先日、三男の幼稚園で、最後の保育参観があった。長男から三男まで8年間、いや、私もこの幼稚園にお世話になったから、かれこれ40年近く関わっていることになる。建物や園庭は新しくなったけど、園歌やお帰りの歌は私の頃と変わらない。保育参観を終えて、三男が園庭を走り回り、遊具で遊んでいる様子を私はボーっと眺めていた。空の青、園庭に注ぐ日の光、枯草に囲まれた田園風景、土の匂い。なんだ、よく見たら、40年前と何にも変わってないじゃないか。そう思いながら園庭を走る三男を目で追っているうちに、三男と自分の子どもの頃が重なって見えた。目の前を走っているのは、三男であると同時に、私自身でもある。私の父も、私と同じように、自分の息子をこんな風に眺めていたのかもしれない。

 去り際に、父は、何も語らなかった。でも、私はこれからの人生を通じて、もっと深く父のことを知り、理解したいと思っているし、それが可能だとも思っている。

 人生は一方通行で、後戻りはできない。でも、時の流れに影響を受けない場所っていうのが存在していて、時を越えて、想いを共有できると信じたい。そして、形のあるもの、ないものを問わず、父の遺した様々な事物と向き合うことで、私たち家族の人生を充実したものにしていきたい。たぶん、それがきっと、父が望んでいることだと思うから。



おわり
 


サポートいただけたら、デスクワーク、子守、加齢で傷んできた腰の鍼灸治療費にあてたいと思います。