解放のあとで 九通目 β

2020年8月7日

Yoshiokaさんへ

 8月になり、6月に始まったこのリレー書簡も残り半分まできました。最終月は当初の目的である「前衛アンソロジー2」についての討議をするとして、今月はその結末に向けてざっくばらんに考えを膨らませていきたいものですね。
 7月は、徒然な日記でも書いたとおり短篇ばかりを読んでいました。それは8月も続きそうな気配です。上旬は森鴎外「山椒大夫」をゆっくりゆっくりと読みました。それから県図書で借りた『紅いコーリャン』(中国、1987)を観ました。ノーベル文学賞作家・莫言の原作で、北京オリンピック開会式の総合演出・張芸謀の監督作です。血とコーリャン畑の衝撃を浴びました。
 さて、先週のYoshiokaさんのロラン・バルト『明るい部屋』を拠とした書簡を拝読させていただきました。いま手元にその本があります。これはたぶん自分がもっとも多感であった時期の1990年代末に購入したはずです。開いてみれば「小宮山書店 東京神田神保町」のラベルが貼ってあります。「2000」円と鉛筆書きもされています。とはいえ僕のことですから読了したのはそれから4、5年後の2003年でした。なぜ覚えているかといえば大学の課題図書だったからです。僕は2003年に東京の大学を中退して京都の大学に編入したどうしようもないどら息子でした。その先で始めに読んだのが『明るい部屋』(みすず書房、1987)でした。一読して虜になりました。夢中でレポートを書いた記憶があります。ですからYoshiokaさんの文章を読むにあたり当時の感情が伸びやかに甦ってきました。と思い出話に花を咲かしてばかりですが、もうちょっとお付き合いください。
 時代は戻って1998年。ちょうどバルトの本を買ったであろう時期、僕は早稲田文学編集室のお手伝いをしていました。とはいえ2ヶ月ほどの短期バイトみたいなものです。そのときの編集長は池田雄一でした。バイトをするには必ず試験があり、中上健次についての小論文を書かされるのですが、僕は友人の紹介だったため免除されました。というかほとんど仕事という仕事はしませんでした。池田さんは法政大学で柄谷行人と出会い、批評家の道を歩まれた方です。それまでは陸上の短距離走者だったそうです。また大学卒業後は写真の専門学校に通っており、その傍ら手なぐさみで書いたという論考が新人賞を受賞。専門学校を中退し、文芸の仕事をするようになりました。それで僕は自主映画を撮っていたことから同じ映像メディアといえる写真についての池田さんの話をできるだけ聞き逃すまいと傾聴していました。そこから知ったことは例えば、アウグスト・ザンダーやセバスチャン・サルガドという写真家です。僕はロバート・メイプルソープやロバート・キャパくらいしか当時知らなかったものですから、それらの写真を初めて見たときの感銘はいまでも忘れられません。また僕を池田さんに紹介してくれた友人・宮澤隆義にもアンリ・カルティエ=ブレッソンやアルフレッド・スティーグリッツといった往年の写真家を教えてもらいました。そういえば思想家のジャン・ボードリヤールの写真展が90年代に開かれ、それを機に『消滅の技法』(PARCO出版、1997)が出版されました。僕も食費を削って渋谷のパルコブックセンターで買い求めました。それから伊藤俊治『20世紀写真史』(ちくま学芸文庫、1992)やベンヤミン『図説 写真小史』(同上、1999)などを神保町で手に入れたと思います。
 とながながと写真にまつわる形而下の話題を語るにまかせしてきましたが、ご質問とはいささかズレてしまったようです。まあただのワナビーの自分語りだと笑ってください。それでも強引にまとめてみるなら写真にまつわる芸術論もバルトの「温室の写真」のように個人的な記憶から始めてみるしかない、そしてそれは偶然的あるいは必然的ともいえる偶発性(運命でしょうか)に支えられているということです。僕は池田さんと宮澤くんと出会うことで、柄谷の「書くことが生きることである」という言葉を血肉化できたのではないかと、あれから20年以上経ったいましみじみと述懐する次第です。つまり「芸術」もそうといえるのではないでしょうか。これは大江健三郎がフラナリー・オコナーを引いて語る「生きることの習慣」(ハビット・オブ・ビーイング)だと思います。詳しくは『大江健三郎自選短篇』(岩波文庫、2014)の自著解説にあります。「時代の精神」「人間の精神」「明治の精神」「戦後の精神」などの話はこの書簡に兆す「時代」とも無縁ではないだろうと思います。では、ここからはむしろ理論的に芸術論を考えてみます。なにかと腐されるマルクス・ガブリエルは『欲望の時代を哲学するⅡ』(NHK出版新書)で、「Geist(ガイスト)」と呼ばれる日本語では「精神」と訳されるような「自己決定」という意味のドイツ哲学の主要概念を語っています。「ガイスト=精神があなたの主体性と現実をつなぐ」というわけです。この自己決定性は各々の個人・共同体にあるわけで、その衝突・軋轢が必然的に生じることから自由意志の均衡のため社会は作られるのです。これを闘争と捉えるか社会契約と捉えるか意見の割れるところです。へーゲルには「承認の闘争」という概念があります。本来ならここでフロイトやドゥルーズを踏まえ自分の芸術論を展開したいところですが、紙幅の都合もあるので以上をもって打ち止めにします。
 では、最後に来週のえすてるさんに質問です。以前オンラインでヘルマン・ヘッセの『車輪の下』の話をしましたね。僕は100頁ほどで読みさしなのですが、芸術論を語る牧師が出てきたように記憶しています。「歴史上のキリスト」の議論などもあったはずです。できればヘッセを端緒に僕がやり残した芸術全般についての考察をしていただけると幸甚です。

松原

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