『山羊の大学』第三号目次&序文(抜粋)

二〇二二年九月二五日の文学フリマ大阪で、『山羊の大学』第三号(漫画特集)を、メルキド出版のブースで販売予定(初刷り一〇〇部)。
 
書誌情報

誌名 山羊の大学 第三号 
出版元 メルキド出版
レーベル トルーマン

A5判 250頁程 紙製 1000円

目次

巻頭漫画 
山中美容室
「いいきぶん」

序文 
沖鳥灯
「新世紀のサブカルチャー」

特集1 漫画家と本
有島みこ
「平坦な日常でそれでも僕らが生き延びること 大島智子『セッちゃん』論」
木耳
「フィクションの自立性を考える──藤本タツキとゼロ年代批評」
Yoshioka
「考察・伏線回収・陰謀論」
Kiaro
「感情のアルバム」

特集2 藤本タツキVS阿部和重
不逢言哉
「イージー・リベンジ!」
灰沢清一
「Premium Bomber」
織沢実
「青い町を、ミルクの河が流れる」

論考
ヤマグチ
「ある死者の証言 アシア・ジェバール『墓のない女』第12章について」
芳野舞
「遍在する「穴」──ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』第六挿話についての一考察」

短篇
おさかな そこ
「満月の夜の海の話」
山坂槿
「下山の三島と口紅って三島由紀夫の三島なの?」
古戸治良
「さかえだ線」

紀行
佐藤智史
「随想紀行録」

写真・装幀
Yoshioka

以下に「序文」の一部を抜粋いたします。

 序文
 新世紀のサブカルチャー 
 
 沖鳥灯

一九八二年十二月六日午後二時十七分
関東地方に新型爆弾が使用された…
『AKIRA』大友克洋

 韓国併合、中国戦線、南方戦線、太平洋海戦、大空襲、ソ連軍侵攻、沖縄地上戦、二発の新型爆弾などでもたらされた日本の戦後とは何なのか。一九五六年「もはや戦後ではない」は流行語になった。私はこの言葉に長らく違和感を抱いてきた。大澤真幸は『戦後の思想空間』(一九九八)で現在を「戦前」とした。私は「いまだ戦後である」と反駁したい。個人的に戦後史を概観するに、「政」→「性」→「生」→「正」→「聖」という時代変遷になるのではないか。
 五〇年代の貸本漫画ブーム、六〇年代の漫画雑誌ブームと劇画ブーム、海外カウンターカルチャーの輸入、七〇年代のコミックマーケットの創設、八〇年代の「おたく」の名づけとファミコンの発売、九〇年代のアニメ・ゲームの隆盛による「オタク」の登場とブックオフ・アマゾンの創業、ゼロ年代(二〇〇〇年代)のサブカルチャー市民権獲得と「OTAKU」の普及、テン年代(二〇一〇年代)の新海誠の世界的大ヒットと京都アニメーション放火殺人事件。そして二〇二〇年代の感染症流行による出版不況緩和と元首相銃殺事件で明るみになったカルト問題。
 私は一九七五年生まれの「アトムの子」だ。先行世代ほどの知識を持たず、後続世代のカジュアルさもない。中途半端でネガティブな世代だろう。私は戦後史とともに成熟できない「戦争と革命を知らない子供たち」だ。九〇年代からの経済戦争なら当事者である。一九七三年のオイルショックで高度経済成長は終わったといわれる。一九七〇年の三島由紀夫自決。一九七一年の志賀直哉死去。一九七二年の川端康成自害。柄谷行人は一九九二年の中上健次死去で「近代文学の終り」を謳った。がしかし七〇年代ですでに近代文学は終わっていたのではないか。一九七九年の村上春樹デビューは止めの一撃だろう。
 時は流れ三島の死の五十年後に「内向の世代」の古井由吉は亡くなった。そして川端の死の五十年後に「政治の季節」を生きた石原慎太郎は亡くなった。三島と川端という近代文学の最終ランナーの死から現代文学の革新性を開拓してきた古井と石原の死。三島/川端以後の文学は一九九三年の安部公房の死と一九九四年の大江健三郎のノーベル文学賞受賞でひとつの特異点を迎えた。また二〇一七年のカズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞はイギリス国籍ながら内外へのインパクトは大きい。とはいえ古井/石原以後の文学を模索していくことに変わりはない。そのためには戦争/革命とサブカルチャーは無視できないのだ。 
 本誌は戦後に落ちた「新型爆弾」としてのサブカルチャーの台頭を踏まえ「漫画家」にスポットライトを当てる。二〇二〇年代のサブカルチャーの特異点に照準を合わしたい。日本の近現代史は右翼の戦争の失敗と左翼の革命の失敗に顕著だろう。この二つの大失敗を踏まえ、いまの時代の文学とサブカルチャーのクロスオーバーを目指す。
 私は年少のころより水木しげるが好きだった。妖怪漫画だ。大人になって水木の戦争漫画や『昭和史』を読んでいる。水木は戦争当事者である。彼の漫画に宿る迫力と説得力は大岡昇平や小島信夫、島尾敏雄に匹敵するだろう。
 平成の時代に戦争漫画は数多くあった。例えば、こうの史代『この世界の片隅に』(二〇〇七—二〇〇九)や今日マチ子『cocoon』(二〇〇九—二〇一〇)などである。両作ともに非当事者による戦争漫画だ。本稿は時代の当事者/非当事者について論述しようと思う。「当事者を回避している」(東京事変『群青日和』)。戦後の永続を断ち切るために戦後の非当事者から当事者であることに自覚的でありたい。だがこの区分は明確に線引きできるものではない。境界線は曖昧だ。この線を飛び越えるには想像力と知識が必要だろう。統一と分類の力である。そのために失われた歴史を再構築しなければならない。
 漫画の歴史を紐解くうえで大友克洋以後という区分はいまでも有効だろう。一九五四年宮城県生まれの大友は一九七三年『漫画アクション』でデビューした。『ヤング・マガジン』で『AKIRA』連載から四十年後の二〇二二年一月『大友克洋全集』の刊行が始まった。一九八九年の手塚治虫の死去を経て、一九九三年『AKIRA』は完結した。
 大友はサブカルチャーの特異点ではないか。大友の画力とストーリーテリングは暗号解読の可能性/不可能性になる。解読によって未来を創造する力こそサブカルチャーの所以なのだ。
 
