序文(下書き3)

第2章 共同体の背景

 本章では共同体の社会的背景について論点を示したい。まずは逆説的に共同体より疎外されたもの、つまりは排外主義のような他者への暴力によって「排除・隔離・追放」の憂き目を被る個人から考えよう。ここで対象となる個人つまり「私」は、大文字の過去ではなく小さな過去によって形成される。そして文学を読む/書くとはその過去に現在を介入させ、いまここを立ち上げようとする野蛮な試みなのではないか。それは声にならない叫びに言葉を見出し、切れ切れの断片を滑らかに統一することであろう。まるで血みどろの臓器や暴れ回るマグマのような妄念を、肌理の細かい皮膚や穏やかな精神で包むかのように。
 ところで私は、先日フォロイーの方と豊田市美術館を訪れ、シンガポールのアーティスト、ホー・ツーニェン(1976-)の展示を鑑賞した。「百鬼夜行」と銘打たれたアニメーションによるスクリーン作品は、大東亜戦争をモチーフにしたものだった。大日本帝国は、大東亜共栄圏という「総駆り立て体制」(ハイデガー)のユートピアをなそうとした(私はフランス革命や明治維新、ロシア革命、三島由紀夫自決、全共闘、オウム、ネオリベ、ISに近しいものを覚える)。そのような共同幻想から疎外されたものたちが、この展示の「妖怪」なのではないだろうか。第二次大戦中に「マレーの虎」と呼ばれた山下奉文と谷豊は人虎となり、諜報員養成機関の陸軍中野学校のスパイたちはのっぺらぼうになる。そして軍国主義と複雑な関係を持った鈴木大拙はぬらりひょんに、深刻な戦争犯罪を起こしたとされる軍人の辻政信は偽坊主になった。大東亜共栄圏は滅び、「妖怪」たちは四散して新たな共同体の創造をもくろむ。それは大文字の過去から疎外されて「ひび割れた私」(ドゥルーズ)が集まる場としてあり、教派(ゼクテ)または結社やギルド、クラブや団体と呼称されるものに近いのではないか。
 トクヴィル『アメリカのデモクラシー』では、十九世紀アメリカの結社を評価している。宇野重規『トクヴィル』は結社をこのように説明する。

政治的結社は自己のうちに閉じこもりがちな個人を、抽象的な他者一般の影、すなわち「多数の声」の影響の下に従属させるのではなく、むしろ、一人ひとりの具体的な他者へと結びつけ、「デモクラシー」の社会における新たな社会的紐帯の基礎となりうるからである。逆に結社活動が活発ではない「デモクラシー」社会においては、個人は砂粒のようであり、一人ひとりの個人は互いに結びつきを欠いたまま、自分と同様の砂粒から成る巨大な固まりの重みに圧倒される。
(講談社学術文庫、134頁)

 芥子粒のような砂の個人から具体的な他者と結びつく「ひび割れた私」へ。ここでお恥ずかしながら自分史を開示してみよう。私は小学四年生のとき漫画クラブを作った。主な活動は数人の男子児童とともに「4の2ジャンプ」を発行することだ。とにかく楽しかった。同じようなことを中学二年生のときにも行った。それは「2の3ヨンデー」だった。これも楽しかった。しかし中学三年生で私は不登校になった。学校という共同体から疎外され家にひきこもった。通信制高校生になった十九歳のときに大学の映画研究会に入った。楽しかった。しかし失恋を契機に二十一歳で上京した。二十三歳で通信制大学に入学してまたぞろ通学課程の映画研究会に所属した。楽しかった。だが中退した。そしてはじめに述べたとおり、同人サークルを二十九歳で作った。漫画クラブと映研、同人誌。これが私のコミュニティ遍歴である。しかしそれは不登校、上京、中退という共同体から離脱するアクションとセットになっている。
 宇野はトクヴィルのいう結社を「個人が異質な他者と出会い、異質な他者とともに行動することを学ぶ場」としている。また宇野はトクヴィルを「都市の遊歩者」とする。コミュニティは都市と疎外の中にある。リアルとネットは都市とのコミュニケーションによって活性化する。
 戦中には天狗信仰が流行したそうだ。天狗は武芸に秀でているからだ。しかし天狗には、人を「神隠し」に合わせる負の側面があったという。前章で私の夢とした「神隠しの弁護士」とは天狗のことなのだろうか。共同体からの疎外とはいわば「神隠し」だ。人は天狗になることでホモソーシャルな共同体から離脱して、新たな結社の創造を反復するものであれ。それは同一の共同体であっても不可能ではないはずだ。
 第3章ではまとめとして現在抱えているコミュニティの問題点と改善法を文学や音楽の角度から考えてみたい。

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