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感覚的な感覚の話

お久しぶりです。生活論です。
1回目より2回目の方が、難しさを感じそうですが、頑張って書いていきます。出来るだけ読みやすい文章を心掛けます。とは言え雑になったところで、誰からも突っ込まれないのですが。

ではでは、最近の話からです。電車に乗っていると唖然とすることがありました。(東京の電車内は大体唖然とすることで溢れているのですが)
それは、「電車に乗りながら運動する」という内容の車内動画です。「〜しながらダイエット」「〜しながらトレーニング」が流行っているようですが、さすがに限界を感じます。
内容としては、座席に座った状態で左右のお尻を上げたりするようなものでした。果たして満員電車が日常である都内の電車で実現可能なのでしょうか。例え両隣が空いていたとしても、恥ずかしくてやる人は少ないと思います。
まあ電車に乗る人は車内動画の内容よりスマホに夢中ですから、誰も気にしてはないでしょうし、車内動画を作成した人も実際にやる人が増えるとは思わずに作ったものでしょうから、別にいいのです。

そんな動画が目に入ってから、「〜しながら〜する」こと、いわゆるマルチタスクについて、少し考えました。
昨今、テレビや本あるいは人の行動を見ていると、「料理しながらダイエットする」「掃除しながら動画を見る」「友だちの話を聞きながら別の友だちとLINEする」など、なにかと複数の物事を同時に取り組む必要性を求められるようになったなと強く感じます。

昔より(主に仕事において)生産性高く、効率良く、働きましょうということが言われるようになりました。更に拍車をかけるように、コロナ禍によりリモートワーク化が進み、あらゆる場面で時間対効果が求められるようになりました。その流れは既に、仕事面に限らず生活面にも及んでいます。

先ほどの「料理しながらダイエット」「掃除しながら動画を見る」「友だちの話を聞きながら別の友だちとLINEする」に見る例がそれです。
生産性高く、効率良く、ということを否定したいわけではなく、その逆で基本的には賛成の立場です。
しかし、〜しながら〜する、いわゆるマルチタスクが最優先にされすぎたり、どんな場面でも重要視されることに、少し疑問が残るわけです。みっつほど考えることがあったので書いていきます。

ひとつは、上達するため、腕を磨くため、技術を身に付けるためには、〜しながら〜するより、ひとつのことに没頭してやり切ることが大切なのではないか、ということです。例えば、料理ができるようになりたいと考えた時に、スクワットしながら千切りしようとしても、千切りができるようになるには、それはそれは長い道のりです。料理なら料理、ダイエットならダイエット、まずはひとつのことをやり切ること、遠回りに思えますが、結局はそれが近道なのです。

ふたつは、マルチタスクができなくても良いということです。自分にできないことをできる他人に憧れる必要はなく、マルチタスクできなくてもひとつずつクリアして成果を出すことができているなら問題はありません。それどころか、マルチタスクを試みてひとつでもタスクが抜け落ちて仕舞えば、本末転倒ですから。マルチタスクができる人が仕事ができる人ではなく、求められる仕事をひとつずつ成果に繋げていれば、仕事は充分にできていると思います。

みっつは、感覚を曖昧にしたり無視したりせず、過不足なく認識することが思っている以上に大切なのではないか、ということです。なぜなら、感覚が曖昧になる、つまり麻痺している状態では、自分の身体や心の感度が鈍って、身体の疲労感やストレス、喜怒哀楽などの心の動き、幸福感や満足感などに気づき難くなるからです。

感覚というと少し曖昧ですが、ぼくのイメージは「五感」です。
五感とは、視覚(みる)聴覚(きく)嗅覚(におう)味覚(あじわう)触覚(さわる)を纏めたものですが、マルチタスクをする際、この感覚の境界線が曖昧になり鈍くなったように感じます。
例えば、先ほどの「料理しながらダイエットする」で言えば、料理は五感のほぼ全てを使いますから、それだけで感覚をフル活用しています。それに加えてダイエット、つまり身体を動かすわけですから、もうどこの感覚をどう使っているかわからなくなります。
レシピ通りに作っているからとかいつも作っているもので慣れているからとか、という意見も分かります。料理がある程度手慣れた人なら、毎回美味しいものが作れると思います。
ただここで書きたいことは、先にも書いたとおり、自分の感覚を曖昧にしたり無視したりせず、過不足なく認識することが大切なのではないかということです。

感覚の境界線を明確にし研ぎ澄ますと、自分の内側に起こる小さな変化にも気づけるようになります。
例えば、今日は少し疲労感が残ってるなとか、甘いものを食べたいなとか、身体を動かしたいなとか、ざっくりでもそういう気づきが生まれます。さらに研ぎ澄まされると、今日は歩幅が狭いなとか、右肩が少し下がっているなとか、白シャツを着る気分だなとか、具体的になっていきます。気づきはより具体的な方が、行動を明確にしやすいので生活しやすくなります。抽象的だと、なんか疲れたなとか、なんか痛いなとか、なんか眠いなとか、で次の行動も曖昧になります。
息してるだけで、様々な感覚が刺激される世界だからこそ、何度も書きますが、自分の感覚を曖昧にしたり無視したりせず、過不足なく認識することが大切だと思った、という話でした。

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