日記(7/15)

 昨日は冊子の編集作業などで朝方に眠った。その合間に東浩紀「考えることを守る」(『群像』2020年7月号)とジョルジョ・アガンベン「エピデミックの発明」「感染」「説明」(『現代思想』2020年5月号)を読んだ。余談だが「パンデミック」という言葉は1997年にユーロスペースで観たラース・フォン・トリアー『パンデミック』で知った。たしか連続テレビドラマだったと思う。東とアガンベンの主張は似通っていたところがあった。それは東の言葉では「批評の場」の創造であり、アガンベンの言葉では「大学や学校が閉鎖され、授業がオンラインだけでおこなわれ、政治的もしくは文化的な話をする集会がこれを限りと中止され、デジタルなメッセージだけが交わされ、いたるところで機械が人々のあいだのあらゆる接触ーーあらゆる感染ーーの代わりになりうる」ということへの危機感である。それで咄嗟に思いついたのはハンナ・アーレントの概念「言語的コミュニケーション」だった。これは、アーレントが人間の活動のうえで欠かせないものとした、labor、work、actionの三つ目に該当する活動のこと。もちろん、マルクスの「社会的言説」、ネグリの「社会的主体性」ともつながるものだろう。「労働によって埋め尽くされた状態に言語的コミュニケーションを取り戻す」(『ネグリ、日本と向き合う』大澤真幸)。しかしてここではプロレタリア独裁のようなユートピアはないだろうし、「創造性、天才性、永遠性の価値、神秘といった、一連の伝統的概念」(ベンヤミン)もないはずだ。芸術国家でも階級のない社会でもない「絶対的な王のいない闘争の場」としての言説空間。そして現代社会においては労働環境の悪化から自由な言説は封じられている。憲法上、思想信条の自由は保障されていようが自由に討議できる「場」は日本にはない。それでSNSなどに逃げ場を求めるわけだ。しかしその場はクソリプ、裏アカ、荒らし、なりすまし、冷笑、ヘイト、鍵アカ、毒吐きで溢れている。たしかに問題は外にあるから内側で問題が多発する。それでも無償労働のSNSに、総駆り立て体制で、プラットフォームに奉仕するだけのSNSに、人々は自己破壊的に、見せ物小屋的に、「汝の潜在意識を表出せよ」という内なる囁きに唆され、生政治を上演しつづけるのだ(この点は宮澤隆義「舞台なき舞台」(『G-W-G』2020年4号)参照)。「戦争状態は、いつの世も変わらず永遠だとされた制度や義務から永遠性を剥ぎとり、それによって無条件的な命法をすべて一時的に無効にする。戦争状態は、人間の行為にあらかじめ影を落とす。戦争は単に道徳が生きる糧にする試練のひとつにーー最大の試練としてーー数えられるだけではない。戦争は道徳を笑いの種にしてしまうのだ。万策を講じて戦争を予見し、戦争に勝利するための技法ーーつまりは政治ーーが、それゆえ理性の行使そのものとして重きをなすに至る。政治は、哲学が素朴さと対立するのと同じような仕方で、道徳と対立するのである。」(レヴィナス『全体性と無限』)。限界生活のプロレタリアートと低回趣味に陥っているルンペンプロレタリアートのひとまずの妥協案は、レヴィナスの指摘の通り、道徳、政治、哲学の場を国家主権から取り戻すことにある。

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