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制限と自由

「制限」と「自由」、この二つの関係性は対である。「制限」はいつも僕らの敵であり、「自由」はいつも僕らの正義の味方である。
制限されると、僕らは自然と何か目に見えないものに縛られたような拘束されたような感覚に陥る。反対に自由であると、僕らは自然と身軽になったような気分になれる。まったく同じでないといえど、これと似た思考の人は多いのではないかと思う。
しかし僕もそうは思う一方で、「制限」と「自由」は共存するものではないかとも思う。

分かりやすいもので言うと、今流行りのzoom飲み会なるものがその典型だ。COVID-19の影響で、外出自粛要請が出され、金曜日の夜は少しばかり静けさを纏った。
その代わりに、人はzoomという仮想空間で金曜日の夜を過ごすようになった。制限されたはずの金曜日の夜は、姿を変えて舞い戻ってきた。これに限らず、COVID-19の影響を受けて様々な制限が設けられた。制限によってネガティブな影響を強く受けたヒトやモノも多いだろう。
一方で制限によって創造されたものや新たな発見があったことも事実である。

制限がある中でこそ、創造することができ、自由であるということが初めて言えるのではなかろうか。
フットボールを例に考えたい。フットボールは、ご存じの通りゴールキーパーを除いたフィールドプレーヤーは基本的には手を使うことができない。「手を使ってはいけない」という制限の中で、90分後に相手より多く得点を取ることを目指してフットボールをする。

じゃあ「制限」がないからといって、フットボールは「自由」ではないのかというと、そうでもない。フットボーラーたちは決められた「制限」の中で、どうすれば勝てるかを必死に思考し、プレーしている。
オフサイドやファウル、最近で言えばVARなど新たな制限が設けられるたびに、新しいフットボールが創造されてきた。
「制限」は、決して不自由ということではなく、むしろ「自由」であるために必要なものだ。

「制限」それはつまり限界を決めるということだが、往々にしてネガティブに捉えられる。だ
が、ここまでという線引きをすることで、その枠組みの中で自分にできることややるべきことが明確化される。
それが明確になれば、人は迷わず走り出すことができる。さらに「制限」があると、人は余計に思考する。「制限」の中で創造し工夫する。

社会、学校、会社、家族、どんなコミュニティに属していてもそこには何かしら「制限」があるわけだが、そのすべてが悪いわけではない。
「制限」は誰かを救うため、創造を生み出すため、「自由」であるためのものでもある。「制限」と「自由」は共存する。

#フットボールの探究

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