日記(1)

2019年10月29日

 読書のモチベーションを上げるために今日から日記をつけたいと思う。本当は書評や批評をやりたいけどハードルが高いので、日々の雑記を綴りつつ読了したり考えがまとまったりしたら日記とは別でそれらも書いていく予定だ。
 
 カフカは全力をもって作者たらんと努力した。彼は自分が作家になるのを邪魔されたと思うたびごとに絶望した。彼は父の工場を引き受けて、二週間も書かなかったと考えたとき、自殺しようとした。彼の「日記」の大部分は、その「日記」のなかに数語でも書くという結果に到達するために、いろいろな事柄に対し他人や自分自身に対して続けなければならない日々の闘いを中心に廻っている。こうした執着は涙ぐましいものだが非常に稀有なものではない。カフカの場合、彼の精神的宗教的天職を満たすために彼が選んだ手段が文学であるということを認めるならば、この執着はもっと自然に見えるだろう。自分の全生活を自分の芸術に賭けたのだから、この活動が他の活動に彼を手渡さなければならないときには、彼は自分の生活がまったく危機に瀕したと思うだろう。なぜならその時、本来の意味において、彼は生きていないからである。
(モーリス・ブランショ『焔の文学』重信常喜訳・紀伊国屋書店)

「読むこと・書くこと」漱石、芥川、太宰、川端、安部、三島、大江、古井、ハルキ、多和田、阿部。みなどんな日にも机に向かうことを怠らない作家たちなのではないか。いくら書けなくとも机に座り書こうとする努力だけはしてみる。そしてどんな文章だろうと勇気をもって書いてみる。すべて反故にするとしても。
 自分が商業作家になれるとは到底思えはしないが、これらの作家たちの書く姿勢だけは見習いたい。もちろんあえて書かない時期も必要なんだろうが、いまはどんな雑文・駄文だろうとなにか書き記しておきたい。
 小説は十枚まで書いて止まってしまった。それがこの日記をはじめたきっかけでもある。なにか日々の雑念を吐き出したい、吹き払いたい、そんな邪気払いのつもりもある。
 読書のほうも芳しいとはいえない。アインシュタインの書簡を読んで、「生の現実」と「紙の上の文字」という言葉が響いた。これはデカルトの『方法序説』にも相通じる。
 今日はこのあたりで終わりたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?