日記(15)
2019年12月18日
火曜日は生憎の天気で、不眠による疲れからようやくまとまった睡眠をとることができたこともあって、体調回復に努めようと外出は控えた。
それで半日を、書簡の執筆と高村光太郎『智恵子抄』(新潮文庫)に当てた。『智恵子抄』はミスチルの桜井和寿の愛読書としても有名だが、個人的にも思い入れのある詩集で、むかしの習作に登場させたり、途中まで読んだりしていたのだが、初めて読み切った。
──私は口をむすんで粘土をいぢる。
──智恵子はトンカラ機を織る。
──鼠は床にこぼれた南京豆を取りに来る。
──それを雀が横取りする。
──カマキリは物干し綱に鎌を研ぐ。
──蠅とり蜘蛛は三段飛。
──かけた手拭はひとりでじやれる。
──郵便物ががちやりと落ちる。
──時計はひるね。
──鉄瓶もひるね。
──芙蓉の葉は舌を垂らす。
──づしんと小さな地震。
油蝉を伴奏にして
この一群の同棲同類の頭の上から
子午線上の大火団がまつさかさまにがつと照らす。
(「同棲同類」)
『智恵子抄』というと官能的な性愛の詩集であり、なによりも智恵子の狂気にクローズアップされた印象を抱いていたが、このような二人の仲睦まじい生活の描写が活き活きとしており、新しい発見だった。
これは吉増剛造にも同じようなことがいえる。近年の彼のタイポグラフィカルな詩作や初期の「朝狂って」のどぎつさに少々気圧されていた僕でも、『続続・吉増剛造詩集』(思潮社)収録の「絵馬、a thousand steps and more」と「青空」を読むと、その刺々しい印象は一変した。なにか前記の詩篇には切実さを仮構した嘘が含まれていると受け取ってしまう自分がいる。
月曜に観た『ベトナムから遠く離れて』では、ゴダールが「ベトナムの叫びは、われわれの叫びである。われわれはわれわれの内なる叫びに耳を傾け、われわれ自身も叫ばねばならない」というようなことを言っていた。
僕は、高村と吉増の詩に「叫び」を聞いた。僕も叫びたい。
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