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1995

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一生に一度の大学受験なる体験
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#慶応大学

«1995» (13)

僕が上智大学に行くと決めて暫くした頃、高校の保護者会で、西條(仮名)という同級生のご母堂が、僕の母に聞こえるような声で 「普通慶応受かったら慶応行くわよねぇ」 とおっしゃっていたという。 よその子の進学先を批評なさるのは勝手といえば勝手だけれど、手前の倅は受けた大学が早々に全滅し、更には翌年も全滅、すなわち二浪の憂き目に遭うのであった…… 僕の母校には、妙なプライドで妙なマウンティングを試みる親を時々見かけたものだが、少なくとも自分の息子が僕と同じ大学に受からなければ、プラ

«1995» (12)

大学受験が始まる前、2学期くらいだったと記憶するが、担任と1対1での進路相談があった。 担任は英語の先生だったのだが、第1外国語にフランス語を選んだ場合、受験シフトになる高3では英語の授業はなくなるので、担任なのに受け持ちの授業がないといういささか奇妙な関係だった。   この先生、中2の頃«or»を「然らずんば」と訳したところ、文語体に触れたことのなかった我々生徒たちが「何じゃそりゃ?」と、今で言う祭り状態になり「シカラズンバジジイ」なる仇名が即日流通したことがあるのだが、そ

«1995» (11)

近年、受験の合格発表がスマホで完結することを知ったけれど、平成7年当時、携帯電話は通話しかできず、かつ誰もが持つレベルには至っていなかった。 パソコンにしても、Windows95の登場はこの年の秋を待たねばならず、家庭用インターネットは、ごく一部の人が電話回線から低速で接続して使うもので、大学側もウェブで発表などしていなかった。合格者のリストは受験者の自宅に郵送されるけれど、当日に結果を知りたければ大学に見に行くほかなかった。 大学受験がほんの少し前の出来事のように思う一

«1995» (10)

上智大学の面接を終えた後、記憶がやや曖昧ながら、慶応大学法学部の二次面接と、同大学の商学部を受験している。   慶応の面接は、個室ではなく大きなホールか体育館のような場所をパーティションで区切っていた。 上智と同様に2対1、面接官は2人とも男性だった。不思議なことに、上智の面接は克明に覚えているのに、この面接での出来事は殆ど覚えていない。 ただ、自分の経験を踏まえた意見や考えを述べる場面で、何度かフランスの事例を引き合いに出したところ、面接官から 「キミはフランスのことを言

«1995» (5)

外国語学部の一次試験の合格発表は、同じく上智大学を受験しに来ていた級友たちと一緒に見に行った。 国際関係法学科の試験終了が16時前、発表が17時だったので、時間を持て余し、お腹が空いているわけでもないのに食堂で五目焼きそばを食べた。妙に細かいことを記憶しているのは、自分でも不思議だ。 時間が来て掲示板を見に行くと、果たして僕の受験番号があった。 「わ!やった!」 と無意識に大声を出したのを覚えている。なにせ、日本史が難しかったから、受かるとは思っていなかったのだ。 一緒