「世界の未規定性」を、いわば一ヵ所に寄せ集めて、「世界」の中の特異点(特別な部分)として表象する。この特異点を社会システム理論では「サイファ」(暗号)と言います。
(『サイファ覚醒せよ!』宮台真司 速水由紀子)

「世界はメタファーである」は「世界はサイファである」と変換可能だ。情報の渦の中で暗号化され、眠っている世界を目覚めさせること。
 手塚・大友ラインから九〇年代的想像力は生まれた。「オウム以後の世代」(第二の戦後)に向けた「九五年の思想」(エヴァンゲリオン・終わりなき日常を生きろ・ゴーマニズム宣言)によってサブカルチャーはさらに加速する。
 九〇年代は完結ラッシュだった。一九九三年『YAWARA!』、一九九四年『風の谷のナウシカ』『機動警察パトレイバー』、一九九五年『寄生獣』『14歳』『ドラゴンボール』『幽☆遊☆白書』『 BANANA FISH』、一九九六年『らんま1/2』『SLAM DUNK』など(ちなみに新連載としては、一九九四年『名探偵コナン』、一九九六年『賭博黙示録カイジ』、一九九七年『ONE PIECE』、一九九九年『20世紀少年』『NARUTO—ナルト—』など)。
 新世紀において、私は藤本タツキと阿部和重に注目したい。彼らほど表現の不自由さに自覚的な作家はいないだろう。なぜ漫画特集に阿部和重をぶつけるのか。順を追って理由を述べよう。 
 阿部和重の九〇年代は『アメリカの夜』(一九九四)、『ABC戦争』(一九九五)、『インディヴィジュアル・プロジェクション』(一九九七)など「自意識/もうひとつの自我」の「心理主義」だった。新世紀は『ニッポニアニッポン』(二〇〇一)の「ひきこもり」から始めた。さらにゼロ年代からテン年代にかけて、「サヴァイヴ感」と「日常系」を大胆にミックスした『シンセミア』(一九九九—二〇〇三)、『グランド・フィナーレ』(二〇〇五)、『ミステリアスセッティング』(二〇〇六)、『ピストルズ』(二〇〇七—二〇〇九=連載)、『オーガ(ニ)ズム』(二〇一六—二〇一九)の「神町サーガ」を著した。
 いっぽうでゼロ年代は、深夜アニメや『まんがタイムきらら』(二〇〇二—)、『コミック百合姫』(二〇〇五—)などが流行。新しい想像力としての「日常系」の存在感が増した。
 テン年代は、『バクマン。』(二〇〇八—二〇一二)からの自己実現ブーム、王道漫画『NARUTO—ナルト—』(一九九九—二〇一四)の完結、『鬼滅の刃』(二〇一六—二〇二〇)、『呪術廻戦』(二〇一八—)、『映像研には手を出すな!』(二〇一六—)、藤本タツキ『ファイアパンチ』(二〇一六—二〇一八)、『チェンソーマン』(二〇一九—二〇二〇=連載)、『ルックバック』(二〇二一)などの人気が爆発した。三・一一、コロナ禍などの社会不安で、ゼロ年代の「セカイ系」や「サヴァイヴ感」の揺れ戻しが起きた。
(続きは本誌で)


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