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後藤明生の話

二〇二二年十月二十日

夕飯は鮭とかぼちゃコロッケを食べた。食後、櫻坂46を聴いて仮眠した。体調は回復傾向だ。
アニメ『チェンソーマン』を第二話まで観た。放送終了を待ってまとめて消化しようとしていたが我慢できなかった。危惧していたとおり演出過剰だった。むしろ原作のよさが際だった。最新十二巻はまだ読んでいない。藤本タツキはカルト的な人気のせいで多くの誤解を生んでいる。哀しいことだ。
さて、今日も眠れない。しょうがないので後藤明生の話でもしよう。とはいえ後藤は記憶が曖昧になるほど読み込んだ作家だ。同人誌で論考を書いたこともある。所詮ブログなのでお気楽に書くつもりだ。秋の夜長よろしければお付き合い願いたい。
後藤を知ったのは蓮實重彦『魂の唯物論的な擁護のために』(日本文芸社、一九九四)だと思う。兄が購入した書籍で蓮實と高橋源一郎の対談を読みたくて貸してもらった。そして「小説のディスクール」という後藤との対談も収録されていたわけだ。対談は後藤が近畿大学で教えている話から始まる。柄谷行人も近大の講師だった。
次に再会したのは群像新人文学賞の選考委員としてだろう。九〇年代、柄谷行人、高橋源一郎、田久保英夫、李恢成らと務めていた。当時二十代の私は後藤の顔写真に釘付けになった。整った服装、虚空を漂う目線、洞ろな鼻腔、吸い込まれそうな口元。正体不明の老人だ。岐阜の友人はホルヘ・ルイス・ボルヘスのようだといった。
ところでETVの埴谷雄高を観た際も同様の衝撃を受けた。奇妙キテレツで怪異な老人。寝間着姿から覗く胸板を見て、友人たちと洗濯板老人と嘲笑したものだ。後藤をテレビで観たことはないし、リアルでの面識もない。
一九九八年初春。早稲田文学編集室の友人に阿部和重の群像新人文学賞受賞時の『群像』(一九九四年六月号)をコピーしてもらった。『アメリカの夜』はすで読んでいた。コピーは評論部門の当選作『原形式に抗して』だった。作者の池田雄一は『早稲田文学』の編集長を務めていた。池田は近大から法政大学に移った柄谷の教え子だった。
その掠れたコピーにも後藤のとぼけた顔が写っていた。いま手元にあり久方ぶりに眺めると相変わらず超然とした顔つきである。後藤は一九九九年八月に亡くなるわけで、余命五年の身なのだが悲壮感の欠片もない。こんな老い方をしたいものだ。
つまり後藤の初読は小説ではなく対談や選評だったわけだ。とくに『アメリカの夜』の選評は後年東浩紀が批判したこともあって有名である。終盤の「墓誌の誘惑」を「いささか「文学」的」と評したくだりだ。東はあの終わり方こそが文学を逸脱しているとした。
先述のとおり一九九九年八月に後藤は亡くなる。私は通信大学生として水道橋で学んでいた。記憶はあやふやだが、後藤の死後に神保町で『挾み撃ち』(河出書房新社)の古本を百円で買って読んだのだろう。岐阜の友人に薦められて手に取ったのだと思う。私は浅草のマンションを借りていた。警察の宿舎を近隣で建設中で騒音がひどかった。建築主は石原慎太郎。毎朝、石原を呪詛して起床したものだ。読み終えたのは同年の冬ごろだろうか。所属していた映画研究会のコネで『シックスセンス』の試写会を観る機会があり、その道すがら後藤の話をした記憶がある。もちろん誰も後藤を知らなかった。
『挾み撃ち』は正直よくわからなかった。次に読んだ『首塚の上のアドバルーン』はもっとわからなかった。途中で放り投げた。後藤に立ち返ったのは帰郷後『吉野大夫』を読んでからだ。きっかけは阿部和重だった。『作家の読書道』でデビュー前に大きな影響を受けた本として『吉野大夫』を挙げていた。『昭和文学全集30』(小学館)で読んだ。ほかの収録作に『謎の手紙をめぐる数通の手紙』があり、短篇ながら長篇の『吉野大夫』と並ぶぐらいの衝撃を受けた。それから図書館やアマゾンで後藤の著作を片っ端から漁りだした。
後藤の話はこれから長くなるので割愛する。まとめとして今年の文学フリマで後藤の講演CDを購入した際、生前後藤が所有していた4Bの鉛筆がおまけで当たったことをご報告する。嬉しかった。ありがとうございました。

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