村積日記(1)
2020年12月29日
今日から新たに日記をつけようと思う。これまでも「日記」として身辺雑記を綴ってきた。だが今後は、市内の山の名を冠した「村積日記」として心機一転臨みたい。
このタイトルは、武田百合子『富士日記』(中公文庫)に触発されたものである。とはいえその上中下巻の本は上巻のみの所有でしかもそれさえ完読できていない。百合子の夫・泰淳の短篇はいくつか読んだ。「目まいのする散歩」「「ゴジラ」の来る夜」「異形の者」。フォロワーの卒論で知ったもの、地元の先輩から知ったもの、バイト先の上司の論考で知ったものなど思い入れの深いものばかりだ。あとは長篇『富士』(中公文庫)を持っている。これも友人から教わった。他者の呼び水で知り得る本は特別な関係性を自己と結べる。いまではSNSで偶発的に知覚してしまう情報のなかで、書名や作家名、書影、引用等々、新規開拓の糸口は広がったように思える。そのなかで「自分の読むものを自主的で個人的な趣味と欲求に従って選ぶこと」(ヘルマン・ヘッセ)が重要になる。そしてそれには「書物の世界に対しても、自主的で友情のこもった親しい関係をもつこと」(同)が求められる。
しかしデカルトの『情念論』のように人間には好ましいものと嫌悪の両義性が存する。それは身体感覚の快・不快に留まらずもっと心的な根深い情動である。この善悪を超えた情動にどう対応すればよいか。カントは「世界が何であるか」から「私たちにとって善とは何か」という命題代えをした(平原卓を参照)。つまり道徳である。自分が小学生のころ「道徳の時間」があった。好きなカリキュラムだった。「自由時間」や「ゆとり」「自習」と名称が移り変わったような気もする。まえまえから「道徳」を学ぶ場は過剰な過保護となり機能していないのではないか。道徳とは「なにもしない遊び」で培われるものだと思う。この日記も極力なにもしないように努めたい。
今日は朝十時ごろ起床した。スマホを弄り、顔を洗い、歯を磨き、朝食を取る。コンビニで中日新聞を買って公園のベンチで読む。ミスチル『ボレロ』を掛けながら本の整理。くだんの『富士日記』を手にする。あとは『天使の恥部』『第三の警官』『孤独と人生』『逝きし世の面影』等々。リゾットを食べる。サカナクション『キクウイキ』、コルトレーン『ブルートレイン』『ジャイアントステップス』、宇多田ヒカル『ディープリバー』を聴く。来年1月から5月の予定をざっとノートに書き出す。県内日帰り旅行をしたい。母が接骨院に行く。あまりに暇で日記をつけることを思いつく。晩ご飯を食べる。日記を書く。
先日、映画館の求人情報をインディードで調べた。良さそうな条件がひとつあったがアクションは起こさなかった。眼鏡と時計を新調しようとほうぼう探すも決め手に欠ける。諦めた。本をいろいろ注文。ブックオフウルトラセールが楽しみだ。その分、生活の倹約と節制が続く。
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