解放のあとで 一通目 β

2020年6月4日

 一巡目のテーマ「アフターコロナ」に際して、手はじめに別の話をしよう。それはこの企画の姉妹篇でもある「生存書簡第二期」でも語られたサミュエル・ベケットについてだ。私が読み終えたベケットの作品は限られている。「鎮静剤」「追い出された男」「終わり」『モロイ』『ゴドーを待ちながら』と「反古草紙」を読みさし。あとは高橋康也『サミュエル・ベケット』とジェイムズ&エリザベス・ノウルソン『サミュエル・ベケット証言録』を斜め読みしたくらい。そして『マロウンは死ぬ』『名づけえぬもの』『ワット』『事の次第』は長らく積んでいる。これにくわえ先日、『ジョイス論/プルースト論』(詩・評論集)を手に入れた。ベケットを読むのはつらい。苦行にちかい。ブランショよりはマシだが。これらを踏まえ、私はベケットとコロナ危機による生命的、生活的、精神的な苦痛にひとつの徴候があると思った。
 ではまず私の手帳のコロナ関連の記述を拾う作業から話を本題に返す。

2月28日(金)外出制限自発的3週間
3月2日 (月)全国小中高コロナ対策
3月25日(水)東京五輪来年夏延期予定
3月26日(木)文フリ中止通知メール
3月28日(土)東京外出自粛土日
3月29日(日)志村けん死去 
3月30日(月)東京平日外出自粛
4月7日 (火)緊急事態宣言発令(8日から)東京・神奈川・埼玉・千 葉・大阪・兵庫・福岡
4月9日 (木)愛知緊急事態宣言要請
4月23日(木)岡江久美子死去
5月6日 (水)緊急事態宣言延長(5月31日まで)
5月13日(水)愛知解除
5月25日(月)東京宣言解除(前倒し)
6月1日 (月)ソオダ水営業再開
※個人的記録のため不足・不明瞭な点があると思われます。

 今回のテーマは「アフターコロナ」だが、リレー書簡の総題は「解放のあとで」であり、これからの連載はコロナ収束・終息のあとの「新しい生活様式」を謳うものではなく、あくまで〈解放後〉の混乱もしくは心情をそれぞれが書き残すためのものだと私は理解している。では〈解放後〉の詳細は後述し、まずは自粛期間中にどう過ごし、なにを読んだかを振り返ってみたい。じつはこれが眼目であるベケットを読むこととコロナ危機について考えることに結果的に繋留されるものだと思われる。
 まずは端的に読了した本を挙げてみる。

中島敦「かめれおん日記」
コルタサル「遙かな女──アリーナ・レエスの日記」
寺尾隆吉『フィクションと証言の間で』第六章
古井由吉「遺稿」
夏目漱石『硝子戸の中』
村上春樹『猫を棄てる』
古井由吉「行方知らず」「たなごころ」(『この道』収録)
福嶋亮大「ハロー、ユーラシア」(『群像』2020年6月号)
ウエルベック『ある島の可能性』

 以上10点ほどである。自粛期間を東京都の要請からカウントすれば3ヶ月近くあったわけで、それでこの冊数は一応文学が趣味だと広言している身としては少ないし、自分の過去の月別冊数と比較してもやはり少ない。つまり自粛要請による「stay home」は趣味の読書を著しく不活性化させたのだ。なるほど、つまりこの点がベケットと接点を持つのか。このことをもっと多角的に考察するため新規にベケットの著作を読んでみたい。とりあえず前掲の『ジョイス論/プルースト論』から取り急ぎ「ヴァン・ヴェルデ兄弟の絵画──または世界とズボン──」(岩崎力訳)を読んでみる。
 これはベケットがフランス語で書いて初めて活字になった評論である。端的にいって美術愛好家を激烈に批判し、友人のヴェルデ兄弟の絵に賞賛を与える。ところでこの論考のまえにデイヴィッド・ロッジ『小説の技巧』(白水社)を読んだ。そこではベケットの『名づけえぬもの』について書かれており、ロッジは本作を「零度のエクリチュール」と評している。バルトは「文学は打ち負かされ、人類の諸問題が粉飾抜きで暴かれ、書き手は取り返しようもなく正直になる」とこの概念を定義している。このような境地はさきの論考においても感受するものだ。つまり「絵画は打ち負かされ~」「言語は打ち負かされ~」に変換可能なわけだ(岩崎の解説にもそうある)。「生存書簡」において私はベケットを「言語の作家」と名指した。だがむしろ「非言語の作家」「名状しがたい作家」とするほうがより妥当だろう。とはいえバルトやロッジが指摘するようにベケットを読むことには快楽がともなう。私はベケットを読むことは苦渋でありそれはコロナ危機の困難さに通底するものではないかと暗に示唆したつもりだ。ここに快楽と苦渋という二律背反が生成する。コロナの自宅謹慎からあたかも読書が進む創作が進むと踏んだ向きも当初はあった。だが読了の結果を見てみれば御覧のとおり散々なありさまである。言語には快楽と苦渋が隣り合わさる。たとえば「ヴァン・ヴェルデ兄弟の絵画」には次のような一節がある。

人間が相互に愛しあうことを考え、隣の庭師と喧嘩せず、このうえなく単純に生きることを考えるためには、疫病であり、リスボンが必要であり、宗教問題に起因する大虐殺が必要なのだ。
(216頁)

 さらには

 それが芸術界にはとりわけたっぷりと降り注がれている。残念なことだ。なぜなら、芸術が営まれるためには、格別大異変が必要だとも思われないからである。
 損害はすでに相当なものになっている。
(同)

「損害はすでに相当なものになっている」。つまり大虐殺、大異変はすでにあり芸術は絶えず危機に瀕しているのだ。ヴェルデ兄弟のように。ゆえに私が本を読めなかったのはコロナとはいっさい因果関係はないのかもしれない。きっとそうなんだろう。アフターコロナ、世界はどうなるか。世界が変わろうと変わるまいと私たちが生きることあるいは死ぬことには変わりはない。そんな思いでこの書簡を書いていきたい。つぎの投稿者にはぜひこの3ヶ月どのように過ごしたのかをしたためてほしい。そしてそのときあなたはなにを読み、なにを思い、これからなにを読み、どうしたいのかを訊いてみたい。

松原

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