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近況報告

最後にアルバイトをしたのは2002年初春。千代田区のビルで清掃作業員をしていた。あれから20年以上たった。2022年12月20日。個人事業主として開業した。翌日開業届を税務署へ送付した。ラクスルで100枚の名刺を注文した。ジンドゥーでホームページを作った。自社ロゴマークのゴム印の発注をした。なんだろう。「卒業しない・就職しない・結婚しない」の「三無主義」を唱えて悦に入っていた30代から40代。あっという間に時は流れて自分はすでに50歳近い。この期間は日記を記し、新聞を読み、散歩して、主に文学を好み、映像を嗜み、音楽に浸った。実生活で家族以外とのコミュニケーションはインターネットを除いてほぼほぼない。学生時代の映画サークルのOBとは極稀に会う。カフェの店員さんや美容師さん、かかりつけ医と極たまに話す。それぐらいの標準的なロストジェネレーション世代。いや労働と勉学による身体的・精神的ハンディキャップはいまでも抱えているが社会的・経済的にはとても恵まれているのだろう。夏目漱石や森鴎外は書斎派・余裕派と蔑称されたらしい。漱石『硝子戸の中』では様々な有名無名の人びとが語り手の家を訪ねる。語り手は時に柳の風のように、時に真に受けて対応する。その態度が頗る滑稽で柔和だ。鴎外「かのように」では深夜の家で友人どうし神学問答を繰り広げる。確かに余裕のある書斎暮らしでないと成立しない世界だろう。
ブランショはボルヘスを引いて部屋を迷宮に例えた。「部屋は砂漠だ」「部屋で迷子になれ」「部屋で遭難しろ」というように。書斎は安全ではない。危険なのだ。アガンベンは『書斎の自画像』で書斎=アトリエの潜勢力を説く。自らの書斎を記述することは創造なのだ。一冊の本には複数の本が潜勢しているのだろう。むろん一人の人間とて同様である。
梶井基次郎「冬の日」は複数の他者が入り乱れる。私小説とは自己を描くことではない。他者との関係を克明に描出することだ。デカルトは『方法序説』で書物の虚偽を衝き、人間社会に降りる。外の世界を飛び回る。そして一人部屋に帰還し、本を著す。
いまの自分は外の世界と関係を築くことを優先している。だがいつか30代のように一人ひきこもり単調な生活を送ることになるだろう。それまでは開業の意味があるというものだ。外と内。インターネットだけが外部だった私はいま変われるのだろうか?
台風の進路が台風そのものの力ではなく周囲の大気の流れによって決まるように、私の未来は社会および直接・間接の人間関係によって動いている。それは生身の人間に限ったことではない。無機的な本の文字には時に生命が宿る。私は一冊でも多くそのような本を作りたい。複数の一人として。


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